精神医学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
精神医学(せいしんいがく、英Psychiatry)は医学の一分野で、各種精神疾患に関する診断、治療、研究を行うものである。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 古代・中世
古代ギリシアではてんかんは神聖病と呼ばれていたが、ヒポクラテスはこれを否定した。
中世ヨーロッパでは精神病患者は悪魔憑きと呼ばれ迫害された。大衆の見世物にされることもあった。 日本では平安時代には、物狂い、狐憑きと呼ばれ、江戸時代初期から、きちがい(幾知可比)という用例もみられる。
[編集] 19世紀
精神医学(Psychiatrie:ドイツ語)という言葉は、1808 年にドイツの医学者ライルJ.C.Reilによってつくられた。 その発端は、啓蒙思想の残響を受けながら18 世紀後半から 19 世紀前半に取り組まれた精神病者の解放運動によって徐々に構築されていったものである。それまで精神病者は「狂人」として、収容施設や療養院に拘束され非人間的な処遇を受けていた。(ガス室で虐殺されることさえあった。)これに対して、ヨーロッパ各地に精神病者へのこうした非人間的処遇に反対して立ち上がる人が登場した。 たとえばイギリスのヨーク市に理想的な施設「ヨーク・リトリートYork Retreat」をつくったクエーカー教徒の商人チューク、「狂者を直接に治すことができるのは精神治療しかない」として収容所の改革を説いた前述のライル、バイロイト近郊の施設を模範的な精神病院に建てかえ、病者と生活を共にした同じくドイツの医師ランガーマンJ.G.Langermannらがその例である。その中でも特にフランスのピネルが、1793 年に、パリ近郊のビセートル病院で患者を鉄鎖から解放した事績は有名である。ピネルは精神病院の改革者として行動すると同時に、 1801 年には『精神疾患に関する医学‐哲学的論考』を著して「近代精神医学の父」とみなされている。
精神医学が今日的な意味の学問体系を指すようになるのは、 1850 年ごろからヨーロッパ各地の大学医学部が必要な講座としてこれを設置しはじめてからである。当時の精神医学は、「精神病は脳病である」(W.グリージンガー)という言葉が象徴するように,疾患の本態を脳内に求める身体論的方向をめざすものだった。精神疾患は、こうして神経学者たちの専門となった。またその一方で,遺伝・素因・体質などの要因を重視する内因論の方向が、19世紀末にクレペリン、クルト・シュナイダーらにより、症状に基づいた疾病単位の分類をなしとげて一応の完成にいたった(記述的精神医学)。
[編集] 20世紀以降
20 世紀に入るとともに、力動的な症状論を展開するE.ブロイラー、精神分析を創始したフロイト、現象学の導入により方法論を整備したカール・ヤスパースら、新たな勢力が台頭した。とくにフロイトによる、疾患を無意識の力動や生育早期の外傷体験など心因によって理解・分類し、それを言語的に解釈することによって治療するという精神分析の流れが精神医学にも浸透し、20世紀中葉のアメリカ合衆国を中心にかなりの隆盛を見せた。精神分析学を基礎とする精神医学は力動的精神医学と呼ばれる。
1950年代に入って、向精神薬の開発により、生物学的精神医学はようやく実用的レベルの段階に達した。1949年にリチウムに抗躁作用があることが見つかり, 1952年にクロルプロマジン(従来は麻酔前の人口冬眠に使用していた薬であるが)とレセルピンが作られ,これらに劇的な抗精神病作用があることが分かった(この年をもって精神薬理学誕生とされることがある)。さらに、1958年には最初の抗うつ薬であるイミプラミンが合成された。精神薬理学の発達はその後、治療だけでなく,精神疾患のメカニズムの一部、特に中枢神経内での薬物作用の機序についての知識(神経生化学)を急速に発展させることになる。一方、治療面では、向精神薬の登場で、精神分裂病(2002年より統合失調症に改称)の幻覚妄想をかなりの確率で抑制できるようになり、それまで精神病院で一生過ごすしかなかった患者が退院できるようになった。これが1960年代からの社会防衛的入院から外来治療への転換を生んだ。
米国精神医学会(APA)による診断基準「DSM」の第1版、第2版では、記述的分類と病因に基づいた分類が混在していた。当時は、科学の発展に伴っていずれは各々の精神疾患に対する脳の障害部位が特定されていくものと期待されていたからである。しかし、現代においても病因が完全に解明されている疾患は少ないため、 DSM第3版(DSM-III)では、症状に基づいた分類が採用された。現在臨床で用いられているDSM第4版(DSM-IV)や国際疾病分類第10版(ICD-10)もその流れに続いている。力動精神医学は1960年代まではアメリカを中心に盛んに行われていたが、DSM(第3版以降)に代表される記述的診断の台頭や生物学的精神医学の進歩に伴い、精神医学における精神分析療法の重要度は低下し、薬物療法や認知行動療法を中心とした治療が重要視されている。
