第2SS装甲師団
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SS第2装甲師団 ダス・ライヒ (SSだい2そうこうしだん―、2. SS-Panzer-Division "Das Reich")は、武装親衛隊の38ある師団の1部隊である。部隊名の意味はドイツ語で、帝国と言う意味である。SS第2装甲師団は、第二次世界大戦において、よく訓練されたエリート部隊の1つで、激しい戦闘に投入された。参加した戦いはフランス戦、バルカン戦線、東部戦線、ノルマンディの戦い、バルジの戦い、そして、戦争末期のハンガリーとオーストリアでの戦闘である。師団のシンボルは、ウォルフの鉤爪(ウォルフズアングル)のルーンが起源である。
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[編集] 創設・ポーランド・フランス
ライプシュタンダルテの編成とその成長から、1939年中ごろ、ヒトラーはSS師団の形成を命じた。この時、SS連隊(SS-Standarte)は、ライプシュタンダルテ(Leibstandarte)、ドイッチェラント(Germania)、ゲルマニア(Deutschland)、デアフューラ(Der Fuhrer)の4つ存在していた。このうち、ライプシュタンダルテは第1SS装甲師団の元となり、残りがSSフェアフグングシュトルッペ(SS-Verfugungstruppe[SS-VT]、特殊任務部隊の意)師団を形成した。この師団はポーランド戦、フランス戦両者に参加した。
SS-VT師団は、フランス攻略作戦(ゲルブ作戦)に参加した。最初の任務は、ロッテルダムに対する攻撃部隊としての参加であった。ロッテルダム攻略後、師団は他の師団とともに、フランス軍を含む連合国軍をゼーラント領域に押し込む任務を受けた。次に、ドイツ軍が占領した地域で包囲されている抵抗拠点を潰す任務を受けた。師団は、フランスに移され、強固に防御された運河を突破する支援を行い、パリへの進軍に参加した。戦いの終わりには、部隊はスペインとの国境近くまで前進していた。
フランス戦後、SS-VT師団は再編成が行われ、SS連隊ゲルマニアが師団からはずされた。その代わりにSSトーテンコッフ連隊である、第11歩兵連隊が追加された。(なお、SS連隊ゲルマニアは、その後、ヴィーキング師団の基幹となった。)同時に部隊は名前をSS-VT師団から、SS師団ライヒ(SS-Division "Reich"と変更された。フランス降伏後、師団はイギリス攻略のための準備でフランスにとどまった。英本土侵攻作戦の中止により、1941年、師団はマリータ作戦(ユーゴスラビア、ギリシア侵攻作戦)のためルーマニアへ移動した。
[編集] ユーゴスラビア占領
イタリアのギリシア侵攻の失敗から、ドイツ軍のバルカン半島への介入が行われた。SS師団ライヒは、ハンガリーよりユーゴスラビアの首都ベオグラードへの進軍を行った。その中で、注目すべき戦果として、ベオグラードの占領があった。
1941年4月12日の朝、SS大尉フリッツ・クリンゲンベルグとそのオートバイ突撃中隊の部下たちは、パンチェヴォ(Pancevo)からダヌーベ川の土手沿いにベオグラードに接近した。クリンゲンベルグは都市に突入することに不安を感じており、川の増水と利用できる橋が欠けていることから直接攻撃ができず、オートバイ突撃中隊には架橋装備や浮き桟橋も欠いていた。クリンゲンベルグの部下は、川の北の土手にモーターボートを見つけ、中隊指揮官1人と2人の軍曹、5人の部下とともにクリンゲンベルグはダヌーベ川を渡った。対岸に付いた後、2人を増援のために戻し、6人でベオグラードのダウンタウンに進んだ。町に入った後、クリンゲンベルグは20人のユーゴスラビア兵の集団と遭遇し、ユーゴスラビア兵は一発も撃つことなく、降伏をした。その後、軍の車両がクリンゲンベルグの部隊と遭遇し、短い戦闘の後、ドイツ軍は車両を捕獲した。これにより、移動手段を手に入れた突撃部隊はユーゴスラビアの軍務省へ向かった。しかし、彼らがビルに到着した時、ビルは放棄されていた。おそらく、ドイツ空軍の町への攻撃により退去したものと考えられる。ベオグラードに軍の指令機能が残っていなかったため、クリンゲンベルグはベオグラードに残っていたドイツ大使館へ向かった。都市の占領を宣言するため大きな鉤十字を広げ、大使館の上に掲げた。2時間後、ベオグラードの市長が大使館を訪れ、クリンゲンベルグに都市の降伏を行った。ドイツ軍の大規模な部隊が都市に入るまで1日を待たないといけなかった。ベオグラードの占領の功績で、SS大尉フリッツ・クリンゲンベルグは騎士十字章を受けた。
