田沼時代
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田沼時代(たぬまじだい)とは、江戸時代中期、幕閣において老中の田沼意次が幕政を主導していた時代を差す。幕府が実質的に重商主義的政策を採った時代。
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[編集] 概要
田沼は8代将軍の徳川吉宗が将軍就任に際して紀州より抜擢して江戸の幕臣に加えた家臣団である田沼家の出身で、1751年には9代将軍となる徳川家重の御側御用取次に昇格した。
ただし、田沼意次が本格的に幕政に参加する宝暦8年(1758年)の、1万石の所領を与えられ、旗本から大名の格式を有するまでに取り立てられた時点や、家重が亡くなってその息子の家治に重用される1761年、あるいは1767年に側用人へと出世した時点、さらには、老中首座が松平武元から松平康福に代わった1779年を開始とする説もある。
江戸時代中期には商業資本、高利貸などが発達し、それまでの米を中心とする重農主義的政策から重商主義的政策への転換の時代にあたる。江戸時代の三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)が復古的理想主義、重農主義を特徴とするのに対して、田沼は商業資本を重視した経済政策を行った。
[編集] 主な改革
[編集] 経済政策
同業者組合である株仲間を奨励、商人に専売制などの特権を与えて保護、運上金、冥加金を税として徴収した。財政支出補填のための新貨の鋳造、貨幣の統一などを行う。殖産興業として町人資本の出資による印旛沼・手賀沼開拓、農地開発を行う。貸金会所は寺社・農民・町人から金を出資させ、困窮する藩に貸付け、後に利子を付けて返すというものであったが、反発により挫折した。
[編集] 外交政策
長崎新令を緩和するなど鎖国政策を緩めての長崎貿易の奨励、俵物などの商品作物を育成し、海外物産、新技術の導入を図る。蘭学の奨励し、足軽身分の平賀源内らを登用。田沼時代の自由な気風のなか、江戸では大槻玄沢の蘭学塾を開き、1774年には杉田玄白、前野良沢らはオランダ語医学書の『ターヘル・アナトミア』を翻訳して『解体新書』として刊行、市井では庶民文化が興隆する。
また、工藤平助らの意見を登用し、蝦夷地(北海道)の直轄を計画。幕府による北方探査団を派遣し、ロシアとの交易も企画する。
[編集] 学問・思想
[編集] その他
士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みた。
[編集] 結果
諸藩が1783年の浅間山噴火などを契機とする天災による不作にもかかわらず、自家の財政維持のために米を大坂市場へ飢餓輸出をしたことによる、全国的飢饉への対応の失敗や、商品経済の発展に伴う賄賂の増加などの反面、幕府の財政基盤の確立には成功した。1770年には、幕府の備蓄金は171万7529両という、5代将軍綱吉以来の最高値を記録している。
天明の大飢饉や、それに伴う米価高騰、地方での百姓一揆の増加などの政情不安のなか、1784年には田沼の実子で若年寄の田沼意知が江戸城内で暗殺される事件が起こり、世直しの風潮もあり田沼の名声は失墜する。
10代将軍家治死後の1787年には御三卿一橋家から養子に入った徳川家斉が11代将軍に就任し、御三卿田安家から白河藩主となった松平定信が老中首座となる。幕閣では定信が主導する反田沼派が井伊直幸、水野忠友、松平康福らのを田沼派の老中や大老を一掃する政変が起こる。
定信は吉宗の孫であり、将軍後継にもなりえたが、家斉の父の一橋治済や田沼が裏工作を行い白河藩の養子となっていた事情などがあり、田沼を敵視していたとされる。定信は田沼路線を否定し、風紀粛清、重農主義に回帰する寛政の改革に乗り出すが、改革は財政的には失敗し、田沼時代の資産を食いつぶす形になった。
また「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が出たように、良くも悪くも田沼時代を懐かしむ声も聞こえた。
[編集] 評価
近代では田沼意次=賄賂政治家という説が通説であったが、近年では大石慎三郎らの研究により、当時としてはかなり進んだ経済政策を行ったと再評価されている。