横浜スタジアム
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横浜スタジアム | |
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Yokohama Stadium | |
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施設統計 | |
所在地 | 神奈川県横浜市中区 横浜公園無番地 |
起工 | 1977年4月 |
開場 | 1978年4月4日 |
所有者 | 横浜市 |
管理・運用者 | 株式会社横浜スタジアム |
グラウンド | 内外野 - ロングパイル人工芝 |
照明 | 照明灯 - 6基 照度 - バッテリー間:2500ルクス 内野:2000ルクス 外野:1650ルクス |
建設費 | 約48億円 |
設計者 | 創和設計 |
建設者 | 清水建設、大成建設など 11社による共同企業体 |
使用チーム、大会 | |
横浜大洋ホエールズ / 横浜ベイスターズ (1978年~現在) |
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収容能力 | |
30,000人(消防法上の定員は 30,730人となっている) |
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規模 | |
両翼 - 94 m(約308.4 ft) 中堅 - 118 m(約387.1 ft) グラウンド面積 - 13,000m² |
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フェンスの高さ | |
5 m (約16.4 ft) |
横浜スタジアム(よこはまスタジアム)は、日本の神奈川県横浜市中区の横浜公園内にある野球場。日本プロ野球・横浜ベイスターズが本拠地として使用している。
目次 |
[編集] 概要
1978年3月、老朽化した横浜公園平和球場(よこはまこうえん・へいわきゅうじょう、単に「平和球場」とも呼ばれた)の跡地に竣工。同年より、川崎球場から移転した横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の本拠地となったほか、神奈川大学野球連盟のリーグ戦や、全国高校野球選手権の神奈川大会等、アマチュア野球の会場としても用いられる他に、アメリカンフットボールの会場としてもしばしば利用されている。高校野球夏の大会では、開会式のほか1回戦から使用され、準々決勝以降は保土ヶ谷球場にかわりメインスタジアムとなる(1997年を最後に行われていないが、横浜スタジアムでの横浜-横浜商戦の時のみ、横浜商のスコアボードの校名表記は「Y」となる)。
施設は横浜市が所有し、市などの出資による第三セクター・株式会社横浜スタジアムが運営管理を行っている。どんぶりを傾けたような外観と、横浜のイニシャル“Y”を模した、逆三角形の6基の照明塔が印象的。2003年から新型人工芝「フィールド・ターフ」を、日本の屋外球場では初めて(千葉マリンスタジアムと同時)採用した。
よく使用される通称は「ハマスタ」であるが、地元住民は単に「スタジアム」と呼ぶ人もいる。「ハマスタ」という言い方は地元でも定着している。また、一部では「ヨコスタ」とも言われることがあるが、これでは湘南シーレックス(ベイスターズの2軍)の本拠地である横須賀スタジアムと重複する可能性があるため、この呼び方を好まない人もいる。
[編集] 特徴
[編集] 日本初の多目的スタジアム
内野スタンドの前段は可動式。野球場としての使用時にはVの字になってるが、一、三塁側前列を移動させて平行にすることができる。この可動式スタンドや昇降式マウンドは、いずれもプロ野球以外の興行に使用する事を前提に設置された。このため、横浜スタジアムは日本で初めて設計段階から多目的スタジアムとして造られた建築物といってよく、その後のドーム球場を含めたプロ用野球場の設計に与えた影響は少なくない。また、プロ用野球場としては日本で初めて建設時から全面人工芝グラウンドを採用している。
