引退
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引退(いんたい、英:retirement)とは、官職や地位等から退いたり、スポーツ選手などが選手としての身分を離れたりする事である。プロスポーツ選手の他、スポーツを行っている学生・生徒らが最終学年となって高校・大学受験等で試合出場の機会が無くなり、所属するクラブや部活動から離れる事も引退と呼ばれる。 また、歴史的に注目された鉄道の車両などが役割を終えたときも、車両を擬人化して引退と呼ぶことがある。
プロスポーツの場合、あらかじめ引退が予告される事があり、その場合、引退試合とされることがある。大相撲の引退においては取組としての引退試合はなく、引退宣言後の断髪式が有名である。
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[編集] プロ野球
[編集] 契約の形態
プロ野球選手が引退する際、その手続きには次の様な種類がある。但し、引退の為ではなく、移籍、傷病の治療等を前提にこれらの措置が執られる場合がある。
- 任意引退
- 選手の保有権を最終所属球団が有する引退。選手の同意が必要なので、球団側から何らかの見返りがあることが多い。現役か指導者等でプロ野球界に復帰する場合には最終所属球団に復する事が原則であり、他球団へ所属の場合は最終所属球団の了解を要する。選手から契約の解除を申し出た場合や、故障等で一定期間選手として出場の見込みが無いが将来的に復帰の計画がある場合(この場合、必ずしも引退を前提にするとは限らない)に行われる。以前は支配下登録でない「練習生」の保有が認められていた為、一時的に任意引退の公示をする事もあったが、現在ではこの方法はできない。長きに渡り球界で活躍した選手に多く、またコーチ・監督、チームスタッフへの転進手形が付いていることもある。永久欠番選手やチームの顔として活躍してきた生え抜き選手への球団からの慰労としての意味がある場合も多い。
例:王貞治、長嶋茂雄、秋山幸二、佐々木主浩、佐藤義則(任意引退後に練習生を経て現役復帰)他多数
- 選手の保有権を最終所属球団が有する引退。選手の同意が必要なので、球団側から何らかの見返りがあることが多い。現役か指導者等でプロ野球界に復帰する場合には最終所属球団に復する事が原則であり、他球団へ所属の場合は最終所属球団の了解を要する。選手から契約の解除を申し出た場合や、故障等で一定期間選手として出場の見込みが無いが将来的に復帰の計画がある場合(この場合、必ずしも引退を前提にするとは限らない)に行われる。以前は支配下登録でない「練習生」の保有が認められていた為、一時的に任意引退の公示をする事もあったが、現在ではこの方法はできない。長きに渡り球界で活躍した選手に多く、またコーチ・監督、チームスタッフへの転進手形が付いていることもある。永久欠番選手やチームの顔として活躍してきた生え抜き選手への球団からの慰労としての意味がある場合も多い。
- 自由契約
- 失格選手
- 支配下選手登録抹消
以上のほか、ただの言葉上の「戦力外通告」もある。以上の手続きに先だってなされることが多い。
なお、プロ野球選手であった者がアマチュア野球の選手・指導者に転身するためには最終所属球団から自由契約とされる必要があり、任意引退後に改めて自由契約の公示がなされる場合がある。
- 有名選手では、1979年に任意引退となった外木場義郎が2004年に広島東洋カープから、1985年に任意引退となった定岡正二が2006年に読売巨人軍から、「アマチュア野球の指導者となるため」という理由でそれぞれ自由契約の公示がなされた例がある。
[編集] 引退試合
1975年迄は、引退試合について野球協約で正規に定められていた。この規定が適用された選手は次の12名。
- 千葉茂(1959年)
- 藤村富美男(1959年)
- 西沢道夫(1959年)
- 大下弘(1960年)
- 服部受弘(1960年)
- 川崎徳次(1962年)*
- 別所毅彦(1962年)
- 飯田徳治(1965年)
- 金田正一(1970年)
- 杉浦忠(1971年)
- 村山実(1973年)
- 川上哲治(1975年)*
(*選手の引退時ではなく、監督としての引退時に行った)
