第17SS装甲擲弾兵師団
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SS第17装甲擲弾兵師団 ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン (SSだい17そうこうてきだんへいしだん―、独:17. SS-Panzergrenadier-Division "Götz von Berlichingen")は、武装親衛隊の38ある師団の1部隊である。部隊名のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは15世紀のドイツ人の騎士の名前で、戦闘で右腕を失った後、鉄の義手をつけていた英雄である。師団シンボルは、この鉄の義手を表している。 師団は、第二次世界大戦の西部戦線で活躍した。
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[編集] 編成と訓練
第17SS装甲擲弾兵師団は1943年10月フランスのポイティエールスで編成された。部隊は、訓練部隊や補充部隊、バルカン半島(ルーマニア)に住むドイツ系住民の徴兵より基幹部隊が作られ編成された。11月に場所をツールズに移し、SS中佐オットー・ビンゲが師団の編成の監督を行い、年内に戦力は4000人程度となった。1944年1月にSS少将ヴェルナー・オシュテンドルフが指揮官となった。この師団は、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥のD軍集団配下のドイツ第80軍団に配備された。
1944年2月、部隊は車両装備を欠く状態であった。第80軍団の命令で、師団は装備を充当するためにフランスの車両をかき集め始めた。3月までにほとんどの戦闘部隊は完全に自動車化された。6月1日、部隊はフランスのトゥアールにおり、兵力としては17000人いたが、戦車を所持しておらず(装甲大隊は突撃砲を装備していた)、訓練期間も22~25週間程度と短く、士官や下士官に欠く状態であった。
[編集] ノルマンディー
D-Dayの連合国の侵攻後、師団は連合国の橋頭堡を攻撃する任務を受けた。6月11日師団は、最初の敵と遭遇し戦闘になった。偵察大隊は、カランタンの町の近くでアメリカ第101空挺師団との戦闘に陥った。アメリカ軍は町を確保し、6月13日の朝に南に侵攻した。SS第37装甲擲弾兵連隊は、師団の装甲大隊所属の3号突撃砲に支援され、フリードリッヒ・アウグスツ・フライヘル・フォン・デア・ハイテの第6降下猟兵連隊が前進してきた部隊を攻撃した。 アメリカ人が「血の峡谷の戦い」と呼ぶ戦いにおいて、ドイツ軍はアメリカ第2機甲師団の戦闘コマンドAが到着し攻撃が停止するまでいくつかの空挺中隊を潰走させた。
その月の残り、師団はサン=ローとクータンセ近くのボカージュの多い地域での激しい戦闘を行った。この期間、師団は大損害を受け、7月の頭には戦力が8500人まで減少した。師団はコブラ作戦の対象となる前線におり、連合国の攻撃を止める試みにおいて多大な損害を受けた。8月6日部隊は、ルティッヒ作戦の名前で呼ばれるモーテンへの反撃に参加する命令を受けた。8月7日作戦が行われたが、8月15日攻撃は失敗し、ファレーズ包囲網となった。師団は4つのカンプフグルッペ(KGブローネ、KGグンテル、KGフィック、KGバール)に分割され、これらの小部隊はファレーズ包囲網から脱出を試みた。包囲網からの撤退により部隊はアメリカ軍との継続的な戦闘に参加し、大損害を受けた。9月1日部隊は休養と再編成のためにメッツに送られた。
[編集] メッツとザール
9月初め、師団は第49SS装甲擲弾兵旅団と第51SS装甲擲弾兵旅団を吸収し、装甲擲弾兵師団としての戦力を増強した。 しかし、補充の装甲部隊と突撃砲の到着はゆっくりであった。9月8日師団は、アメリカ第5歩兵師団とアメリカ第80歩兵師団によりモゼール川を越えて構築された橋頭堡を破壊し前線を押し戻す任務を受けた。連合国の橋頭堡をめぐる激しい戦いの後、9月13日作戦は失敗し師団はザールに撤退し、メッツを守る準備を始めた。師団はForêt De Facq近傍のザール地方での激しい戦闘を行った。9月17日Forêt De Facqは陥落し、部隊は大きな損害を受けた。10月は、アメリカ軍がFort Driantへ攻撃を行うものの、その試みは失敗する。11月8日、アメリカ空軍(USAAF)が師団司令部に対する奇襲に成功し、師団の戦闘部隊は、指揮するものがいなくなってしまった。ヒトラーは師団をメッツから撤退させた。師団の残りは休養と再編成のためにファウルクーモント近傍のマジノ線まで撤退した。この間、師団は、SS中将マックス・シモンのSS第13軍団に移管された。アメリカ軍は1944年11月22日にメッツを解放した。
[編集] 再編成とノルトヴィント
