荒木又右衛門
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荒木 又右衛門(あらき またえもん ,慶長4年(1599年) - 寛永15年8月28日(1638年10月5日))は、江戸時代初期の剣客。「鍵屋の辻」の仇討ちで名高く、講談や時代小説、時代劇映画などの主人公として知られる。名は保知(やすとも)。他に保和とする説もある。長谷川伸、三田村鳶魚、直木三十五、山手樹一郎などの作家が「荒木又右衛門」をその題材として扱っている。
[編集] 仇討ち事件までの経歴
慶長4年(3年説もある。)、伊賀服部郷荒木村の生まれ。幼名を丑之助、あるいは巳之助ともいうが、これらは俗伝であり、正しい幼名は不明である。父は服部平左衛門といい、藤堂高虎に仕えていたが、淡路で浪人した後、備前岡山藩の池田忠雄に召し抱えられた。平左衛門には、渡辺内蔵助数馬という同僚がいて、ともに大阪の陣で従軍、浪人した後に召し抱えられるという経歴も同じくする関係にあった。この内蔵助の子に、みの(女)、数馬(二代目)、源太夫があった。のちに又右衛門は、みのを嫁に迎え、二代目数馬、源太夫とは義兄弟の縁となる。
又右衛門は次男で、兄弥五助が池田家に仕えたこともあり、12歳のときに本多政朝の家臣、服部平兵衛の養子となった。しかし、元和8年(1622年)、本多家が姫路城主となったあと、28歳ごろに養家を離れ、浪人して生まれ故郷の伊賀に帰っている。故郷で又右衛門ははじめ菊山姓を名乗り、のちに荒木姓を名乗った。又右衛門が15歳のころ柳生宗矩やその子柳生十兵衛の門人となったという説が『柳荒美談』などにあるが、宗矩は江戸在住であり、又右衛門は物心付いたころからは備前や播州で過ごしている。さらに、又右衛門は十兵衛より8歳年長であり、10歳に満たない子供の門人になるとは考えられない。十兵衛に剣を学んだとすれば、浪人後のことと考えられる。
その後、大和郡山藩、松平忠明に召し抱えられ、剣術師範役250石に取り立てられた。剣術師範の上席300石には、河合甚左衛門がいた。甚左衛門は河合又五郎の伯父であり、のちに又右衛門と対決することになる。
[編集] 鍵屋の辻の決闘
渡辺内蔵助の息子、源太夫は、岡山藩で美男子として知られ、藩主池田忠雄の寵童であったという。寛永7年(1630年)、同僚の河合又五郎から懸想されてこれを拒んだために殺された。又五郎は江戸に逃げて旗本安藤家にかくまわれ、藩主忠雄は又五郎の身柄引き渡しを求めたが、拒まれた。この背後には、大名と旗本の対立があったとされる。仇討ちとして、兄が弟の(尊属が卑属の)仇を討つことは異例であったが、池田侯の上意討ちの内意を含み、渡辺数馬は仇討ちの旅に出たという。数馬が義兄に当たる又右衛門に助太刀を要請したのは寛永10年(1633年)ごろとされる。又右衛門は快諾して郡山藩を退身する。この間、藩主池田忠雄が没し、跡を継いだ光仲は鳥取へ移封される一方、又五郎は江戸払いに処されていた。
寛永11年(1634年)11月7日、数馬と又右衛門は伊賀上野鍵屋の辻で河合又五郎を討ち、仇討ちの本懐を遂げた。数馬側は4人のうち1人死亡、3人負傷、河合又五郎側は11人のうち4人死亡、2人負傷、5人無傷(逃亡)だった。このときの又右衛門は「36人斬り」などともいわれるが、これは脚色による誇張で、実際に斬ったのは、河合甚左衛門と桜井半兵衛の2人である。しかし、この2人が河合側の主力で、甚左衛門は同じ大和郡山藩の上席剣術師範、桜井半兵衛は尼崎藩の槍術師範であった。
又右衛門はまず、馬上の河合甚左衛門の足を薙ぎ、返す刀で甚左衛門を斬って即死させた。桜井半兵衛には小者2人をかからせて得意の槍を渡さないようにさせ、刀の勝負で半兵衛に深手を負わせた。半兵衛は2日後に死亡。渡辺数馬は河合又五郎一人に専心し、数時間に及ぶ死闘の末、ついに又五郎を討ち果たした。この斬り合いの最中、城下から駆けつけてきた伊賀藤堂家の竹本六太夫という者が「何事だっ。」と声をかけると、桜井半兵衛と対峙していた又右衛門は余裕綽々、「おう、仇敵でござる。」とか返事したという。六太夫自身が動転していて、又右衛門の言葉を正確に思い出せないのであるが、「なんにせよ、えらい度胸じゃ。あの忙しい中に、拙者に返事をしました。」と激賞したという。
しかし、又右衛門が半兵衛を倒したとき、逆上した又五郎側の小者が又右衛門の背後から木刀で打ちかかってきた。又右衛門は腰に一撃を受けたともいう。さらに撃ちかかるところを振り向いて刀で受けたところ、刀身が折れてしまった。この刀が当時名刀鍛冶といわれた伊賀守金道の新刀であったことから、藤堂家の家臣で戸波流を打ち立てた戸波又兵衛は「こんな大切な場合に折れやすい新刀を用いるとは、不心得である。」と批評したという。これを聞いた又右衛門は、「いかにも不覚であった。」として、寛永12年(1635年)10月24日、数馬を伴って戸波に入門した。このときにしたためられた誓詞が現存している。
[編集] 急死の「真相」
数馬と又右衛門は藤堂家に客分として保護されたが、鳥取藩池田光仲の請いにより、寛永15年(1638年)8月12日に鳥取に移った。二人はそれぞれ妻子を呼び寄せたが、又右衛門の妻子が9月に鳥取に到着したころには、又右衛門は8月28日に頓死したということになっていた。毒殺説もある。又右衛門の墓は、鳥取市内の玄忠寺にある。渡辺数馬は寛永19年(1642年)12月2日に35歳で没した。
しかし、実際に又右衛門が死んだのは、寛永20年(1643年)9月24日のことで、この間、又右衛門と数馬は、鳥取城内にかくまわれていたとする説がある。この説によれば、急死と発表された理由は、河合党による暗殺を恐れて病死をよそおった、あるいは、鳥取藩への移籍話がまとまらないため、死んだということにして交渉を打ち切ったものと考えられている。