第7師団 (日本軍)
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第7師団(だいななしだん)は旧日本陸軍の師団の一つ。鎮台を基に編成されたそれまでの既存師団(第1~第6師団)とは異なり、第7師団は1885年(明治18年)に北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された屯田兵を母体として編成されている。補充担任は旭川師管区で、北海道内を旭川連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・釧路連隊区と4つに分けて徴募に当たり、建前としては北海道の兵士で構成されるわけだが北海道は人口が希薄であった為1万の兵力は捻出できず、東北地方出身の兵も加えられた。1896年(明治29年)5月に編成された第7師団は、1904年(明治37年)日露戦争に出征し、旅順攻略戦・奉天会戦に参加する。1917年(大正6年)から2年間満州に駐屯し、シベリア出兵に参加。その後も1934年(昭和9年)・1936年(昭和11年)・1938年(昭和13年)と満州に派遣され、1939年(昭和14年)にはノモンハン事件でソ連軍と交戦した。 太平洋戦争が始まると、1942年(昭和17年)所属の歩兵第28連隊を基幹に一木支隊を編制しガダルカナル島に派遣するが、支隊長が戦死する程の被害を蒙る(ガダルカナル島の戦い)。派遣時2500名の兵力も帰還できたのは僅か140名だった。師団本体はそのまま北海道の防衛にあたり、終戦を迎えた。
[編集] 師団概要
[編集] 歴代師団長
- 永山武四郎:1896年(明治29年)5月12日
- 大迫尚敏:1900年(明治33年)4月25日
- 上田有沢:1906年(明治39年)7月6日
- 上原勇作:1908年(明治41年)12月21日
- 林太一郎:1911年(明治44年)9月6日
- 宇都宮太郎:1914年(大正3年)5月11日
- 藤井幸槌:1916年(大正5年)8月18日
- 内野辰次郎:1919年(大正8年)11月25日
- 国司伍七:1923年(大正12年)8月6日
- 渡辺錠太郎:1926年(大正15年)3月2日
- 新井亀太郎:1929年(昭和4年)3月16日
- 佐藤子之助:1931年(昭和6年)8月1日
- 杉原美代太郎:1933年(昭和8年)8月1日
- 宇佐美興屋:1935年(昭和10年)8月1日
- 三毛一夫:1936年(昭和11年)3月23日
- 園部和一郎:1937年(昭和12年)8月2日
- 国崎登:1939年(昭和14年)8月1日
- 鯉登行一:1941年(昭和16年)11月6日
[編集] 最終所属部隊
- 歩兵第26連隊(旭川)
- 歩兵第27連隊(旭川)
- 歩兵第28連隊(旭川)
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