菅沼定利
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菅沼 定利(すがぬま さだとし、?-慶長7年10月22日(1602年12月5日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野国吉井藩の初代藩主。官位は従五位下。大膳大夫。通称、小大膳。
三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の総領家である田峯菅沼氏に生まれ、菅沼定吉の子とも、定吉の叔父・菅沼定直の子とも言われている。『明知物語』には、菅沼藤蔵(後の土岐定政)の母の弟と伝えられるが、これは藤蔵の養父・菅沼定仙の事が誤伝されている為、該当しない。元亀2年(1571年)に定吉が武田信玄に与したとき、これに反対して田峯から離反。支族である野田菅沼氏の菅沼定盈を頼って、徳川家康に仕えた。天正10年(1582年)、織田信長の武田攻めで武田氏が滅亡したとき、定吉も織田軍の追討を受けて殺されたため、田峯菅沼氏の後継に任命された。(一説には、赦免を嘆願した定吉の要求は退けられ、誅殺されたとも。)
小田原征伐後、家康が関東に移ると上野国吉田に2万石を与えられた。そして領内で検地を実施し、六斎市を催すなど、治政の安定化に努めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍として、真田昌幸の信州上田城攻めに参加した。
慶長7年(1602年)10月22日に死去。田峯菅沼氏の血統は絶えてしまったが、死後の家督は盟友・奥平氏から迎えた養嗣子の奥平忠政(菅沼忠政)が継いだ。
法名は、隆興院殿廣山玄太大居士。群馬県多野郡吉井町神保の仁叟寺に葬られる。百五十年後、新城藩五代藩主菅沼定用により、墓石塔を玄太寺に移す。墓石塔は現在、吉井町史跡に指定されている。
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