師団が11月中旬マジノ線に撤退した際、その戦力は約4000人と20台の装甲車両のみであった。1944年12月の初め師団は、再補給と再補充を受けた。装甲擲弾兵連隊はドイツ民族の兵の補充を受け完全戦力になった。これらの補充は、師団の初期の基幹部隊のものよりはるかに下回る質のものであった。これにもかかわらず、書類上では、師団は1944年の最後に完全な戦力に回復していた。シモンのSS第13軍団の一部として、師団は西部戦線におけるドイツ軍最後の不運な攻撃作戦であるノルトヴィント作戦に参加した。師団は第36国民擲弾兵師団とともに、リムリング近傍のアメリカ第44歩兵師団とアメリカ第100歩兵師団を攻撃した。この攻撃に当たり、師団は第21装甲師団より1個パンサー戦車中隊と2個38(t)火炎放射戦車中隊(第352火炎放射戦車中隊と、第353火炎放射戦車中隊)とヤクトティーゲル装備の第653重装甲猟兵大隊の補充を受けた。ドイツ軍の攻撃は支配領域を増やすことなく悪天候の元で行われたが、連合国側の損失は高いものであった。1月5日G軍集団は、師団が突破した領域を放棄する決定を行った。アメリカ第44師団、第100師団、第63師団、それにフランス第2機甲師団との激しい戦闘の後、1月13日師団はウェストウォールまで撤退した。それよりさかのぼること10日、1月3日師団の士官のほとんどが解任され、翌日代わりに軍の司令官が到着すると言う事件や、1月10日、師団の指揮官であるハンス・リングネルSS大佐はぬかるみで車を転覆させて、アメリカ第44歩兵師団と第114歩兵師団の偵察部隊の捕虜となる事件が起こった。そのため、リントネル中佐が、1月15日に師団に戻ってきて、指揮をとることになった。師団は、1月25日のノルトヴィント作戦の終わりまで、アメリカ15軍団と戦闘を続けた。
[編集] ウェストウォール、終戦
ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン師団は、アメリカ第18師団が突破する1945年3月まで、ウェストウォール(ジークフリート線)の防衛を行った。3月18日師団は、リムリンゲンより撤退し、ウェストウォールは突破された。3月22日、SS上級大佐フリッツ・クリンゲンベルグは任務中死亡した。その日、師団は全ての重装備を放棄して、ライン川を越えてドイツ側へ後退した。
4月1日まで師団の戦力は約7000人まで減少した。大きく戦力が減少したにもかかわらず、師団はニュルンベルグの防衛を任され、ドナウ川沿いのドナウヴェルトに撤退する4月24日まで戦闘を続けた。最後の戦闘は4月29日ドイツのモースブルグで行われた。師団はドイツで最も大きい捕虜収容所のシュタラグを利用してイサール川を横切って逃げる時間を稼ぐことを試みた。アメリカ第14機甲師団の司令官がその計画を知り、戦闘コマンドAがモースブルグを確保し、イザール川を越える橋を確保し、どんな犠牲を払っても連合国の捕虜を守り確保するようにに命じたことにより、その計画は失敗した。アメリカの歩兵、機甲部隊はモースブルグに入り、第17SS師団の守備拠点への攻撃を遅延無く行った。 町は短時間で、ただし激しい戦闘の末陥落した。同じ日、アメリカ第14機甲師団は7千人の捕虜を得た、そのほとんどが親衛隊であった。
1945年5月7日、師団の残りは、アーヘンゼーの近くでアメリカ軍に降伏した。
[編集] 戦争犯罪
ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン師団は、終戦間際のいくつかの熱狂的な行動による例外はあるものの、この部隊の記録は絶滅部隊の様な警察型の部隊でなく戦闘部隊であることを示していた。
近年、テレビ番組(ヒストリーチャンネル)において、「D-day隠された虐殺(D-Day: The Secret Massacre)」と言う番組が放送された。この中で、この師団がノルマンディ侵攻の初期における負傷したアメリカ空挺降下兵の殺害に関与していたのではないかと指摘している。当時、グライグネスの町近郊にアメリカ第82空挺降下師団の第507パラシュート歩兵連隊が降下し、師団の接近に伴い、アメリカ兵は負傷兵を村人に託して教会に置いて撤退した。この後、武装親衛隊の人間が負傷兵をフランス人の村人とともに殺害したと言われている。この事件では、裁判は開かれておらず、この話を証明するものは存在しない。
また、この師団の部隊のいくつかの部隊は戦争犯罪の被害者となっている。1976年、SS第38連隊第1大隊の200人の生存者は、自ら所属を明らかにした上で、アメリカ第42歩兵師団の部隊により射殺され、ヌーレンベルグの集団墓地に埋葬されたことを告発した。ほとんどが、近距離で射撃が行われ、虐殺が行われたと推測される。
[編集] 作戦地域
- 1943/10-1944/11 フランス (ノルマンディ、メッツ近郊)
- 1944/11-1945/05 ドイツ
[編集] 部隊編成と指揮官
騎士鉄十字章受賞者数:4人
構成人種:バルカン半島のドイツ系住民
[編集] 部隊名の変遷
- 1943/10-1943/12 装甲擲弾兵師団 ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン (SS-Panzergrenadier-Division "Götz von Berlichingen")
- 1943/12-1945/05 SS第17装甲擲弾兵師団 ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン (17. SS-Panzergrenadier-Division "Götz von Berlichingen")
[編集] 指揮官
- 1943/10/?? - 1944/01/?? SS大佐 オットー・ビンゲ (Otto Binge)
- 1944/01/?? - 1944/06/15 SS中将 ヴェルナー・オシュテンドルフ (Werner Ostendorff)