しかし1990年代後半以降、人格障害、摂食障害、PTSDなど、薬物療法のみでは治療が困難な疾患が増加する傾向を受けて、再び力動的精神医学が着目され始めている。また、精神科加療中の患者の重大犯罪などをきっかけとして、各種発達障害、触法患者の処遇の問題などが新たに着目されている。また他の医学領域と同様に、 根拠に基づいた医療が求められている。
[編集] 治療
現在行われている治療法は、主として以下のようなものがある(保険診療で認められていないものも含む)。疾患の種類や状態により用いられる治療法は異なる。
- 脳に直接作用する治療
- 薬物療法、電気けいれん療法、経頭蓋磁気刺激、光療法、断眠療法
- 言語のやり取りを主とする治療
- 非言語的なやり取りを主とする治療
- 社会的な治療
- 家庭環境や職場環境の調整、デイケア、断酒会など
[編集] 精神医学の下位分類
精神医学にも、以下のようにより専門的な様々な分野がある。
- 乳幼児精神医学
- 児童思春期精神医学
- 産業精神医学
- 老年精神医学
- 睡眠精神医学
- 精神薬理学:向精神薬の研究・開発を行う。
- 力動的精神医学:精神分析を理論的基礎とする精神医学。
- リエゾン精神医学:身体疾患を抱えた患者の心理的ケアを、身体科のスタッフと協力しながら行うという分野。
- 司法精神医学
- 犯罪精神医学
- 文化精神医学
[編集] 根拠に基づいた精神医学
精神医学においても「根拠に基づいた医療」が求められている。これはある介入と、そのアウトカム(結果)の因果関係を求め、介入の有効性を評価するというものである。他の医学領域では、評価するアウトカムとして、数値で表すことのできる生体データを用いることが多い。しかし、精神科領域ではこのような客観的なデータが得られにくいため、重症度を評価する評価尺度の点数や、自殺の有無、入院期間などをアウトカムとして用いている。
これらのデータに基づき、うつ病、躁うつ病、統合失調症については米国精神医学会(APA)などのガイドラインが作成されている。
重症度の評価尺度として、以下のようなものが臨床および研究にて使用されている。
- 主にうつ病の評価に用いられるもの
- ハミルトンうつ病評価尺度(HAM-D)、ベックうつ評価尺度(BDI)、モンゴメリー・アズバーグうつ病評価尺度(MADRS)など
- 躁状態の評価に用いられるもの
ヤング躁症状評価尺度
- 統合失調症などの評価に用いられるもの
- 簡易精神症状評価尺度(BPRS)、陽性・陰性症状評価尺度(PANSS)など
- 強迫症状の評価に用いられるもの
- エール・ブラウン大学 強迫性障害評価尺度(YBOCS)
- 薬剤の副作用を評価するもの
- 薬原性錐体外路症状評価尺度(DIEPSS)、Barnesアカシジアスケール、異常不随意運動評価尺度(AIMS)など
- 前頭葉機能を評価するもの
- Wisconsin card sorting test、Stroopテスト、Go/NoGoテスト、言語流暢性試験など
- 知能を評価するもの
- ウェクスラー成人知能検査(WAIS-R)など
[編集] 昨今の問題と今後の課題
以前に比べれば研究も進んでおり、かつて横行していた「社会からの隔離」目的の入院はほとんどなくなってきている。しかし、未だに「精神病院に行ったほうがいい」などという言葉が相手を侮辱する意図で使われていることからもわかるように、患者に対する偏見は根強く、精神病患者=頭がおかしい危険人物という誤解も見られる。実際に罹患している患者の症状が快方に向かっても、責任を恐れた病院側がなかなか外出・退院の許可を出さず、いたずらに入院が長期化してしまうこともある。閉鎖病棟における身体の拘束に対しては、場合によるが人権侵害との批判も強い。
その他、海外には無闇な投薬によって家族を廃人同然の状態にされてしまったことを批判するサイトもある。現在の精神医療においては効果が否定されており、行われることはないが、日本においてもロボトミー殺人事件などの悲惨な事件が起きたことがある。
治療だけでなく診断の問題もある。精神疾患には診断が難しく、患者であっても自分が患者ではないと思い込んでしまう(これを「病識がない」という)ことがあるのは一般に知られている。が、それは裏を返せば患者でない人間が誤診を受けてしまった場合、本人が抗弁の機会を失うことをも意味する。かつては同性愛が精神病とされていたように、根拠の曖昧なまま「治療」の錦の御旗の下に「幽閉」されてしまう危険性もないとはいえない。精神医療の情報の不透明性を問題視する向きもある。
無論、「精神科=患者を社会から隔離する恐ろしい場所」と断じるのもまた早計ではある。肉体の疾患に比べれば精神の疾患は診断法・治療法・研究・患者の人権への配慮・社会の理解などが遅れていると言わざるを得ず、様々な面で今後に期待が持たれているのは確かである。
[編集] 精神医学における研究分野
心理学的研究、精神力動的研究、分子生物学的研究、遺伝子研究、疫学研究、画像研究(脳機能画像研究など)、社会精神医学、司法精神医学、感性制御技術