第1SS装甲師団
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SS第1装甲師団 ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー (SSだい1そうこうしだん―、独:1. SS-Panzer-Division "Leibstandarte SS Adolf Hitler")は、武装親衛隊の38ある師団の1部隊である。部隊名の意味はドイツ語で、アドルフ・ヒトラーの護衛連隊と言う意味である。「ライプシュタンダルテ」の語に「連隊」「象徴となる部隊」「護衛部隊」等の意味があるため様々な訳語で呼ばれることがある。SS第1装甲師団は、第二次世界大戦における東部戦線と西部戦線両者において警備と戦闘を行った。師団シンボルは初代の指揮官ディートリッヒの名前に鍵の意味があることから、このシンボルとなった。
その名前が示すように、「ライプシュタンダルテ」は、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)におけるヒトラー個人のエリート護衛部隊として発足した。戦争に突入する1930年代において武装親衛隊の規模が拡大するにつれ、この部隊は、師団規模の装甲部隊に拡大した。部隊の派遣先は常にヒトラーにより決定されており、その部隊は当初式典用の「アスファルトの兵士」と呼ばれていたが、戦争が激化していく中で東部・西部両戦線において戦闘に参加し、戦争中最も有名な師団の1つとして知られるようになった。
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[編集] 初期(1923~1933年)
ナチス党の初期に、エルンスト・レームは、19世紀の擲弾兵部隊を参考に護衛部隊を作成した。それはすぐ突撃隊(SA)へと変化し、その規模はどんどん拡大していった。アドルフ・ヒトラーは、その突撃隊の存在への潜在的脅威に気がついており、1923年に、自分自身の護衛部隊の編成を命じた。最初の部隊は、ジュリアス・シュレックとヨセフ・ベルヒトルトに指揮されたたった8人で、シュタプスヴァッフェ(Stabswache、護衛部隊の意)と名づけられた。この時点では、その部隊は突撃隊の配下にあったにも関わらず、彼らは、突撃隊と異なった制服を着用していた。シュレックは、プロシアやドイツ帝国において、エリート部隊の象徴であった、髑髏の印を復活させた。
その後、この部隊はシュトシュトルップ アドルフ・ヒトラー(Stostrupp Adolf Hitler、突撃部隊アドルフヒトラーの意)と名を変え、1923年11月9日に、突撃隊や他のナチス党の準軍事的部隊とともに、ミュンヘン一揆に参加した。決起が失敗し、ヒトラーが収監されると、ナチス党とそれに関わる部隊(シュトシュトルップを含む)は、解散されることになった。
1924年にヒトラーが釈放されてすぐ、彼は、新しい護衛部隊を組織する。その部隊は、シュタプスヴァッフェ(Stabswache)と名づけられるが、突撃隊の配下には置かれなかった。1925年にこの部隊は、シュッツシュタフェル(Schutzstaffel,親衛隊、略号SS)と名前を変えた。1933年まで、SSは小さな個人護衛部隊から、5万人を越える組織へ成長した。その時点で、新しい護衛部隊を編成する決定が行われ、その中核を作るために最も有能で信頼できる親衛隊員が指名された。
1933年3月17日、SSシュタプスヴァッフェ ベルリン(SS-Stabswache Berlin)がヨーゼフ・ディートリッヒの指揮の下でヒトラー個人の護衛部隊として組織された。デイートリッヒは、SSシュタプスヴァッフェから120人の人間を選別した。部隊は、1933年の終わり、ベルリンのアレキサンダー・バラックスを中心に構成され、SSゾンダーコマンド ゾッセン(SS-Sonderkommando Zossen)と、120人の2つ目の部隊、SSゾンダーコマンド ユターポック(SS-Sonderkommando Juterbog)が作られた。この2つの部隊はナチス党の幹部の護衛に使用され、SSの訓練部隊として機能し、短い間ではあったが準警察的な役割も果たした。
1933年9月、2つのゾンダーコマンドは、SSゾンダーコマンド ベルリン(SS-Sonderkommando Berlin)に統合された。1933年11月、ミュンヘン一揆10周年記念の祭典で、決起の際多くのナチス党のメンバーが倒れたフェルドハーンホールにおいて、ソンダーコマンドは追悼集会に参加した。その場で、ゾンダーコマンドの全員は、ヒトラー自身への忠誠を誓い、集会の後、ゾンダーコマンドは新たな部隊名ライプシュタンダルテ アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte Adolf Hitler)を受け取った。
[編集] 火の試練~ライプシュタンダルテの拡大
1934年の初め、SS長官のハインリッヒ・ヒムラーは、ライプシュタンダルテを、ライプシュタンダルテSS アドルフヒトラー(LSSAH)に改名した。
6月の終わりにLSSAHは、最初の行動を命じられた。 突撃隊指揮官エルンスト・レームは、自分の配下の突撃隊により強力な力をつけることを要求し始めていた。ヒトラーは突撃隊をその地位に押しとどめることに決定し、ヒムラーとヘルマン・ゲーリングに命令を行った。二人の精鋭部隊、ヒムラーのLSSAHとゲーリングのランテスポリツァイグルッペ ジェネラルゲーリング(Landespolizeigruppe General Göring、「地上警備部隊ゲーリング将軍」の意)が行動に移った。LSSAHはジャーゲン・ワグナーとオットー・ライヒの指揮の下、2つの部隊を編成し6月30日にミュンヘンへ移動した。
