鍵屋の辻の決闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。
1630年7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれた。激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。
1632年、忠雄が疱瘡のため急死した。よほど無念だったのか、死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定する。喧嘩両成敗である。源太夫の兄・渡辺数馬はどうあっても仇討ちをせざるえない立場に追い込まれた。数馬は国替えに従わず、仇討ちのために脱藩する。
剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方をほうぼう捜し回り、1634年11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かう道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛など11人。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人。
11月7日早朝、鍵屋の辻の決闘が始まる。孫右衛門と武右衛門が馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、半兵衛に槍が渡らないようにした。又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せた。次いで、又右衛門は孫右衛門と武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒す。このとき武右衛門が斬られて命を落としている。これで、又五郎側の多くは逃げ出してしまった。 又五郎を倒すのは数馬の役目で、この二人は剣術に慣れておらず、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。 俗に又右衛門の「36人斬り」と言われるが、実際に又右衛門が斬ったのは2人である。
見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間で大評判になる。数馬と又右衛門、孫右衛門は伊賀上野の藤堂家に4年間も預けられ、この間、又右衛門を鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾する。結局、3人は鳥取藩が引き取ることになった。
1638年8月13日、3人は鳥取に到着するが、その17日後に鳥取藩は又右衛門の死去を公表した。又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。
[編集] その後
この仇討ちは江戸時代から歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材となり大衆の人気を集めた。近現代になってからも映画、テレビドラマ、小説などで数多く題材として取り上げられている。
[編集] 作品一覧
- 『伊賀越乗掛合羽』(いがごえのりかけがっぱ) 歌舞伎作品。安永6年初演、奈河亀輔作。
- 『伊賀越道中双六』(いがごえどうちゅうすごろく) 人形浄瑠璃・歌舞伎作品。天明3年初演、近松半二ほか合作。歌舞伎では「沼津」の場が人気演目となっている。
- 『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』 1952年東宝制作。黒澤明が脚本を手がけた森一生監督作品。三船敏郎が荒木又右衛門、志村喬が河合甚左衛門を演じ、友同士で斬り合わざるを得ない、侍の非情な世界をリアルに描いた。
- 『荒木又右衛門 決闘!鍵屋の辻』 1990年NHK正月時代劇。荒木又右衛門を演じたのは仲代達矢。敵の河合又五郎が単純な悪人に描かれていないのが特徴。
- 『決闘鍵屋の辻 荒木又右衛門』 1993年日本テレビ製作。荒木又右衛門を演じたのは高橋英樹。
- 『荒木又右衛門 男たちの修羅』 1994年テレビ東京製作。荒木又右衛門を演じたのは加藤剛。
- 『天下騒乱~徳川三代の陰謀』 2006年テレビ東京新春ワイド時代劇。荒木又右衛門を演じたのは村上弘明。衆道が現代では理解が難しく、また映像化するには相応しくない為、渡辺源太夫による河合又五郎への中傷発言が事件の発端としている。