荒尾市交通局
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荒尾市交通局(あらおしこうつうきょく)は、熊本県荒尾市が1949年から2005年にかけて運営していた交通事業を目的とする地方公営企業である。
目次 |
[編集] 歴史
- 1949年2月1日 乗合バス事業開始。
- 1949年3月1日 鉄道事業開始。
- 1950年12月25日 貸切バス免許取得(事業開始日不明)。
- 1964年10月1日 鉄道線全線廃止。
- 1975年4月1日 車庫・施設を大字荒尾4544番地へ移転。
- 1996年4月1日 交通部を交通局に改組。
- 1997年9月1日 山の手待合所を廃止、荒尾市営バスセンターを新設。
- 2002年4月1日 貸切バス事業を廃止。
- 2004年4月1日 路線と車両の一部を熊北産交へ譲渡。
- 2005年4月1日 路線と車両をすべて産交バス(同日付で熊南産交・熊北産交・天草産交・産交観光バス(路線バス部門のみ)が合併)へ譲渡し、解散。
[編集] 乗合バス事業
[編集] 概要
主に荒尾市内で乗合バス事業を行っていたが、交通局解散時まで市営バスターミナル~南荒尾駅前~玉名郡長洲町(長洲港)まで越境路線を持っていたほか、1980年代までは四山から府本を経由して国道208号線を東進した玉名市の立願寺温泉までの越境路線を持っていた。
荒尾市には隣の大牟田市同様、炭鉱住宅(社宅)が市内各地に点在していたことから、それらの住宅地と荒尾駅や市内随一の繁華街・四山地区をダイレクトに結ぶべく、市が直営でバス事業を始めたことに起源する。戦後復興の中、炭鉱景気に沸いていた1960年代まではかなりの利用者を誇っており、1964年に鉄道事業を廃止した後にバス路線を拡充した頃までが黄金時代であった。しかしエネルギー革命に伴う炭鉱の閉山やそれに伴う人口の流失・高齢化、またマイカー、バイク、自転車の普及でバス利用者は激減し、毎年多額の赤字を計上するようになっていた。
1990年代末から抜本的なバス路線網再編や大幅な合理化が進められ、従来行っていた貸切バス事業を廃止。またこの頃、荒尾市は駅の東側約4kmの位置にある旧炭鉱住宅街の緑ヶ丘地区の再開発事業を行っており、1997年4月25日に同地区にショッピングモール「あらおシティモール」をオープンさせたのに続き、同年9月1日に「あらおシティモール」に隣接する形で市営バスセンターを新設した。その際にそれまでの四山地区や荒尾駅を起点とした路線網をやめ、市営バスセンターを中軸とした路線網に再編している。また、この頃までに市民の通勤通学の大半がマイカーや自転車に切り替わっていたため、あえて朝夕のバス運行を激減させ、お年寄りなどを対象とした日中の通院、買い物に特化した運行を行うようになった。この結果、各系統が重複するメイン区間(四山~荒尾駅~市営バスセンター)や玉名市・熊本市方面へ向かう産交バスの路線が重複する区間以外は一日数本のみの運行となり、西鉄バス大牟田が周辺各地に30分~1時間間隔で運行している大牟田市などに比べると荒尾市内のバスの利便性は極端に低下してしまい、もはやバスを使おうにも気軽に使えない状況に陥っていた。
結局、このような施策も成功したとは言えず、最終的に市はバス運行事業の撤退を表明し、2004年4月1日に一部の路線と車両が熊北産交(現・産交バス)に先行譲渡。翌2005年4月1日には残るすべての路線と車両が産交バスに譲渡され、同時に荒尾市交通局は解散した。現在でも産交が市バス廃止直前の運行形態をほぼそのまま引き継ぎ運行を続けている。
車庫は産交バス荒尾営業所となったが(同時に従来の産交バス荒尾営業所は廃止)、2006年12月1日に玉名営業所に統合され廃止されている。
[編集] 車両
一般路線車はクリーム色地に紺色帯・赤色細帯の塗装で、貸切車はクリーム色地に白・紺・銀色帯の塗装であった。メーカーは国内4メーカー全社が採用されていた。1997年に東京都交通局から中古車両を譲り受けている。
一部事業譲渡前の2004年3月31日の時点では一般路線車15台と、特定輸送(荒尾養護学校のスクールバス)に使用される貸切車1台を保有していた。一般路線車は全車産交バスに引き継がれ、産交塗装(白・青ツートンカラー)に塗り替えられている。
[編集] 鉄道事業
1949年3月1日から1964年10月1日まで鉄道事業を行っていた。詳しくは荒尾市営電気鉄道の項目を参照。
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