ヒトラーは、全ての突撃隊の指揮官に、ミュンヘン近くのバドヴィッセにあるハンセルバウアーホテルで行われる会合に出席するように命令した。6月30日に、ヒトラーはLSSAHからディートリッヒ及び一部隊に合流し、レームの逮捕と処刑を命じるためバドヴィッセに向かった。ナチスはレーム・プッシェを呼び自分たちの行動の正当性の主張を行う一方で、長いナイフの夜として知られている事件を引き起こした。LSSAHの実行部隊と、ゲーリングの部隊は、数日のうちに死の部隊として、裁判なしに多くの処刑を行った。1934年7月13日までに177人の人間が処刑された。
LSSAHとゲーリングの部隊による行動は、ヒトラー支配への障害である、突撃隊による脅威を効果的に取り除くことに成功した。長いナイフの夜の「成功」の後で、LSSAHと、ゲーリングの部隊は連隊規模に拡張され、自動車化された。そのうえ、SSは突撃隊からの支配から完全に離れた。SSは新しい志願者でいっぱいとなった。LSSAHは、ヒトラーのアーリア民族至上主義を反映しており、志願者は、厳格な募集規則により、心身とも強固で、熱心なナチス党党員であり、アーリア民族である場合のみ認められた。
LSSAHはニュルンベルク集会における名誉ある護衛部隊を勤め、1935年には、ザール併合の一部を勤め、3月にはオーストリア併合(「アンシュルス」)にも参加した。ズテーテン地方の併合の役割を果たした。 1939年3月ボヘミアとモラヴィアの併合に参加した後、LSSAHは、装甲車小隊とオートバイ部隊を含んだ、自動車化された構成となった。部隊名は、SS連隊ライプシュタンダルテSSアドルフヒトラー(SS-Standarte "Leibstandarte SS Adolf Hitler")となった。
1939年1月、「ライプシュタンダルテ・ボール」がベルリン動物園で開催された。ディートリッヒは部下とともに、有名な芸人ハンス・アルバース、ハインリッヒ・ゲオルゲ、カッツェ・フォン・ナギを用いて、この祭典を企画した。このときの主賓は、ドイツ陸軍の司令長官ワルター・ブラウヒッチュだった。
ヒトラーが1939年中頃にSS師団の編成を命じた時、ライプシュタンダルテは、他のSSフェアフグングシュトルッペ(SS-Verfugungstruppe[SS-VT]、特殊任務部隊の意)であるSS連隊ドイッチェラント(SS-Standarte Germania)、SS連隊ゲルマニア(SS-Standarte Deutschland)、SS連隊デアフューラ(SS-Standarte Der Fuhrer)と異なる独自の編成をしていた。1939年10月のポーランド危機は、SS師団編成の計画を延期させ、LSSAHは、ポーランド侵攻の準備を行っていた南方軍集団のドイツ13軍団(XIII.Armeekorps)に所属した。
[編集] 戦争初期の戦い
ポーランド侵攻(1939年)の最初の段階で、LSSAHは、ドイツ第17歩兵師団の支援を受け、包囲の南側部隊の防衛を担った。連隊は、ドイツ軍前進の側面を攻撃するポーランド騎兵部隊との激しい戦いに参加した。ウッチ近郊のパビャニツェで、LSSAHはポーランド第28歩兵師団とヴォリニア(Wołyńska)騎兵旅団の一部と猛烈な白兵戦を戦った。 パビャニツェの勝利の後、LSSAHはワルシャワ近郊へ移動し、ドイツ第4装甲師団と一緒にジョージ・ハンス・ラインハルト上級大将の指揮下に配属された。そこでは、包囲から逃れ突破を試みるポーランド軍との戦闘を行った。 これらの戦闘における結果から、一部の将軍はLSSAHとSS-VTの高い犠牲率に対して保留の態度を示したが、LSSAHは戦闘においては有能な部隊であることを示した。
連隊は、ファルガルプ作戦実行のため、オランダ国境に移動した。部隊は、クルト・ステューデント上級大将指揮下の航空兵団(ドイツ第7航空師団、ドイツ第22空輸師団)の降下猟兵の支援を受け、アイセル川を横切る重要な橋の占拠の役割を担って、オランダ侵攻の陸軍の先頭にたった。
フランスとオランダ侵攻は1940年5月10日に始まった。その日、LSSAHは、目標の橋が破壊されていることを確認した後、75km前進し、ズトフェン近くでアイセル川を渡る橋を確保した。次の4日間の戦闘で、LSSAHは215kmの前進を行ない、アムステルダム近くで、不名誉にも、同士撃ちによりステューデントは重症を受けてしまった。5月14日のオランダ降伏の後、連隊はB軍集団の予備になった。
イギリス軍の機甲部隊によるアラスの反撃の後、LSSAHは、SS支援部隊(SS-VT)師団とともにダンケルク周辺部を保持し、イギリス緊急派遣部隊とフランス軍を含む包囲網の縮めるために、前線へ移動した。ウォルムハウトの近くで、LSSAHは、ヒトラーの前進停止の命令を無視し、攻撃を続け、ワッテンバーグで、イギリス軍の砲兵部隊を捕虜にした。この戦いで、連隊は大きな損失を被った。
攻撃の後、ウィルヘルム・モーンケSS大尉の指揮下のLSSAHの第2大隊は、師団長のディートリッヒが戦闘で死亡したという誤った情報を受けた。この誤報は、ウォルムハウトの虐殺を引き起こした。イギリス軍の王立ワーウィックシャー連隊第2大隊のイギリス軍の捕虜は、ディートリッヒの死に対する報復として殺害された。この虐殺が生じたことは事実ではあるが、モーンケのレベルの者が関与していたのかを知ることは不可能である。そのため、彼はこの件で裁判にかけられることはなかった([1]参照)。
ウォルムハウトでの悲劇的な事件は、LSSAHの構成員が、戦闘に関しては非常に有能であるが、政治的には偏った思想を持つ集団であることも示した。連隊は、ダンケルク近くの海岸で戦闘を終了した。
[編集] 旅団への拡大―バルカン半島での戦闘