横浜スタジアム建設前の横浜市内には大型の競技場やコンサートホールなどがなく、スポーツや興行の分野では魅力の薄い街であったが、スタジアムの完成がこれらの分野の発展にも大いに寄与した。長年にわたり横浜国際女子駅伝の発着会場となった(現在の発着場所は横浜赤レンガ倉庫)ほか、Jリーグ草創期にはグラウンドに天然芝のマットを敷いてプレシーズンマッチを行ったこともある。
また、コンサート会場としても数多く利用され、国内外のSMAPなど多数の有名アーティストが過去に大規模コンサートを行なってきた。しかし屋根がない横浜スタジアムは、天候によってイベント開催の可否が左右されやすく近隣への騒音問題もあり、また3万人収容という施設に応じた集客が難しいことから、横浜アリーナや横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)が完成した1990年代以降、野球以外でスタンドが満員になるような大きなイベントにはあまり使用されなくなっている。だが、TUBEは20年以上にもわたり毎年8月で横浜スタジアムでコンサートを実施しており、夏の風物詩となっている。また、近年では毎年夏頃に1回程度、国内の有名アーティスト1組が野外コンサートを開催している。
[編集] 建ぺい率の問題
建物の立体的な外観は、他の野球場に見られるような垂直的なそれではなく、スタンドの上辺が広く下辺が狭い逆円錐形をしている。これは都市公園法施行令第6条1項1号で定められている、都市公園内運動施設の建ぺい率規制によるもので、スタンドの下辺をもって建ぺい率を計算する(※注)ためのいわば苦肉の策である。兎にも角にも面積上の問題をクリアするためにかなり無理のある設計を行っている。また、近年に建設されたいわゆる「国際規格」の野球場に比べ、収容観客数の少なさやグラウンド面積の狭さが指摘されて久しいが、法規上の限界(建ぺい率10%以下でなくてはならない)の中で設計されていることから、スタンドの増築を伴う観客席増設や、スタンドの構造変更を伴うグラウンド面積の拡張なども、法令の改正がなされない限り事実上不可能であるといわれている。
- (※注)スタンドのいわゆる「軒下」にあたる部分やグラウンドは、法令上の「建築物」とは見做されず、建ぺい率の計算対象から除外される。
また、これも設計限界によるものだが、ダッグアウト裏やグラウンド内に場所が確保できなかったため、ブルペンは外野スタンドの下に存在する。従って、横浜スタジアムの外野フェンスは高さがドーム球場並みに5mもあり、バウンドした打球によるエンタイトルツーベースの成立や、フェンスによじ登ってのフライ捕球はまず不可能である。ちなみに、ブルペンは目隠し用のテントと侵入防止用の鉄柵を隔てただけで横浜公園に面しているので、球場外からリリーフ投手の掛け声やブルペン捕手の捕球音を聞く事が出来る。
ダッグアウトとブルペンの間は連絡路がなく隔絶されているため、プロ・アマ問わずリリーフ投手は試合前からブルペンで待機するか、試合中の攻守交替時にグラウンドを歩いてブルペンに向かわなければならない。また、ブルペンからマウンドまでが遠いので、プロの試合における投手交代時は通常、リリーフカーを使用する。球場誕生時から数回の世代交代を経て、現在のリリーフカーはトヨタ自動車のスポーツカー・MR-Sを改造したものを使用している。
[編集] 短所と長所
上記で述べた通り、設計上の無理から以下のようなしわ寄せが来ている。観客の立場から見て不都合な点も多く、必ずしも快適な球場とはいえない。
- 両翼ポール際付近はスタンドのどの位置からも死角になりやすく、例えば一塁側内野席やライト側外野席に座ると、ライト線に打球が行った場合フェアかファウルかが判りづらい。またフェアであっても外野手の打球処理が見えない。(ただし、この種の不具合はその後建設されたドーム球場でも似たような傾向が見られる。)
