西ノ海嘉治郎 (2代)
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2代目 西ノ海 嘉治郎(にだいめ にしのうみ かじろう、1880年2月6日 – 1931年1月27日)は、明治から大正にかけて活躍した大相撲の力士。第25代横綱。
鹿児島県西之表市出身(当時熊毛郡種子島)。本名牧瀬休八、のちに近藤休八。初土俵は明治33年(1900年)1月。明治39年(1906年)5月場所、錦洋の四股名で新入幕。関脇だった明治42年(1909年)6月場所より四股名を西ノ海とし、大関在位中の大正3年(1914年)1月場所より2代目西ノ海嘉治郎を名乗った。新大関は大正2年(1913年)1月場所。大正5年(1916年)1月場所、8勝土つかずで優勝し、翌月横綱を免許された。大正7年(1918年)5月場所限りで引退。幕内通算成績は25場所106勝38敗27分9預70休。優勝1回。
明治45年(1912年)1月場所8日目、当時43連勝中だった太刀山をはたき込みで破った。太刀山はこの後56連勝を記録したので、もし西ノ海が土を付けていなければ100連勝が達成されていたかもしれない。太刀山自身もこの敗戦にはこだわっていたようで、相撲協会を離れて以後の回想には、この敗戦は八百長だったとほのめかすような発言がある。ただし、この連勝中には休場も含まれている。
師匠の後を継いで年寄井筒を襲名。横綱源氏山改め3代目西ノ海を始め、大関豊國福馬、関脇錦洋、小結宮城山、2代目逆鉾、一ノ濱、泉洋、星甲などを育成し、先代井筒が部屋を興して以来最高の繁栄を築いた。
協会取締の要職を務めたが、2度目の任期を途中辞任した直後の昭和6年(1931年)1月27日に自殺した。役員改選時に地位利用したとの悪評を立てられたのを苦にしたものとされる。
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