西部戦線の戦いが終了したあと、LSSAHに対空砲(FLaK)大隊と、突撃砲(StuG)大隊が加わり、旅団規模に拡張された(しかし、名前は連隊のままであった)。
その後、1940年の後半に、あしか作戦の準備のために、連隊は強襲上陸の訓練を受けたが、英本土上陸作戦は中止となり、部隊は、ギリシアとバルカン半島侵攻の計画である、マリータ作戦の準備のため、ブルガリアに移動した。
1941年4月6日作戦は実行された、装甲集団の指揮官ゲオルグ・シュトゥーメのドイツ第40装甲軍団の一部として、LSSAHは、ドイツ第9装甲師団に続いて進軍した。連隊は、プリレップ近傍で国境を越え、ギリシア領深くへ進出した。
LSSAHは4月10日にヴェヴィを占領した。LSSAHのクルト・マイヤーSS少佐の偵察大隊は、ヴェヴィの南西クリスラ峠の抵抗を排除し、ギリシア軍の残りと英連邦軍の撤退を防止するために、カストリアへ突破する任務を受けた。ギリシア第20師団の抵抗は激しく、いくつかの文献では、SSはマイヤーが自軍の兵士の足元に手榴弾を投げて、やっとクリスラ峠を確保できたかの様な表記となっていた。[2]
フリッツ・ヴィットSS少佐の第1大隊は、クリディ峠の確保の任務を受け、ヴェヴィの南で、オーストラリア軍、イギリス軍、ニュージーランド軍からの防衛にあたった。ヴィットの大隊は補充を受け、カンプフグルッペヴィットと名前を変更した。ドイツ軍は、道から激しい抵抗を排除するのに2日もかかった。4月12日の朝にはドイツ軍は正面からの攻撃を開始し、午後の遅い時間には峠から敵兵は排除された。LSSAH第1大隊は、37人の死者と95人の負傷者のみで、520名以上もの捕虜と多数の損害を与えた。
2つの峠の陥落により、ギリシア第1軍の抵抗ラインは崩壊し、連合軍の撤退を阻止する戦いへと移った。4月20日に、ピンダス山脈における5000フィートの高さにあるメツォボ街道の激戦が終わり、ディートリッヒに対して、ギリシア第1軍の指揮官によるギリシア全軍の降伏が行なわれた。イギリス連合王国の兵は、ギリシアに唯一残った連合国の兵となり、ペロポネソス半島へコリントス運河を渡って戻らねばならなかった。4月26日にLSSAHは、パトラス湾に到着し、撤退する連合王国軍を遮断する任務を行った。ディートリッヒは、自分の連隊が湾を横切り、ペロポネソスにおけるパトラスの町を警備する任務を与えた。輸送車両が利用可能でなかったため、LSSAHは重装備の多くを残さざるを得なかったものの、釣り船を徴用し湾を横切ることに成功した。4月30日、英連邦軍の部隊は、捕虜となるか脱出した。LSSAHはアテネでの戦勝パレードで名誉ある地位を占めた。
マリータ作戦の後、LSSAHはバルバロッサ作戦の南方軍集団に加わるために、北方に移動した。
[編集] 独ソ戦(バルバロッサ)
マリータ作戦によるLSSAHの活躍後、ヒムラーは、部隊を師団規模へ拡大する様に命令を行なった。既に旅団規模の部隊であったが、部隊はSS(自動車化)師団ライプシュタンダルテSS アドルフ・ヒトラー(SS-Division (mot.) "Leibstandarte SS Adolf Hitler")と名前が変わった。名前が変わったにもかかわらず、ソビエト侵攻作戦であるバルバロッサ作戦が発動する前には、完全な師団規模に改変する時間がなかった。そのため、新しい「師団」は、まだ旅団規模のままであった。
LSSAHは、ドイツ54軍団(LIV.Armee-Korps)の予備部隊に配属された。8月に、部隊は、エワード・フォン・クライスト元帥指揮の第1装甲集団の一部である、ドイツ第3装甲軍団に移管された。この時、LSSAHは、ウマーニの戦いとキエフ占領に参加した。これらの間、部隊はマイヤーの大隊とともに、激しい戦いに積極的に参加していった。
9月の頭、クリミア半島掃討作戦の攻撃準備のため、部隊は再度ドイツ54軍団に移管された。作戦は、1941年9月17日に発動された。LSSAHは、ターテルディッチ近傍のソビエトの防御陣地へ攻撃を加えるため、ペレコプ地峡を横切る前にペレコプの町において激しい戦闘に巻き込まれた。
11月には、LSSAHは再度、第1装甲集団へ移管され、ロストフの都市攻略での激しい戦闘を行い、11月の終わりに占領した。バルバロッサ作戦の間、師団は、ソビエト領内を960kmも深く進攻した。
冬季のソビエトによる強烈な反撃は、南方軍集団の防御線をロストフから、ミウス川まで後退させた。 LSSAHは、冬の間の苛酷な環境(-40℃を以下の温度、不十分な冬季装備、1日の食事が150gのみ)で激しい防御戦闘を行っていた。これにもかかわらず、師団は持ちこたえた。春の泥濘の時期が終了した後、消耗した師団は、ロストフを再度奪回するブラウ作戦に参加し、1942年7月終わりにロストフは陥落した。
完全に消耗し戦力を保てなくなったLSSAHは、前線から引き抜かれた。師団は装甲擲弾兵師団に再編成し、第2SS装甲軍団を新たに作るため、占領下のフランスのノルマンディ地方に送られた。
[編集] ハリコフの戦い
LSSAHは1942年の残りを装甲擲弾兵師団としての再編成に費やした。 装甲部隊を大隊規模でなく、完全連隊規模で持つ4つの装甲擲弾兵師団(LSSAHと、ヴィーキング、ダス・ライヒ、トーテンコップフ)が編成された。これは、SS装甲軍団司令官、SS大将パウル・ハウサーとSS長官の努力の成果である。これは、SS装甲擲弾兵師団がその名前にもかかわらず、事実上完全戦力の装甲師団となったことを示している。同様に、師団は9台のタイガー戦車を受領し、LSSAH装甲連隊第13重戦車中隊を構成した。
スターリングラード付近の前線の崩壊と、ドイツ第6軍の包囲は東部戦線全体の崩壊が近いことを意味していた。ドン軍集団の指揮官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、ハリコフ近傍のソビエトの攻撃を止めるための増援を要求していた。
