藤瀬史朗
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藤瀬 史朗(ふじせ しろう、1953年7月2日-)は、大阪府大阪市出身。昭和後期(1970年代後半~1980年代前半)のプロ野球選手。右投げ右打ち。
[編集] 来歴・人物
大阪市立桜宮高等学校、大阪体育大学を経て、1976年にドラフト外で近鉄バファローズに入団した。背番号は当初76、1979年から40に変更。
入団以来、足のスペシャリストとして活躍。大学時代は陸上部に所属しており、テスト入団であるが、余りに足が速いのでそれだけで合格した。本人は「プロ野球選手が見られるかもしれない」といった理由で、受けたテストであった。外野手として登録されていたが、代走で出場する機会が圧倒的に多かった。実働7年間の選手生活で117盗塁を決めているが、うち代走で決めたものは105に上り、通算代走盗塁数のプロ野球記録となっている。また、年間代走盗塁数25(1979年)、同一カード連続盗塁成功数33(対阪急ブレーブス戦)といったプロ野球記録も持っている。その他、野球経験がほとんどないにもかかわらず打席に立って本塁打も記録している。
盗塁失敗は7年間で28であり、盗塁成功率は実に80.7パーセントという高率である。ちなみに、プロ野球においては、最高盗塁成功率記録(通算盗塁数300以上)は広瀬叔功で82.9パーセント、2位の木塚忠助は80.2パーセント、「世界の盗塁王」福本豊は78.1パーセントで4位である。
1979年の日本シリーズ第7戦のいわゆる「江夏の21球」の場面でも代走として登場。二盗を決め、相手捕手の悪送球を誘って三塁へ進塁するといった活躍を見せている。
1983年限りで引退。引退後は近鉄で走塁コーチを長く務め、1996年からフロント入り。管理部次長、管理部長と順調に出世していたが、近鉄球団解散に伴い、オリックスの用意したポストを断り退団し近鉄一筋を貫き通した。2005年からは母校・大阪体育大学に戻り、同大学の「運動部強化センター」の初代担当部長に就任している。
[編集] 通算成績
- 出場試合 436
- 打率 .206
- 安打数 45
- 本塁打数 4
- 打点数 12
- 盗塁数 117