ベオグラード占領後、師団はソビエト侵攻作戦の一部を担うためにポーランドへ移動した。
[編集] ソビエト侵攻(バルバロッサ作戦)
ソビエト侵攻の際、師団は中央軍集団の一員として、スモレンスク近傍のヤルニヤの戦い(Battle of Yelnya)や、モスクワ攻略作戦であるタイフーン作戦に参加した。1941年11月ドイツ軍の最高進出点である、ソビエトの首都まで数マイルの地点まで迫った。ソビエトの首都を視野に納める地点まで前進した時、天候の悪化と大きな損失とソビエトの冬季反抗により師団は押し戻された。多大な損失を被った後、師団は、前線から引き抜かれ、フランスへ送られた。師団の一部は東部戦線に残され、カンプフグルッペ・オステンドルフ(KG Ostendorf)の名前で呼ばれた。オステンドルフは1942年6月に師団の本体と合流した。1942年11月、師団の一部は、トゥーロンで、フランス海軍の自沈を防ぐ試みに参加した。その後、師団は、装甲擲弾兵師団への改変が行われ、第2SS装甲擲弾兵師団ダス・ライヒと名称変更された。
1943年の初め、ダス・ライヒはハリコフの正面の崩壊しかかっている戦線の補強に東部戦線に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、クルスク近傍での大規模な包囲作戦に参加した。ダス・ライヒは、バルジ(突起)の南側の攻撃を担い、40マイル前進したが、攻撃が中止され、他のSS師団とともに前線から引き抜かれた。師団は、その一部であるカンプフグルッペ・ダス・ライヒ(公式には、カンプフグルッペ・ランメルディンク(KG Lammerding))を東部戦線に残し、フランスに送られ再編成を行った。この時、第2装甲連隊を加え、第2SS装甲師団ダス・ライヒとなった。再編成期間中、ダス・ライヒはフランスにおいてパルチザン掃討の任務を受けた。
1943年終わりから1944年始めにかけ、ソビエトの冬季大反抗が行なわれ、中央軍集団の前線においてドイツ軍部隊が包囲されかかった。東部戦線に残したカンプフグルッペ・ランメルディンクは、ソビエトの攻撃により包囲され、第2SS装甲軍が包囲されたカンプフグルッペを救出するための攻撃をおこなった。救出されたカンプフグルッペは既にフランスにいる師団の残りと合流するためにフランスに送られた。東部戦線に残こされた僅かなダスライヒの部隊は、カンプフグルッペ・ヴェイディンゲル(KG Weidinger)と名前を変え、プロスクーロフとタルノポルを通って撤退した。
東部戦線の戦いの後、1944年2月に師団は、フランスの南部の村モントーバン(Montauban)に送られ、装備と人員の補充を受け再編成が行われた。
[編集] フランス(ノルマンディ上陸)・アルデンヌ
フランス、ノルマンディのD-Day侵攻時に、ダスライヒは、ヒトラーユーゲントと教導装甲師団と共にカーンの北方で連合軍の進撃を止める任務を受けた。師団は、モーテンを再占領したが、連合軍によりファライセポケット(包囲網)に閉じ込められた。この戦いで、損害を出しつつ、1944年の終わりまでに師団は、ドイツ・フランス国境まで撤退を行った。
1944年12月のアルデンヌの守り作戦、通称バルジの戦いにおいて、ダス・ライヒ師団は攻撃の要である第5装甲軍に所属していた。ミューゼ川を越え23マイル進んだマンヘイにおいて師団は停止し、連合国の反撃に遭遇した。その結果、作戦は失敗した。最後にバストーニュ占領のためいくつかの師団による攻勢がかけられたが、それも失敗した。このとき、ダス・ライヒの戦車指揮官であるエルンスト・バルクマンは、アメリカ軍の戦車を大量に撃破した。
[編集] ブダペスト・降伏
アルデンヌの戦いの後、ダスライヒはドイツ国内に再編成のため撤退した。ダスライヒは、東部戦線南のハンガリーのブダペストにおける反撃作戦に投入された。この作戦は、ブダペスト市内にヒトラーの死守命令により包囲された部隊を救出することが目的であった。しかし、当初の攻撃がブダペストへの最短ルートである装甲部隊の前進・攻撃に向かない地形に対して行なわれたため、部隊の前進は進まなかった。その後、遠回りであるが装甲部隊の進撃に向いている平地を経由しての攻撃が再度行なわれたが、既に時期を逸しており、作戦は失敗した。
その後、ダスライヒは再度ドイツに戻り、残りの戦争中、ドレスデン、プラハ、ウィーンでの戦闘に参加し、終戦時、師団のほとんどはアメリカ軍に降伏するため西部戦線へ移動した。
[編集] 戦争犯罪