- 外野スタンドは傾斜が急なのに加えて、スコアボードが最後列よりも大分前に設置されているため、見づらい所や全く見えない所が存在する。(バックネット上段に一応サブスコアボードは存在するが、これに表示されるのは得点経過とSBOカウントだけであり、打順表、球速表示、動画スクリーン等は見ることが出来ない。)
- 2007年に改修されたベイブルーシートエリアを除くと、内外野とも前後の座席間隔が狭いため試合中の離席が困難。
- コンコースが狭いため売店やトイレが少なく、試合終了時に通路やゲートがとても混雑する。また、スタジアムが全席禁煙化されてからは、唯一の喫煙場所としてコンコース中が喫煙者でごった返している。
- スコアボードが左右の外野スタンドを寸断しているため、ライト側観客席からレフト側観客席への移動が不可。
しかしその一方で、以下の点は他球場と比較して有利とされる。
- ファウルゾーンが狭く内野スタンドのネットも撤去された事から、観客とプレーする選手との距離が近く感じられ、臨場感が大きい。また試合の前後に、内野スタンドから直に選手と握手したりサインを求めたりする事が出来る。(ただし、ビジターチームの選手は横浜ファンに配慮してあまりスタンドに近づかず、内野席からのサインの要求にも応じない傾向にある。)
- 鉄道路線が三つ(横浜市営地下鉄・みなとみらい線・JR根岸線)も通り、いずれも球場から徒歩5分以内の所に駅があるため、都心や横浜市内からのアクセスがよく、延長戦でも安心して観戦できる。
- 球場周辺に横浜中華街や山下公園など、試合の前後に立ち寄れるような観光スポットが多くある。
- 球場周辺にナイター終了後も営業している飲食店が多くある。
[編集] 名球会入り選手のプレート設置
2006年からは、名球会入りしたホエールズ、ベイスターズの選手の名前を入れたボール模様のプレートをライト外野スタンドに設置し、その功績を称えている。配置は右中間からライトポール際に向かって、以下の通り。
- 「1980.4.23 2000HITS 松原誠」(最終記録2095安打)
- 「1983.10.21 200WINS 平松政次」(最終記録201勝)
- 「2000.9.6 2000HITS 駒田徳広」(最終記録2006安打)
- 「2005.4.14 250SAVES 佐々木主浩」(最終記録381セーブ…日本252セーブ、アメリカ129セーブ)
- 「2006.5.11 2000HITS 石井琢朗」
[編集] 売店
売店は内野スタンド2階通路と外野スタンド1階に設置されている。高校野球の時は外野席の売店は営業しない(内野席が満席の場合、外野席が開放される。この時内野席から外野席へは移動できるが外野席から内野席への移動はできない)。内野スタンド一塁側にはマクドナルドが、三塁側にはケンタッキーフライドチキンがある。一時期ミスタードーナツもあったが今は撤退。
また、スタジアム内で売られている「みかんかき氷」が、密かな名物となっている。かき氷の上に缶詰のみかんが乗り、その上に缶詰みかんのシロップをかけたもので、一杯300円。大久保博元も推薦している。特に真夏のデーゲームで行われる高校野球神奈川大会の時には、購入までに長時間待たされることもある。但し、1,3塁側の内野売店(2004年までは3塁側のみ)での販売。更に、他の球場・遊戯施設と異なり、一般のソフトドリンク・お菓子は球場内でもプレミアムなしの市価で購入できる。
[編集] その他
- 上記のような球場の特色は、観客の応援スタイルにも影響を及ぼしている。ジェット風船を使った応援は、横浜市のポイ捨て禁止条例抵触と試合進行妨害、近隣を走る根岸線への影響(架線に風船が付き列車がストップする恐れがある)を理由に禁止している。また、東京ヤクルトスワローズ応援団による「ビニール傘応援」は、座席間隔が狭いため危険として一時期禁止されていた。
- バックスタントが肌色と相対色である青であるため、投手のリリースポイントが見やすい。そのため当球場での試合は乱打線になる傾向がある。
- 横浜の選手に本塁打が出ると汽笛が鳴り響く。
- かつてグラウンドにカモメや猫が入り込んで試合が中断したことがある。また、雨が降ったときに外野グラウンドに蛙が入り込んできたこともあった。
[編集] 球場の歴史