それ以降、引退試合は現役最後の公式戦出場を引退試合と位置付けるか、選手契約を解除された後のオープン戦等において非公式に行われている。引退試合を行った選手は中日ドラゴンズに所属した選手が非常に多い。これはタイトルを一定数以上獲得した選手は引退試合を行うとする球団の内規がある為である。又実際の試合への出場ではなく、始球式での対戦を引退試合とすることがある。
[編集] 大相撲
大相撲において現役を退くことを俗に廃業と呼ぶ事が多いがこれは適当でない。なぜなら「廃業」とは角界から完全に身を引くことであり、親方になって後に廃業となるケースも多くもある。すなわち現役力士として取組に挑むことを辞めても、引き続き角界に身を置く場合は「引退」と表現するのである。公式には1996年(平成8年)11月17日以降、「廃業」の呼称を取りやめ、現役力士がそのまま角界から身を退いた場合は「引退」に統合し、親方の廃業は退職と改めた。「廃業」の語感が悪いからとされる。
幕内を30場所以上務めた力士に対しては引退相撲が行われる。力士の後援会等が主催し、ふれ太鼓、相撲甚句、髪結い実演等、1日に渡って盛大な催しとなる。その内最も有名なものが断髪式で、力士の大銀杏を交替で多数の人々(数百人規模になる事がある)が少しずつ鋏で切り取り、最後に師匠(何らかの理由で不可能な場合は一門を代表する親方が代わって行なう)が止め鋏を入れて完全に切り取る儀式である。また横綱の場合は断髪前に最後の横綱土俵入りを行なう。
行司でも定年退職すると引退相撲が行なわれることがある。特に立行司は軍配を次の立行司に継承させる儀式を行なう為に開催することが多い。
[編集] 引退相撲当時の師匠以外の親方が止め鋏を入れた力士
- 前田山英五郎 止め鋏朝潮太郎 (2代) 入門当時の師匠。前田山が大関の時に廃業し二枚鑑札で継承させるが引退相撲が行なわれた当時健在のため師匠として鋏を入れた。
- 羽黒山政司 止め鋏不明 現役中に師匠緑嶌友之助が亡くなり二枚鑑札で部屋を継承していた。
- 栃錦清隆 止め鋏常ノ花寛市 当時の出羽海親方。現役中に師匠栃木山守也が亡くなり二枚鑑札で部屋を継承していた。
- 佐田の山晋松 止め鋏出羽ノ花國市 当時の武蔵川親方。佐田の山引退時は師匠だったが引退とともに部屋を継承させた。
- 琴櫻傑將 止め鋏佐賀ノ花勝巳 当時の二所ノ関親方。師匠の琴錦登が琴櫻引退直後に亡くなり部屋を継承した。
- 琴ノ若晴將 止め鋏琴櫻傑將 相撲協会を定年退職していため本名の鎌谷紀雄。師匠である先代親方(琴櫻)の定年退職とともに引退し部屋を継承していた。
[編集] サッカー
サッカーの場合、引退と定義する一つのケースとして日本サッカー協会への選手登録を取り消した場合があげられる。これは野球と違いプロとアマチュアの垣根が低い為であり、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)以外の国内クラブでの活躍により再びプロ選手となる事もよくあるからである。
選手が引退をするケースには、本人の意思により契約を更新しない場合と、所属クラブから11月末までに来季契約をしないという通知(いわゆる「0円提示」)が出される場合がある。前者はプロ野球における「任意引退」、後者は「自由契約」に類似するが、保有権は生じない。
選手によってはその後、日本サッカー協会による「移籍リスト」に掲載されてトライアウト等により自由に所属先を探すことになるが、リストの有効期限内に引退となるケースも多い。又協会への登録は残したまま所属不定の為に事実上「引退」となるケースもあり、翌年のトライアウトには「所属なし」の選手として参加する事も多く見られる。
[編集] 引退試合
引退試合についてJリーグ規約-第4章競技-第4節非公式試合-第72条〔引退試合〕に
引退試合は、公式試合および天皇杯全日本サッカー選手権大会において通算500試合以上の出場実績を達成した選手またはJリーグで活躍し、Jリーグの発展に著しく貢献した選手を対象として開催する。
と定められている。2007年までにこの規定が適用された選手は次の6名。
上記以外に、選手契約解除後のプレシーズンマッチなどで非公式に行ったり、現役最後のホームゲームを引退試合と位置付け、セレモニーを行う場合もある。また、2003年8月10日にはJリーグ選手協会協力の元、2002年度の引退選手の感謝試合を行った。
[編集] プロボクシング
プロボクサーの場合、JBCによるプロライセンスが失効となった時点で引退となる。
プロライセンス失効となるケースは以下の通り。
- 「引退届」が受理された場合。
- 原則的に37歳となった場合。