1943年1月後半、LSSAHは前線に到着し、ホーサーのSS装甲軍団の一部として、ハリコフの防衛線に投入された。彼らに面したのは、ソビエトの前進の先鋒となった軍規模の戦車軍であるポポーフ戦車集団の数百台のT-34であった。1943年2月8日から9日にかけ、LSSAHのSS少佐フィリッツ・ウィット配下のLSSAH第1装甲擲弾兵連隊は、マックス・ヴンシェ配下のLSSAH装甲連隊とともに、メレファの町の近傍で、ソビエト軍の大部隊を止めるべく、激しい遅延戦闘を行なった。師団は数週間にわたって、沢山の防衛戦を戦い抜いたが、徐々にハリコフへと押し戻されていった。
ソビエト軍に多大な犠牲を強いて、全ての敵の攻撃に耐え切ったにもかかわらず、ソビエト軍は、軍団の側面に回りこむことに成功した。2月15日に、ハウサーは、ヒトラーによる都市の死守命令を無視し、SS装甲軍団は都市を放棄し、クラスノグラードへ撤収した。次の週は、SS装甲軍団は、一連の戦闘で、ポポーフ戦車集団を全滅させた。LSSAHはこれらの戦いに参加しており、いくつものソビエト軍の師団を全滅させたり、多大な損害を負わせた。
ホウサーは、この時点で、ハリコフの奪回を命令した。LSSAH、ダス・ライヒ、トーテンコープフ装甲擲弾兵師団が攻撃の先鋒を担うことになっていた。攻撃は3月2日に始まった。LSSAHは、3つのカンプフグルッペを構成し、次の週から都市の攻撃を行った。カンプフグルッペ マイヤーは、進軍を妨害される前に赤の広場まで突入した。カンプフグルッペ ヴィットは、都市に突入する前に、デルガッチの近くでソビエトの強固な防御部隊とぶつかり激しい戦闘を行なった。 両カンプフグルッペとも混乱した戦闘の中、何度も、進軍を妨害された。そして、ヨアヒム・パイパーの指揮下のカンプフグルッペ パイパーが突破に成功し、防御線が最終的に崩壊した。3月21日、戦闘は終結し、ハリコフはドイツ軍の元に戻ってきた。カンプフグルッペはベルゴロッド近くまで突破を行った。
その戦闘においてライプシュタンダルテは4,500人の損害を受け、その犠牲者の名誉を称え、ハリコフの赤の広場は、「ライプシュタンダルテSSアドルフ・ヒトラーの広場(Platzder Leibstandarte SS Adolf Hitler)」と名前を変更した。部隊は、戦線後方に休養と再編成のため戻された。
[編集] クルスク
春の泥濘が攻撃を止め、ライプシュタンダルテは休養と再編成の時間を与えられた。1943年初め、師団は完全に再編成された。装甲戦力は、12台のタイガー戦車と、72台の4号戦車、16台の3号戦車と2号戦車、そして、31台の突撃砲である。1943年6月、第1SS装甲軍団の編成は、ハウサーSS装甲軍団が第2SS装甲軍団となることを示していた。
第2SS装甲軍団は、夏季の攻撃である、チッタデル作戦に備え、ベルゴロッドの北へ移動した。 LSSAHはダス・ライヒ装甲擲弾兵師団とトーテンコープフ装甲擲弾兵師団を伴い、ホート元帥配下のドイツ第4装甲軍の先鋒を務め、クルスクの南の側面を突破する任務を受けた。
ヴァルター・モーデル元帥配下のドイツ第9軍は、北側の側面を攻撃し、クルスクの都市の近くで2つの部隊が出会い、ソビエトの大戦力を包囲することになっていた。
第2SS装甲軍団が6月28日にその合流地点に到着し、攻撃の準備を行った。攻撃は7月5日まで行なわれ、7月4日には、左翼には第2SS装甲軍と、第48装甲軍団、右翼には第3装甲軍団が配置され、防御拠点に対する小規模な攻撃を開始した。LSSAHによる攻撃は一日中続き、工兵大隊が、塹壕にこもったソビエト兵を一掃する大攻撃を行なった。
ソビエトはルーシー・スパイ・リングをドイツ軍のOKWに潜入させ、間近に迫った作戦について、ソビエト軍司令部に連絡していた。ドイツ軍捕虜も主攻撃の行なわれる場所と目標の詳細を提供した。1943年7月5日の夜明け前、ソビエト軍砲兵は、ドイツ軍の集積ポイントに対して飽和攻撃をおこなった。この砲撃にもかかわらず、歴史上もっとも大きな空中戦と共に、ドイツ軍の攻撃はちょっとの遅れのみで実行された。この空中戦はソビエト空軍がドイツ空軍の航空機を叩き落そうとし、ドイツ空軍は防衛戦闘を行った。
LSSAHの装甲部隊は、パンツァーカイル単位で進軍し、すぐにソビエト軍の対戦車砲陣地と出くわした。モーデルの地域と異なり、ソビエト軍防御部隊の装備は精巧なものを使用していたため、反撃を遅らせ、第4装甲軍(SS装甲軍団とLSSAH)は停止することなく、突破することができた。
7月9日までに、SS装甲軍団は北に30マイル前進し、プロホロフカの近くの小さな町に近づいた。LSSAHは、再び先頭に立ち、装甲戦力を77台まで減らしていた。数台の戦車に支援されたLSSAH第2装甲擲弾兵連隊はプロホロフカへの道を強力な抵抗に遭遇しながら前進していた。その途中で、擲弾兵はコムソモレット州農場の敵を一掃し、241.6高地への攻撃を始め、7月10日の夜更けに確保することができた。
7月11日、前進は再開した。オクティアブリスキー州農場と252.2高地を占領している師団とソビエト第9親衛空挺師団の空挺降下兵相手に戦闘を行った。7月12日ソビエト軍は、プロホロフカ近くにソビエト第5親衛戦車軍を投入し反撃を行った。2つの戦車軍団は、オクティアブリスキー州農場と252.2高地近くで、前進中のドイツ軍とLSSAHに遭遇した。続く戦いは、数で圧倒するドイツ軍が大量の戦車を破壊し、ソビエト軍に多大なる損失をあたえた。この戦闘でLSSAHは軽い損害を受け、ソビエト軍の反撃がドイツ軍の前進を停止させた。師団はオクティアブリスキーに後退することを強制させられた。戦闘は13日まで続き、ソビエトの攻撃の焦点はLSSAHの左翼にいるトーテンコープフ装甲擲弾兵師団にシフトした。