- 1944/06/16 - 1944/06/18 SS大佐 オットー・ビンゲ (Otto Binge)
- 1944/06/18 - 1944/08/01 SS少将 オットー・バウム (Otto Baum)
- 1944/08/01 - 1944/08/29 SS大佐 オットー・ビンゲ (Otto Binge)
- 1944/08/30 - 1944/09/?? SS上級大佐 Dr.エデュアード・ダイセンホッハーSS-Oberführer (Dr. Eduard Deisenhofer) (行方不明)
- 1944/09/?? - 1944/09/?? SS上級大佐 トーマス・ミラー (Thomas Müller)
- 1944/09/?? - 1944/10/?? SS大佐 グスタフ・メルチ (Gustav Mertsch)
- 1944/10/21 - 1944/11/15 SS中将 ヴェルナー・オシュテンドルフ (Werner Ostendorff)
- 1944/11/15 - 1945/01/09 SS大佐 ハンス・リンゲル (Hans Linger) (捕虜)
- 1945/01/09 - 1945/01/21 Oberst ゲルハルト・リンドナー (Gerhard Lindner)
- 1945/01/21 - 1945/03/22 SS上級大佐 フィリッツ・クリンゲンベルグ (Fritz Klingenberg) (戦死)
- 1945/03/22 - 1945/03/24 SS中佐 フィンゼンス・カイセル (Vinzenz Kaiser)
- 1945/03/24 - 1945/03/27 SS大佐 ヤコフ・フィック (Jakob Fick)
- 1945/03/27 - 1945/05/08 SS上級大佐 ゲオルグ・ボックマン (Georg Bochmann)
[編集] 戦闘序列
- 1945年
-
- SS第37装甲擲弾兵連隊(SS-Panzergrenadier-Regiment 37)
- SS第38装甲擲弾兵連隊(SS-Panzergrenadier-Regiment 38)
- SS第17装甲砲兵連隊(SS-Panzerartillerie-Regiment 17)
- SS第17装甲猟兵大隊(SS-Panzerjäger Abteilung 17) (1944/06に重砲大隊を改編)
- SS第17戦車大隊(SS-Panzer-Abteilung 17) (1944/12/10に編成)
- SS第17対空砲大隊(SS-Flak-Abteilung 17)
- SS第17装甲工兵大隊(SS-Panzer-Pionier-Bataillon 17)
- SS第17装甲偵察大隊(SS-Panzer-Aufklärungs-Abteilung 17)
- SS通信大隊(SS-Panzer-Nachrichten-Abteilung)
- SS第17野戦補充大隊 (SS-Feldersatz-Bataillon 17)
- SS第17補給部隊 (SS-Divisions-Nachschubtruppen 17)
[編集] 参考文献・外部サイト
- Gunther, Helmut - Das Auge der Division: Die Aufklärungsabteilung der SS-Panzergrenadier Division Götz Von Berlichingen
- Munoz, Antonio J. - Iron Fist: A Combat History of the 17. SS-Panzergrenadier-Division "Götz von Berlichingen"
- Stöber, Hans - Die Sturmflut und das Ende (3 Vol)
- Gordon Williamson, Stephen Andrew - The Waffen-SS (3) : 11. to 23. Divisions ISBN 1841765910
- Rolf Michaelis: Die Panzergrenadier-Divisionen der Waffen-SS. 2. Auflage. Michaelis-Verlag, Berlin 1998, ISBN 3-930849-19-4.
- Max Wind, Helmut Günther (Hg.): Kriegstagebuch. 17. SS-Panzergrenadier-Division „Götz von Berlichingen“. 30. Oktober 1943 bis 6. Mai 1945. Schild-Verlag, München 1993, ISBN 3-88014-106-1.
- Hans Lingner Capture Nordwind
- 17. SS-Panzergrenadier-Division „Götz von Berlichingen”
- Untergliederung der 17. SS-PGD
- Vebrechen der 17. SS-Panzergrenadier-Division
[編集] 関連項目
Divisionen der Waffen- 武装親衛隊師団一覧 |
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