蓮誓
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蓮誓(れんせい、康正元年(1455年) - 大永元年8月7日(1521年9月7日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。本願寺8世蓮如の4男。実名は康兼、幼名は光玉。
幼少の頃、南禅寺に預けられる。後に蓮如が延暦寺の迫害を逃れて越前国での布教を決意した時、移住準備を進めていた越前の門徒への人質(証人)として移住予定地であった吉崎へ送られたとされる。後に蓮如と加賀守護富樫政親が対立した文明7年(1476年)には、長兄の順如と連絡を取って父を脱出させた後、暫く吉崎に滞在したものの、やがて越中国に逃れていた次兄蓮乗と合流した。文明13年(1481年)の越中における一向一揆では、病気がちであった兄に代わって実際の指揮を執ったとされているが、後に加賀国山田(現在の石川県小松市)に入って光教寺を建立した。長享2年(1488年)の本願寺による加賀支配確立後には蓮誓の光教寺は兄蓮綱の松岡寺・弟で兄蓮乗の後継となった蓮悟の本泉寺と並んで「賀州三ヶ寺」または「加賀三山」と呼ばれて加賀における本願寺の代行統治機関となった。ただし、蓮誓は越中門徒にも関与していたため実際には光教寺以外の2寺による「両御山」体制が取られて蓮誓はその補佐役となった。だが、父蓮如が死ぬと、後を継いだ異母弟実如との仲は上手く行っていなかったと言われており、弟の蓮淳と図って本山を加賀に移そうと計画したといわれている。
だが、後を継いだ息子顕誓は蓮悟と並んで宗派を代表する碩学の一人と称えられながら、その蓮淳による法主強化政策による弾圧(大小一揆)によって破門となり、その後蓮淳の遺言によって復帰が許されるも、その17年後には内紛によって今度は幽閉されて元亀元年(1570年)に72歳で病死するという波乱の生涯を送る事になった。