作戦の中止の指示により、SS装甲軍団は引き戻され、LSSAHは前線から離れた。これは、パドリオ政府によるムッソリーニ罷免と7月10日の連合軍のシシリー島上陸による状況に対応するためで、部隊はイタリアに送られることになっていた。師団はその装甲部隊と装備をダス・ライヒ装甲擲弾兵師団とトーテンコープフ装甲擲弾兵師団に残し、イタリアへ移動した。
[編集] イタリア
師団は前線から戻り、オーストリアのインスブルックで、車両を再装備し、アルプスを越え来たイタリアへ向かった。師団は1943年8月8日にはポー川へ到着した。
LSSAHは、トリエント-ベロナ間の重要な道と鉄道接続点の守備を行った。この地域での数週間の作戦の後、師団はパルマ-レッジョ近傍の地域へ移動した。この期間、部隊は、パルチザンとの交戦を行った。 1943年9月8日のイタリアの崩壊で、師団は近くのイタリア部隊を武装解除することを命令された。9月9日にパルマにいたイタリア部隊との小さな衝突を除いて、これはスムーズに進んだ。9月19日までに、ポー川平原の全てのイタリア軍隊は武装解除された、しかし、OKWはフランス国境の近くのピエモンテで、イタリア14軍の部隊が再編成を行っているとの情報を得ていた。それに対して、SS少佐パイパーにより指揮されたLSSAH第2装甲擲弾兵連隊が、武装解除のためにその地へ送られた。クーネオ州に到着すると同時に、イタリア軍の指揮官は、パイパーの部隊に即座の退去を警告してきたが、パイパーは拒絶し、イタリア軍に攻撃を行わせた。パイパーの大隊は熟練兵で構成されており、激戦でイタリア軍を打ち破り、残りのイタリア軍部隊を武装解除した。
イタリアの崩壊と降伏により、パルチザンの活動は、各地で活発となった。LSSAHはイストリア半島に送られて、対パルチザン作戦に従事した。イタリアにいる期間に、LSSAHは完全な装甲師団として再構成され、第1SS装甲師団ライプシュタンダルテSSアドルフヒトラー(1.SS-Panzer-Division "Leibstandarte SS Adolf Hitler")と名称変更した。東部戦線の状況悪化により、11月初めに師団をロシア戦線に送ることが決まり、11月中旬に、部隊はジトーミルに到着した。
[編集] 東部戦線
部隊は、ジトーミル付近の戦線を維持しようとしている第4装甲軍の一部である第48装甲軍団の所属となった。師団はいくつかのカンプフグルッペに分割され、いくつかの任務に割り当てられた。11月18日、カンプフグルッペフレイは、コッチェロボ近くの町で第5親衛戦車軍の前進を止めた。次の2ヶ月、師団は、ジトーミル地域で激しい戦闘に巻き込まれ、第48軍団が前線を維持するために必要な火消し任務を行っていた。
1944年1月、LSSAHの第101SS装甲大隊のタイガー戦車の指揮官ミヒャエル・ヴィットマンに、ソビエトの戦車旅団による攻撃を停止させた行動に対して柏葉騎士十字章が与えられた。師団は、チェルカスイのエリアに移動し、第1装甲軍の一部である第3装甲軍団の所属となった。
1944年2月シュテメマン軍団の56,000人がコルスン包囲網に包囲された際、LSSAHと第3装甲軍団の残りと第47装甲軍団はソビエトの前線を突破し、包囲された戦力を救助する命令を受けた。これに対しヒトラーが介入し、2つのソビエトの前線を逆包囲するという不可能な命令を行った。ドクター・フランツ・バケ少佐の503重装甲大隊とともに、LSSAHは攻撃の正面に立った。最初の前進にもかかわらず、攻撃はソビエトの4つの戦車軍団の抵抗とラスプティツァ(rasputisa)の泥濘により前進は停止した。LSSAHは消耗しつつも、グニロイ・ティキッチ川に到達することができ、そこに小さな橋頭堡を構築した。2月の終わりまで包囲網の残存部隊は橋頭堡を経由して脱出し、戦闘は終了した。
LSSAHの主力はベルギーに移動し、休養と再編成を行った。しかし、カンプフグルッペは残された。3月22日、第1装甲軍団全体は、カネベッツ・ボドルスキー包囲網の中に残された。LSSAHのカンプフグルッペは、包囲網を脱出するための激しい戦いに参加し、1944年4月6日にはブチャッチ近くで第2SS装甲軍団との接続部分を作った。カンプフグルッペの消耗した残りはベルギーに休養のために送られ、師団の残りに合流した。
[編集] ノルマンディ
- '訳注:元の英文自体が状況整理ができていません。
ノルマンディーでのLSSAHの最も重要な役割は、グッドウッド作戦に対しての対応であった。7月18日に開始された作戦において、3つの英国機甲師団は、側面に歩兵の支援を受け、カーンとその東の高地の間の隙間を抜けて、ドイツ軍を包囲する予定になっていた。そこで、彼らはブルギバスで丘を横切り、広がった平地へ突破しなくてはいけなかった。作戦は2,500機の航空機による3時間の爆撃により開始され、ドイツの歩兵部隊を混乱させ、その武器であるMG42を振動により故障させ、装甲部隊を地面で破壊した。
その後すぐ、イギリス軍の戦車が最初の目標に向かい進軍した。SS第1装甲連隊の第2カンプフグルッペは、ガーセルスの近くの森に位置しており、ソリヤーズにいる英国軍を攻撃する命令を受けた。SS中尉マルコメスは、13台のパンサー戦車でブルギバスの方向に進軍し、村の南南東の方向に60台の敵戦車を発見した。彼は、その敵を攻撃し、20台を破壊し、ソリヤーズを確保した。12時頃に、SS第1装甲連隊第1大隊の46台のパンサーは第11機甲師団の第29機甲旅団と戦闘に入った。LSSAHの主力は、予備としていたファライセから前線に殺到した。17:00頃、左翼のイギリス軍の攻撃を停止させた第21装甲師団とともに、反撃が始まった。イギリス軍は126台の破壊された戦車を残しカーンに撤退した。
