酒井大輔
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酒井大輔(さかい だいすけ、1980年6月19日 - )は、愛知県瀬戸市出身の元プロ野球選手(投手)。
春日丘高では3年春の県大会で優勝。1998年ドラフト7位で広島東洋カープに入団。球威がよく期待され右の中継ぎとして登板したが、2004年シーズン終了後に故障の影響もあり戦力外通告を受け、中日ドラゴンズの打撃投手に転身した。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 所属球団
[編集] 背番号
[編集] 経歴・タイトル
[編集] 年度別成績(一軍)
年度 | チーム | 試合数 | 勝数 | 敗数 | セーブ | 奪三振 | 防御率 |
1999年 | 広 島 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 |
2000年 | 広 島 | 6 | 0 | 0 | 0 | 7 | 9.82 |
2001年 | 広 島 | 24 | 1 | 0 | 0 | 30 | 4.19 |
2002年 | 広 島 | 25 | 0 | 1 | 0 | 17 | 10.80 |
2003年 | 広 島 | 11 | 0 | 0 | 0 | 10 | 5.87 |
2004年 | 広 島 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 |
通 算 | 66 | 1 | 1 | 0 | 64 | 7.10 |
[編集] 補足
松坂世代の一人。高校時代はMAX146キロの投手であり、また50m5秒7の俊足と高校通算35本塁打という強打もあり、上位指名候補としても名前が挙がっていたが広島がドラフト7位で指名した。(ちなみに、指名時のコメントではカープは好きな球団だったと発言。)
当初は野手として期待しての獲得で本人も乗り気だったが、思いのほか投手としての力があったため投手1本で行く事になった。 当時、カープキャンプを視察に来ていた江川卓氏(元巨人投手)も若い酒井の投球を見て「山口高志の再来。野手で育てると言う事だが、これだけのボールなら投手で見たい。」とその年のカープ指名選手の中でも特に高く評した。 3年目には伸びのあるストレートと、落差のあるパームボール(但し、負担を考えてか、この年以降は使われていない。)で、1軍でリリーフとしてまずまずの活躍。
実績は未だ無名ながら終盤の巨人戦で153キロという球速を計時し、巧打者として名高い清水隆行が「まだあんな投手がいたのか」と言わしめる。
4年目には実績のあるセットアッパーとして期待された玉木重雄、小林幹英(現広島東洋カープ投手コーチ)らが相次いで怪我による調整遅れで、開幕1軍に若い酒井に白羽の矢がたった。 開幕から困難なピンチで登板する中抑え的な役割ながらきっちり抑え続け9試合連続無失点。しかし、その一方で他に信頼できる投手が少なかったため連日肩を作り準備する日が続き4月終盤から打ち込まれる試合が増えた。 当時の山本浩二監督は、酒井を将来的に玉木の跡継ぎとして考えていたとコメントしたが、ただでさえ疲労のあるアーム式投法だった酒井にとって、連日の登板と調整が致命的だったのか、これから始まるであろう彼のプロ人生にとって最高に華々しい開幕スタートになるはずが、最後の花火となった。
以降は、肘や肩の手術などを繰り返し、一応は145キロ前後は記録する物の、それまではある程度まとまっていたコントロールやストレートの伸びも影を潜め、2004年オフに戦力外となり中日の打撃投手として再雇用された。
また、このような他に信頼できる投手がいないので、一人いい投手がいると疲労を考えずに集中的に起用され活躍した次の年には潰れるケースは当時の広島には珍しくなく、リリーフにもローテーション制を敷く現ブラウン政権になるまで長期的に続いた。特に酒井と同じく高校生から入団し3年目に活躍、4年目にストッパーで活躍して将来を大いに渇望された河野昌人なども、資金面の弱さからせっかく高校生などの素材から育てても投手層の弱さから体が出来ていないうちに使い潰されてしまった事から、当時の監督の計画性のない投手起用や、素材買いばかりで穴埋め的な補強ができないフロントへの批判についての1例としてよく上げられる。
[編集] 関連項目
広島東洋カープ 1998年ドラフト指名選手 |
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1位:東出輝裕 / 2位:井生崇光 / 3位:矢野修平 / 4位:森笠繁 / 5位:小山田保裕 / 6位:新井貴浩 / 7位:酒井大輔 / 8位:広池浩司 |
カテゴリ: 日本の野球選手 | 広島東洋カープ及び広島カープの選手 | 1980年生 | 愛知県出身の人物