ダス・ライヒは純粋な戦闘部隊であったため、武装親衛隊の師団の中では珍しく、ほとんどの戦争犯罪には関与が無かった。唯一の戦争犯罪の疑いがある事件は、1944年6月10日、フランス中南部・リムーザン地方のオラドゥール・シュル・グラヌの村での642人のフランス人の市民の殺害である。この殺害には、第4武装SS「デア・フューラー」("Der Führer")装甲擲弾兵連隊の第1大隊の指揮官であるアドルフ・ディークマンSS少佐が関与していていた。ドイツ軍は、その殺害までに既にその村の99人の人々を殺害していたが、彼はその地の共産主義抵抗勢力であるマキ団により40人近い兵士が死傷したことに対する、ツーレ(Tulle)近くのパルチザン活動に対する正当な処置であったと主張した。ドイツ当局は、ディークマン虐殺で起訴することを望んだが、彼は裁判を受ける前、その数日後に戦死してしまった。戦後、1953年に、フランス当局が裁判を行なったが、少数の人間しか有罪で処罰されなかった。オラドゥール・シュル・グラヌの村の跡地は戦後、廃墟のまま保存されている。
[編集] 作戦地域
- 1939/09-1940/05 ドイツ
- 1940/05-1941/04 フランス・オランダ
- 1941/04-1941/06 ルーマニア・ユーゴスラビア
- 1941/06-1942/06 ソビエト
- 1942/06-1943/01 ドイツ・フランス
- 1943/01-1944/02 ソビエト
- 1944/02-1945/01 フランス・ベルギー・オランダ
- 1945/01-1945/05 ハンガリー・オーストリア
[編集] 部隊編成と指揮官
騎士鉄十字章受賞者数:69人(72人?)
構成人種:ドイツ人
[編集] 部隊名の変遷
- 1939/10-1940/04 SSフェアフグングシュトルッペ(SS-VT)師団 (SS-Division "Verfügungstruppe")
- 1940/04-1940/12 SS師団 ドイッチェラント (SS-Division "Deutschland")
- 1940/12-1942/05 SS師団 ライヒ (SS-Division "Reich")
- 1942/05-1942/11 SS師団 ダスライヒ (SS-Division "Das Reich")
- 1942/11-1943/10 SS第2装甲擲弾兵師団 ダスライヒ (2.SS-Panzergrenadier-Division "Das Reich")
- 1943/10-1945/05 SS第2装甲師団 ダスライヒ (2.SS-Panzer-Division "Das Reich")
[編集] 指揮官
- 1939/10/19 - 1941/10/14 SS上級大将 ポール・ハウザー (Paul Hausser)
- 1941/10/14 - 1941/12/31 SS大将 ヴィルヘルム・ビトリッヒ (Wilhelm Bittrich)
- 1941/12/31 - 1942/04/19 SS大将 マティアス・クラインヘイシュテルカンプ (Matthias Kleinheisterkamp
- 1942/04/19 - 1943/02/10 SS大将 ゲオルゲ・ケップラー (George Keppler)
- 1943/02/10 - 1943/03/18 SS少将 ヘベルト・エルンスト・ファール (Hebert-Ernst Vahl
- 1943/03/18 - 1943/03/29 SS上級大佐 クルト・ブラサック (Kurt Brasack)
- 1943/03/29 - 1943/10/23 SS大将 ヴァルター・クリーゲル (Walter Krüger)
- 1943/10/23 - 1944/07/24 SS中将 ハインツ・ラメルディッヒ (Heinz Lammerding)
- 1944/07/24 - 1944/07/28 SS大佐 クリシュティアン・ティヒェン (Christian Tychsen)
- 1944/07/28 - 1944/10/23 SS少将 オット・バウム (Otto Baum)
- 1944/10/23 - 1945/01/20 SS中将 ハインツ・ラメルディッヒ (Heinz Lammerding)
- 1945/01/20 - 1945/01/29 SS大佐 カール・クロイツ (Karl Kreutz)
- 1945/01/20 - 1945/03/09 SS中将 ヴェルナー・オシュトネドルフ (Werner Ostnedorff)