7月19日、最初のうちは散発的な戦車による突撃が行われていたため、グッドウッド作戦が中止になったかの様であった。しかし、13:00に英国軍は再度増援を送り込み攻撃を開始した。彼らは、波のように大量の戦車でドイツ軍部隊を蹂躙し激しい攻撃を行った。しかし、シャーマン戦車やファイヤーフライ戦車、クロムウェル戦車が16時頃ブルギバス近くの丘に近づくと、部隊は次々攻撃をうけ大損害を受けた。この時、LSSAHのパンサー戦車は丘の上のポジションを保持していたのだった。15時間を過ぎると、SS第12装甲師団の一部が到着し右翼に配備された。英国軍は自分たちの橋頭堡から抜け出すことができず、9km拡大したのみであった。カーンはドイツ軍の手中にあった。彼らは、493台の戦車と4011人の人的損害を受けた。
このドイツ軍の勝利にもかかわらず、数の優勢により、5日後アメリカ軍は橋頭堡から進撃する機会が生じた。増援部隊の欠如、日中の移動の妨害、乏しい補給により、ドイツ軍の防御は弱体化し、消耗が激しい戦闘を維持することができなかった。アメリカ軍は開けた土地を、一部隊はアヴランシェへ、他の部隊は、サン・ローを包囲するように突破していった。ヒトラーは、撤退を許さず、彼の考えが正しければ、その代わりに突撃を命じた。 LSSAHは他の4つのSS装甲師団と国防軍の3つの装甲師団とともに、8月5日と6日に集積ポイントに集まった後、8月7日に攻撃を開始した。2つの装甲擲弾兵大隊、1つの工兵中隊、1つの対空砲大隊とともに、SS第1装甲連隊が攻撃に使用された。その日の天候は飛行に適しておらず、連合軍が攻撃が来ることを知っていたにも関わらず、初期の攻撃は順調に進んだ、ダスライヒはモーテンを再占領し、パイパー配下の装甲部隊のカンプフグルッペは、ボーロピンに接近したが、大量の連合軍の航空機の来週により攻撃は停止した。再度の攻撃が翌日に行われたが、それは失敗した。
SS第2装甲擲弾兵連隊第10中隊SS中尉プロイスはどうしようもない事態が生じていることを記述していた。
- 我々が撃ち落した戦闘爆撃機が、戦車の上に落下し、戦車を破棄したと言うのは事実である。しかし、ほとんどの戦車は、数時間続いたこの強力な空軍の爆撃の犠牲になった。戦うことのできる擲弾兵は隠蔽物を抜けて左右に展開した。彼らは、幸運であった。それは、頭の上を蜂のように飛び交っている爆撃機が、人間より目立つ目標を探していたためである。私は彼らの考えに同意する。私はパイパーが致命的な攻撃を受けたことを聞いた。第3連隊の第2大隊の指揮官であるディーフェンサルは彼の右横に爆弾が落ち聴力を失った。クールマンは再攻撃のために移動することもできなかった。私の部下の勇敢な伝令である、シュトゥルムマン・ホルスト・ライニッケンは、我々が命令する軍の装甲大隊の指揮所に到達しようとする前に殺された。彼は、装甲大隊に指揮官と副官が我々の隠蔽物から遠くないところで倒れて死んでいると言うことを伝えようとしていたのだった。
その後、ノルマンディでの戦闘は終結した。LSSAHはアメリカ軍とイギリス軍にファレーズ包囲網と呼ばれる場所に包囲された。しかし、それまで部隊は小さなカンプフグルッペに減っていたのだった。第7軍の指揮官であるハウサーはフォン・クルーゲ(西部方面軍指揮官、フォン・ルントシュテットの後継者)により、彼の管理する装備と人員である第2SS装甲軍団(ホーヘンシュトウフェンとフルンツベルク)を包囲網から撤退させることを命じた。総統はこの包囲網から撤退する許可を与えていなかったため、部隊自体の意思によることとなった。LSSAHは、8月22日戦車や砲兵が戦闘ができない報告を受けた後、下級指揮官や指揮官が小さなカンプフグルッペを導いて、包囲網を突破して、撤退した。 これらの一連の戦いでLSSAHは5000人近い損害を受けた。
[編集] アルデンヌの戦い(ラインの守り作戦)
東部戦線でも西部戦線でもドイツ軍の敗北は決定的な状況となっていた。ヒトラーは最後に残った装甲予備戦力で、1940年のフランス戦の再現を狙い、英米との単独講和を行う実現不可能な夢を見ていた。将軍たちの反対もあったが、ルクセンブルグ近傍のアルデンヌの森を突破し、ムーズ川を渡りアントワープ、ブリュッセルを占領する作戦(ラインの守り作戦、通称バルジの戦い)が実行された。主力攻撃部隊は第6装甲軍と第5装甲軍で、LSSAHは、ヒトラーユーゲントとともに、第6装甲軍のSS第1装甲軍団に所属していた。
最初の計画では、LSSAHはムーズ川流域のアメィ、ヒュイの2つの町を占領しムーズ川を渡るとされていた。師団はいくつかのカンプフグルッペに分割され、12月16日攻撃が開始された。前線のアメリカ第106師団は奇襲と圧倒的な装甲兵力に壊滅し、前線の突破を許したものの、地形の困難さに加え連合国の航空支援を避けるため悪天候時での作戦であったため、各道路では渋滞が生じ装甲部隊の進軍は中々進まなかった。夕方、カンプフグルッペ パイパーに前進命令が下り、12月17日には前線を突破しパイパーはスタブローを、カンプフグルッペ ハンセンはべヒットを確保した。翌日の12月18日にはパイパーはストゥーモンを経由し、ワルボモント近くまで前進するものの、アメリカ第10歩兵師団に進路をふさがれ、ラ・グレイズ近傍に撤退した。LSSAHの主力もスタブロー近傍に到着したが、北にはアメリカ軍の増援(第30歩兵師団)が到着してスタブローが奪回された。師団の進路正面には第10歩兵師団が、北には第30歩兵師団、南には第7機甲師団が存在し、包囲の危険が迫っていた。並進する予定のヒトラーユーゲントはヴィッテンバッハ近傍でのアメリカ第1師団の抵抗にあい作戦は頓挫していた、LSSAH救出のためヒトラーユーゲントは作戦を中止し、南部へ転進したが、既にパイパーは包囲され、ストゥーモン近傍でアメリカ第3機甲師団との戦闘で大きく消耗していた。12月23日天候が回復し、連合国の航空支援が再開するとドイツ軍の進軍は停止し、パイパーは撤退を決定した、これによりパイパーの部隊は重装備をほとんど失い、事実上パイパーの部隊は全滅した。南では第5装甲軍配下の第47装甲軍団の進軍によりバストーニュが包囲されていたが、12月26日アメリカ第4機甲師団の活躍により包囲が解かれた。LSSAHは、ヒトラーユーゲント、ホーエンシュタウフェンと共に12月28日から1月2日にかけて、再度バストーニュ包囲を試みようと攻撃を行ったが、損失を出すだけで、作戦は失敗した。
