角海浜
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角海浜(かくみはま)は新潟県新潟市(旧巻町)に所在する、三方を山で囲まれた海岸線50mほどの小さな砂浜海岸で、現在は廃村になっている。
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[編集] 鳴き砂
1960年代半ばまでの角海浜は、鳴き砂が聞けたという(リンク1参照)。鳴き砂は、原理的には砂にふくまれる石英粒相互の衝突と摩擦によって音を発するものであるが、角海浜の砂には鳴き砂海岸として有名な京都府京丹後市琴引浜に次いで格段に高温石英が含まれるという三輪茂樹氏の観察結果がある。今日では角海の鳴き砂を復活させようという運動が起こっており、「角海の鳴き砂をよみがえらそう会」が活動している(リンク2参照)。
[編集] 巻原発
角海浜は、1982年(昭和57年)に東北電力より原子炉設置許可申請がなされ、巻原子力発電所の建設予定地となっていたが、1995年(平成7年)に建設賛成派の佐藤町長のリコールを請求する署名活動が始まり、佐藤町長が辞職、反対派の笹口氏が町長に当選して、巻原発建設の是非を問う住民投票が行われた。これは、条例制定による日本初の住民投票となった。その結果、建設反対が約6割を占めた。1999年(平成11年)、笹口町長が巻町の町有地を議会に諮ることなく反対派へ売却し、さらに、これについて原発推進派町議らが所有権移転登記の抹消を求めていたが、2003年(平成15年)には最高裁が上告を受理せず、推進派の敗訴が確定した。同年、東北電力より発電所計画が撤回され、翌平成16年には原子炉設置許可申請は取下げられた。
[編集] 毒消し売り
角海浜はまた、近世にあっては「越後の毒消し」発祥の地でもあった。当時の砂浜は幅が200mあり、塩田があり、戸数も200余あったようだが、土地を失った村の女性には「毒消し売り」の行商にたずさわった人も多かった(リンク3参照)。最盛期には、周辺も含めると製造業者が20軒以上もあり、女性の売り子3000を数えたという。宮城まり子の1953年(昭和28年)のヒット曲「毒消しゃいらんかね」は、「毒消し売り」の女性を歌ったものとして知られる。
[編集] マクリダシと廃村化
この角海浜では「マクリダシ」という、数十年に一度起こり、海に面した家並みを根こそぎ奪っていくという、この地域特有の一種の海岸浸食現象によって、何度か、家屋等が砂で埋没してしまうことがあった。マクリダシは、普段は緩斜面の海底に、何らかの理由で瀬や深みができ、その海底地形によって生じた磯波と、海水を沖へと押し出す循環流が、急激に砂を移動させるという、きわめて局地的で稀な現象である。マクリダシの繰り返しにより、集落の海岸線はかつてのそれより600mも後退してしまった。
浸食の進んだ江戸末期には、農業だけで生活が成り立たず、村人は出稼ぎに出た(男性は大工仕事、女性は「毒消し売り」)。明治に入って護岸工事を陳情したが叶わず、その後もマクリダシの被害は続いた。1969年(昭和44年)戸数はついに一桁にまで落ち込む一方で、同じ年には「角海浜村に原発建設」というニュースが報道された。1971年には原発離村もあり、1974年(昭和49年)7月には最後の住人がこの地を去って完全に廃村となった。
[編集] 城願寺跡・坊ヶ入墳墓・植野家の発掘調査
城願寺はかつて角海浜に所在していた寺院であり、植野家はそれに隣接した民家であった。ともに、マクリダシによって埋没してしまった。こうして砂中の建物は、廃棄された当時の状態を保ったまま発掘調査がなされることとなった。
- 植野家には、
- 明治末期に建てられ1963年(昭和38年)に解体されるまで4世代が暮らした母屋
- 昭和の初期に建てられ、母屋解体時には衣類を除く生活用品がここに移され、そのまま放置された物置小屋
- 母屋と同時に建てられた外便所の3棟の建物
- があり、明治・大正・昭和の生活用品をはじめとする遺物が多く見つかった。
- 城願寺は、能登から移転したといわれる浄土真宗の寺院であり、「毒消し薬」の当初からの製造元と伝えられる。なお、城願寺所蔵の「籠島黒印状」は、新潟市の指定文化財(古文書)になっている。
- 巻町教育委員会は、城願寺跡・坊ヶ入墳墓・植野家の発掘調査をおこない、1985年、その成果を報告書のかたちで刊行している。なお、この調査は、巻原子力発電所の建設にともなう緊急調査であった。
[編集] 関連項目
[編集] リンク
- 1. 角海浜の鳴き砂発見の経緯
- 2. ミュージカルサンドフェスティバル
- 3. 角海浜の歴史
- Musical Sand(同志社大学元教授、三輪茂雄氏のWebページ)(リンク1.~3.はこのページに収載)
- 鳴かない砂浜~京都新聞
- 毒消の温泉
- 越後の毒消し
- 廃村の越後角海浜村は毒消し発祥の地
- 廃村と過疎の風景