近衛経忠
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近衛経忠(このえつねただ、乾元元年(1302年)-文和元年/正平7年8月13日(1352年9月21日))は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公家。父は関白左大臣を務めた近衛家平。
23歳の若さで右大臣となり、元徳2年(1330年)、後醍醐天皇のもとで関白と藤氏長者を兼ねた。だが、わずか7ヶ月で辞任に追い込まれる。
元々、経忠の祖父・近衛家基(摂政太政大臣)には二人の妻がいた。一人は長男である家平(経忠の父)を生んだ同じ摂関家の鷹司家出身であり、もう一人は次男経平(左大臣)を生んだ亀山天皇の皇女である。家基の死後、二人の息子はどちらが近衛家の嫡流かを巡って対立し、その争いはそれぞれの息子の代にも続き、経忠は経平の子・基嗣と激しく争った。特に基嗣は後醍醐天皇の皇女を妻にしており、強力な対立相手であった。
だが、後醍醐天皇は経忠を尊重して建武の新政後に再び藤氏長者として用い、続いて左大臣へと昇進させた。その後足利尊氏が入京して後醍醐天皇が吉野へ逃れて持明院統の光明天皇が即位すると、経忠は新帝の関白に任じられた。だが、後醍醐天皇への旧恩から辞表を提出して吉野朝廷への参加を決意するが、当然辞任は認められなかった。
そこで1337年4月、密かに京都を脱出して吉野へ入った。激怒した持明院統側では経忠の関白を解任して近衛基嗣を後任に任命した。
その後、経忠は吉野朝廷の内覧・左大臣・藤氏長者の立場を利用して全国に散らばる藤原氏系の豪族に尊氏打倒を呼びかけるのであるが、これは北畠親房の東国戦略と対立する構想であり、その後も両者は主導権争いを続ける事になる。
その後、経忠は後村上天皇の即位と同時に関白を務めている。その後、1341年頃に吉野を出て一度京都に戻っているが、実は北朝側公家の切り崩し工作が目的であったと言われている。後に賀名生で病死している。