藤堂高猷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤堂 高猷(とうどう たかゆき、文化10年2月9日(1813年3月11日) - 明治28年(1895年)2月9日)は、伊勢国津藩の第11代藩主。第10代藩主・藤堂高兌の長男。官位は正二位、和泉守。正室は藤堂高允の娘。子に高潔、黒田長知、脇坂安斐。
文化10年(1813年)2月9日生まれ。幼名は寿千代。号は観月楼。文政7年(1824年)12月に父が死去し、翌年2月29日に後を継ぐ。天保13年(1842年)、幕命により伊勢神宮警備を務め、砲台を築いている。文久3年(1863年)には天誅組の乱を鎮圧している。幕末期、高猷は佐幕派で公武合体を推進していたが、あまり幕政には関わらなかった。そして慶応4年(1868年)の戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは当初は幕府軍に与していたが、後に新政府軍に寝返って幕府軍敗走の一因を作った。このため、旧幕府側からも新政府側からも「裏切り者の犬」として罵られた。
明治4年(1871年)6月28日、老衰を理由に家督を子の藤堂高潔に譲って隠居している。
明治28年(1895年)2月9日、83歳という長寿で死去した。
彼が寝返ったのは利と時代を見て寝返ったのであろうが、この裏切りはかつての藩祖・藤堂高虎の世渡りを思わせるところがある。
新撰組の八番隊組長・藤堂平助は高猷の落胤というが、真相は定かではない。
|
|
|