- 1945/03/09 - 1945/04/13 SS大佐 ルドルフ・レーマン (Rudolf Lehmann)
- 1945/04/13 - 1945/05/08 SS大佐 カール・クロイツ (Karl Kreutz)
[編集] 戦闘序列
- 1941年 (自動車化)師団「ライヒ」
-
- SS連隊「デアヒューラー」 (SS-Regiment "Der Führer")
- SS連隊「ドイッチェラント」 (SS-Regiment "Deutschland")
- SS第11歩兵連隊 (SS-Infanterie-Regiment 11)
- SS師団ライヒ 対空機関銃大隊 (Flak-MG-Bataillon SS-Division Reich)
- SS師団ライヒ 防衛?大隊 (Kradschützen-Abteilung SS-Division Reich)
- SS師団ライヒ 砲兵連隊 (Artillerie-Regiment SS-Division Reich)
- SS師団ライヒ 装甲偵察大隊 (Aufklärung-Abteilung SS-Division Reich)
- SS師団ライヒ 装甲猟兵大隊 (Panzerjäger-Bataillon SS-Division Reich)
- SS師団ライヒ 工兵大隊 (Pionier-Bataillon SS-Division Reich)
- SS師団ライヒ 突撃重砲大隊 (Sturmgeschütz-Batterie SS-Division Reich)
- SS師団ライヒ 通信大隊 (Nachrichten-Abteilung SS-Division Reich)
- SS師団ライヒ 補給部隊 (Nachschubtruppen SS-Division Reich)
- 1943年 SS装甲師団「ダスライヒ」
-
- SS第2装甲連隊「ダスライヒ」 (SS-Panzer-Regiment 2 "Das Reich")
- SS第3装甲擲弾兵連隊「ドイッチェラント」 (SS-Panzergrenadier Regiment 3 "Deutschland")
- SS第4装甲擲弾兵連隊「デアヒューラー」 (SS-Panzergrenadier-Regiment 4 "Der Führer")
- SS(自動車化)歩兵連隊「ランゲマルク」 (SS-Infanterie-Regiment (mot) "Langemarck")
- SS第2装甲砲兵連隊 (SS-Panzer-Artillerie Regiment 2)
- SS第2対空砲兵大隊 (SS-Flak-Artillerie-Abteilung 2)
- SS第2突撃重砲大隊 (SS-Sturmgeschütz-Abteilung 2)
- SS第2ロケット砲大隊 (SS-Nebelwerfer-Abteilung 2)
- SS第2装甲偵察大隊 (SS-Panzer-Aufklärungs-Abteilung 2)
- SS第2装甲猟兵大隊 (SS-Panzerjäger-Abteilung 2)
- SS第2装甲工兵大隊 (SS-Panzer-Pionier-Bataillon 2)
- SS第2装甲通信大隊 (SS-Panzer-Nachrichten-Abteilung 2)
- SS第2補給部隊 (SS-Versorgungs-Einheiten 2)
[編集] 参考文献・外部サイト
- Reinbold, Dan "Das Reich Homepage" Retrieved April 5, 2005.
- Pipes, Jason. "2.SS-Panzer-Division Das Reich". Retrieved April 5, 2005.
- Wendel, Marcus (2005). "2. SS-Panzer-Division Das Reich". Retrieved April 5, 2005.
- "SS-Division Verfügungstruppe". German language article at www.lexikon-der-wehrmacht.de. (Follow links for the entire unit history.) Retrieved April 5, 2005.
[編集] 関連項目
Divisionen der Waffen-![]() 武装親衛隊師団一覧 |
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