1月23日作戦の中止が決定される。これによって、ドイツ軍が残す最後の予備兵力を使用してしまうこととなった。
[編集] 春の目覚め作戦・降伏
攻撃に失敗し、LSSAHは、オーストリアに移動し、終戦時アメリカ軍に降伏した。
[編集] 作戦地域
- 1939/09-1939/?? ポーランド
- 1939/??-1940/05 ドイツ国内
- 1940/05-1941/04 フランス
- 1941/04-1941/?? ブルガリア・ユーゴスラビア・ギリシア
- 1941/??-1942/07 ソビエト
- 1942/07-1943/01 フランス
- 1943/01-1943/07 ソビエト
- 1943/07-1943/11 オーストリア・イタリア
- 1943/11-1944/04 ソビエト
- 1944/04-1945/03 ベルギー・フランス・ドイツ西部
- 1945/03-1945/05 ハンガリー・オーストリア
[編集] 部隊編成と指揮官
騎士鉄十字章受賞者数:58人
構成人種:ドイツ人
[編集] 部隊名の変遷
- 1923/??-1923/?? シュタプスヴァッフェ (Stabswache) (突撃隊配下)
- 1923/??-1923/11 シュトシュトルップ アドルフ・ヒトラー(Stostrupp Adolf Hitler) (突撃隊配下)
- 1924/??-1925/?? シュタプスヴァッフェ (Stabswache) (突撃隊非配下)
- 1925/??-1933/03 シュッツシュタッフェル (Schutzstaffel)
- 1933/03-1933/05 SSシュタプスヴァッフェ ベルリン(SS-Stabswache Berlin)
- 1933/05-1933/09 SSゾンダーコマンド ゾッセン(SS-Sonderkommando Zossen)
- 1933/05-1933/09 SSゾンダーコマンド ユターポッグ(SS-Sonderkommando Juterbog)
- 1933/09-1933/11 SSゾンダーコマンド ベルリン(SS-Sonderkommando Berlin)
- 1933/11-1934/?? ライプシュタンダルテ アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte Adolf Hitler)
- 1934/??-1939/03 ライプシュタンダルテSS アドルフヒトラー(Leibstandarte SS Adolf Hitler,LSSAH)
- 1939/03-1941/?? (自動車化)歩兵連隊 ライプシュタンダルテSS アドルフ・ヒトラー (Infanterie-Regiment (mot.) Leibstandarte SS Adolf Hitler)
- 1941/??-1942/11 SS(自動車化)師団 ライプシュタンダルテSS アドルフ・ヒトラー (SS-Division (mot.) Leibstandarte SS Adolf Hitler)
- 1942/11-1943/10 SS装甲擲弾兵師団 ライプシュタンダルテSS アドルフ・ヒトラー(SS-Panzergrenadier- Division Leibstandarte SS Adolf Hitler)
- 1943/10-1945/05 SS第1装甲師団ライプシュタンダルテSS アドルフ・ヒトラー (1.SS-Panzer-Division Leibstandarte SS Adolf Hitler)
[編集] 指揮官
- 1938/08/15 - 1943/04/07 SS上級大将 ヨーゼフ・ディートリッヒ (Josef Dietrich)
- 1943/08/15 - 1944/08/20 SS少将 テオドール・ヴィッヒ (Theodor Wisch)
- 1944/08/20 - 1945/02/06 SS少将 ヴィルヘルム・モーンケ (Wilhelm Mohnke)
- 1945/02/06 - 1945/05/08 SS少将 オットー・クム (Otto Kumm)
[編集] 戦闘序列
- 1940年 (自動車化)歩兵連隊「ライプシュタンダルテSSアドルフ・ヒトラー」
-
- 第1突撃部隊 (I. Sturmbann)
- 第2突撃部隊 (II. Sturmbann)
- 第3突撃部隊 (III. Sturmbann)
- 第4警備部隊 (IV. Wachtbatallion)
- 砲兵連隊 (Artillerie-Regiment)
- LSSAH装甲偵察小隊 (Panzerspäh-Zug "LSSAH")
- LSSAH通信突撃小隊 (Nachrichtenzug Nachrichtensturmbann "LSSAH")
- LSSAHオートバイ指揮小隊 (Kradmeldezug "LSSAH")
- LSSAHオートバイ小隊 (Kraderkundungszug "LSSAH")
- LSSAH突撃工兵小隊 (Pionierzug Pioniersturm "LSSAH")
- 装甲突撃大隊 (Panzer-Sturm-Batterie)
- LSSAH軍楽隊小隊 (Musik-Zug "LSSAH")