- ただし、現役のチャンピオンは王座から陥落するまで、また、トーナメント戦に出場している者はそのトーナメントで優勝・敗退するまでライセンスの失効は猶予される。
- 2003年にルールが一部改正され、WBA、WBC認定の世界王者、OPBF認定の東洋太平洋王者、あるいは日本王者となったキャリアを持つ者、WBA、WBC認定の世界タイトル挑戦経験者、そして現役の世界ランカー(WBA、WBCの15位以内)に限り、37歳を過ぎても試合に出場することができる。ただし、この特例の申請はその選手の最終試合から5年以内とし、コミッションドクターによる特別診断をパスすることが条件となる。(特例を適用された選手には西澤ヨシノリ、リック吉村らがいる。)
- 網膜剥離など健康上重大な問題が発覚し、JBCから引退勧告を受けた場合。
- ただし、網膜剥離の完治者については、厳重な医療診断の上で、世界戦または世界戦に準じる試合のみ出場が可能。(辰吉丈一郎がこの特例を受けた。)
- JBCルールに違反し、日本国法律に抵触し、その他ライセンスを交付される資格に欠けると裁定された場合。
世界王座経験者など一定の功績を上げた選手は、ライセンス失効後に引退式と称してエキシビションマッチが行われる。
[編集] 競馬
競走馬の場合、日本中央競馬会(JRA)では競走馬登録を抹消した時点で引退となる。
引退式は、
など競馬発展に多大な功績を残した馬で希望すれば競馬開催日に行うことができる。ただし、引退式にかかる経費は馬主の負担となる。
騎手の場合、騎手免許取消願が受理された時点で引退となる。定年は設けられておらず、引退は体力の限界を判断した場合など、自らに委ねられる。
調教師は定年があり、70歳になると調教師免許が失効する(そのため、内藤繁春調教師は定年の無い騎手に転向しようと騎手免許試験を受験した)。またそこまで実績を残せていない調教師は定年が間近になってくると、管理する馬が集まらなくなる傾向にあり、そのため定年前に自ら引退した調教師も多い。
地方競馬の調教師については、主催者により千差万別である(それぞれに規定がある)。
[編集] プロレス
プロレスラーの引退は、事実上の引退でない場合が多い。エースであるレスラー等は興行上休む事が許されない為に、怪我等をしても無理を押して出場し続ける事も多く、体調上の問題から引退を宣言する場合も多いが、引退後体調がよくなると復帰を宣言する場合が多々ある。その為に複数回の引退宣言を行った選手もいる(大仁田厚など)。引退時の興行は観客の入りもよく、ご祝儀的な事でもある為、その後の復帰等については批判も多い。体調不良で引退→体調回復で復帰という流れは、日本のプロレス界ではテリー・ファンクが作ったといわれている。テリー・ファンクが復帰した際には「引退試合」で涙したファンを中心に大きな批判が起こり、人気は大幅にダウンした。小林邦昭は引退する際に「絶対に復帰しない」事を明言している。また、高山善廣の様に傷病で長期離脱を余儀なくされた場合でも「引退」を宣言しないケースもある。
[編集] 政界
政界における引退とは重荷大臣職を歴任した議員や、その他重要ポストを歴任した議員が政界から身を引くことを言う。選挙で落選しただけで次回選挙へ立候補意欲がある人物の場合は引退とは呼ばない。議員が引退する場合には高齢により後進に道を譲るものが多いが、自らの不祥事を認めた場合(例:堀江メール問題における永田寿康)や自分が所属する党や派閥に対して不満があったり、意見が食い違ったりした場合に責任を取って引退する議員や、党や派閥への反発から政界を引退した議員もいる(例:「嘘つき解散」での松浦昭)。
[編集] 芸能界
芸能界における引退は大きく分けて3つある。つまり、
- 引退を事前に公表し、引退コンサートなどを開催するもの。
- 世間から殆ど注目されずに、ひっそりと引退するもの。
- 不祥事等で所属事務所からの契約解除。
の3つである。ある程度名の知れていた人物は1.の形をとる。しかし、人気が高くても諸事情によって引退コンサートを開催できない場合もある。
引退を発表しても世間から余り注目されない多くの芸能人は2.の道を余儀なくされる。公式ファンクラブが存在するなど一定のファンがついている芸能人に関してはファンクラブ会報誌で引退を告知したりすることがある。最近ではインターネットが広く浸透していることにより、公式HPで引退を告知する場合もある。
なお、ゲーム「THE IDOLM@STER」では、ランクに関わらず引退コンサートを無条件でできるが、その規模はやはり知名度によって変動する。