豊島岡墓地
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豊島岡墓地(としまがおかぼち)は、東京都文京区大塚五丁目にある、皇族(天皇・皇后を除く)専用の墓地である。護国寺に隣接する。
宮内庁の管理であり、基本的な保全費用は宮内庁が負担しているが、墓石の修繕などの一部は皇族の負担である。警備上、ここに墓参できるのは縁故者または許可を受けた関係者に限られ、皇族の葬儀や祭事に際して記帳を受け付ける場合などを除き、一般人が敷地内に立ち入って墓参をする事は出来ない。
また皇族専用の墓地であるため、ここに葬られるのは薨去の時点で皇族であった者に限られ、民間から皇室に嫁いだ女性は葬られるが、生まれながらの皇族であっても生前に自ら皇籍を離脱した者は葬られない。ただし久邇宮朝融王(皇籍離脱後は久邇朝融)や東久邇宮稔彦王(皇籍離脱後は東久邇稔彦)、同妃成子など、1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱した所謂「旧皇族」の一部は特例として同地に葬られている。
[編集] 内部
正門を入って程なく右手に宮内庁書陵部の管理棟があり、墓参者が休憩できるようになっている。管理棟の周りは砂利を敷き詰めた庭で、その奥は広めの空き地となっており、皇族の葬儀が執り行われる際に祭壇が設けられる。あとの敷地内は殆どが雑木林であり、いわゆる「音羽の森」の面影を残している。この林のところどころを切り倒し、それぞれの宮家ごとに小さな区画が造られている。隣接する護国寺との境界は地図等では識別しにくいが、侵入防止用のコンクリート塀や池などで仕切られている。
明治期に建立された墳墓は、一般の「先祖代々之墓」のように一基に複数が合葬されるのではなく、皇族一人につき一基が設けられている。形は殆どが明治以降の天皇と同じ円形墳であるが、天皇のそれに比べると大きさははるかに小さく、親王級の墓でも幅・高さとも2メートル程度のものが多い。一方、それ以降に建立された墳墓は幅が大きく、戦後になってからは夫婦合葬となっているものが多い。また、戦前に物故した皇族は殆どが土葬されているのに対し、戦後は火葬に付された後に埋葬されている。
[編集] 歴史
元々は隣接する護国寺の所有地であったが、明治政府により召し上げられた場所である。文京区内では小高い標高34メートル近辺にあるため、権現山などと呼ばれていたようである。
明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊が1873年9月18日に死産した際、旧来の皇族墓所が遠方にあったため、東京市下に墓所及び葬送儀式を行う広い面積を持つ場所が必要となった。複数の候補地の中から同地が選定され、葬儀を営んだ後、同年9月22日より「豊島ヶ岡御陵」と改められた。以降、皇族の葬送儀式を執り行う場所として、また墓地として利用されている。現在は、天皇及び皇后の墓を「陵」、それ以外の皇族の墓を「墓」と名称を区別しているため、「豊島岡墓地」が正式名称である。