- LSSAH軽歩兵中隊 (Leichte Infanterie-Kolonne "LSSAH")
- 1942年 装甲擲弾兵師団「ライプシュタンダルテSSアドルフヒトラー」
-
- LSSAH 第1歩兵連隊 (Infanterie-Regiment 1 LSSAH)
- LSSAH 第2歩兵連隊 (Infanterie-Regiment 2 LSSAH)
- LSSAH 装甲連隊 (Panzer-Regiment LSSAH)
- LSSAH 砲兵連隊 (Artillerie-Regiment LSSAH)
- LSSAH 偵察大隊 (Aufklärungs-Abteilung LSSAH)
- LSSAH 装甲猟兵大隊 (Panzerjäger-Abteilung LSSAH)
- LSSAH 突撃砲大隊 (Sturmgeschütz-Abteilung LSSAH)
- LSSAH 対空砲大隊 (Flak-Abteilung LSSAH)
- LSSAH 工兵大隊 (Pionier-Bataillon LSSAH)
- LSSAH 装甲通信大隊 (Panzer-Nachrichten-Abteilung LSSAH)
- LSSAH 補給部隊 (Versorgungs-Einheiten LSSAH)
- 1943年 装甲師団「ライプシュタンダルテSSアドルフヒトラー」
-
- SS第1装甲連隊 (SS Panzer-Regiment 1)
- SS第1装甲擲弾兵連隊LSSAH (Panzer-Grenadier-Regiment 1 "LSSAH")
- SS第2装甲擲弾兵連隊LSSAH (Panzer-Grenadier-Regiment 2 "LSSAH")
- SS第1装甲砲兵連隊 (SS Panzer-Artillerie-Regiment 1)
- SS第1対空砲大隊 (SS Flak Artillerie-Abteilung 1)
- SS第1ロケット砲大隊 (SS Nebelwerfer-Abteilung 1) (1944年9月時点)
- SS第1突撃砲大隊 (SS Sturmgeschütz-Abteilung 1)
- SS第1装甲偵察大隊 (SS Panzer-Aufklärungs-Abteilung 1)
- SS第1装甲猟兵大隊 (SS Panzerjäger-Abteilung 1)
- SS第1装甲工兵大隊 (SS Panzer-Pionier-Bataillon 1)
- SS第1装甲通信大隊 (SS Panzer-Nachrichten-Abteilung 1)
- SS第1補給部隊 (SS Versorgungs-Einheiten 1)
- SS第野戦補充大隊 (SS Feldersatz-Bataillon 1) (1944年10月時点)
[編集] 参考文献・外部サイト
- Ralf Tiemann and Rudolf Lehmann, The Leibstandarte - Volumes I - IV/2 (J.J.Fedorowicz Publishing).
- Michael Reynolds, Steel Inferno: I SS Panzer Corps in Normandy (New York: Sarpedon, 1997, ISBN 1-885119-44-5; Staplehurst, Kent : Spellmount, 1997, ISBN 1-873376-90-1).
- Herbert Walther, The 1st SS Armored Division: A Documentation in Words and Pictures (West Chester, Pa.: Schiffer Pub., 1989, ISBN 0-88740-165-1).
- James J. Weingartner, Hitler's Guard: The Story of the Leibstandarte SS Adolf Hitler, 1933-1945 (Carbondale, Southern Illinois University Press, 1974, ISBN 0-8093-0682-4).
- Rupert Butler, SS-Leibstandarte: The History of the First SS Division, 1934-45 (Staplehurst, Kent: Spellmount, 2001, ISBN 1-86227-117-8).
- Michae; Schadewitz, The Meuse First And Then Antwerp (J.J.Fedorowicz Publishing) ISBN 0-921991-44-4.
- Danny Parker The Last Gamble -スタディブック- (Hobby Japan Co.Ltd,)
- 1.SS-Panzer-Division Leibstandarte Adolf Hitler at Feldgrau.com.
- 1. SS-Panzer-Division Leibstandarte SS Adolf Hitler at Axis History Factbook.
- Leibstandarte SS
- Leibstandarte "Adolf Hitler" - Waffen SS, miscellaneous photos and Information.
- 1.SS Panzer Division Leibstandarte the premier LAH reenacting unit.
[編集] 関連項目
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