[編集] 横浜公園平和球場
現在の横浜スタジアムになる前、ここには横浜公園平和球場があった。前身は1874年に完成した「彼我公園(ひがこうえん)」。在日外国人のクリケットグラウンドとして整備され、1896年には地元外国人チームと旧制第一高校との国際野球試合が開催された。
その後、1929年に関東大震災復興記念事業の一環としてこれを硬式野球場「横浜公園球場」として整備、1934年にはルー・ゲーリッグやベーブ・ルースらを擁するアメリカ大リーグ選抜軍と、沢村栄治や苅田久徳らを擁する日本代表チームとの間で親善試合も開かれた。しかし第二次世界大戦(太平洋戦争)の日本の敗戦により、1945年9月に球場はアメリカ軍に接収され、名前もゲーリッグがここでプレーした事にちなんで「ルー・ゲーリック・スタジアム」と改称される(当時の日本では「ゲーリック」と発音していた)。そして1948年には日本初のプロ野球ナイトゲームを開催した(下記参照)。1952年にアメリカ軍の接収解除に伴い横浜市に返還され、1955年に「横浜公園平和球場」と再度改称する。
[編集] 日本初のナイトゲーム
1948年8月17日、当時の「ルー・ゲーリック・スタジアム」で、日本初の職業野球公式戦のナイトゲーム開催が実施された。対戦カードは読売ジャイアンツ-中日ドラゴンズ戦で、3-2で中日が記念すべき日本のナイトゲーム初勝利を飾った。試合開始は20時過ぎだった。この8月17日は現在でも「プロ野球ナイター記念日」とされている。
[編集] 平和球場の老朽化
返還された平和球場はプロ野球の試合こそほとんど行われなかったものの、高校野球神奈川大会や社会人野球などアマチュア野球の会場として大いに活躍した。しかし、築40年を超えて建物の老朽化は深刻になり、1970年には、躯体のコンクリートが酸化して観客の重量を支えきれなくなったという理由から、スタンドの上半分が閉鎖された。これによってもともと15,000人程度であった観客収容数が半減しアマチュア野球の大会にも使用出来なくなり(このため、高校野球神奈川大会の開会式、閉会式、決勝戦を保土ヶ谷球場で行うようになった)、野球好きの市民の間に建て替えとプロ球団誘致を求める署名活動などが行われるようになった。
一方この頃の大洋球団は、巨人戦以外は全く集客の伸びない川崎球場に限界を感じており、同じ県内でもより知名度が高く人口も多い横浜へ本拠地を移転する構想を持っていた。しかし、老朽化し倒壊の危険性があり10,000人の収容すら出来なくなった平和球場は、ドル箱の巨人戦を含むセ・リーグの公式戦やオールスターゲーム、また万が一優勝したとしても日本シリーズを開催するのは不可能な状況であった。そこで大洋球団は1972年11月22日、横浜市に対し「横浜平和球場が改築した折には、本拠地を川崎から移転したい」と申し入れを行い、当時横浜市長だった飛鳥田一雄の同意を得、覚書を取り交わした。
[編集] 球場建設へのハードル
飛鳥田は、大洋の移転意思もあって球場建設にはやぶさかでなかったが、日本経済は折からの第一次オイルショックにより停滞。当然横浜市の財政もよいわけがなく、市が単独で建設の予算を捻出することなど到底不可能な状況だった。また、当時はみなとみらい21地区の造成も構想段階であった上、市内にはまだ随所に返還の目処が立たない米軍接収地が点在していたため、横浜公園以外で同等の交通アクセスを確保できるような土地はなかった。従って、球場の建設イコール平和球場の建て替え、という図式へ必然的に流れていったが、平和球場を解体してプロ野球も開催可能な規模の球場を建設するには、公園内建築物の建ぺい率制限や、所管官庁である建設省との折衝、さらに神奈川県立武道館等、球場建設によって移転を迫られる横浜公園内施設の代替地問題など、資金面以外にもさまざまなハードルがあった。中でも、横浜公園内の米軍横浜チャペルセンターの立ち退きに際しては、日本政府のほかに米軍当局との調整も必要であった。
[編集] 着工へ
しかし、当時大洋ホエールズの株を多数保有していた国土計画(現プリンスホテル)総帥・堤義明が3億円の融資を表明すると、建て替えの機運は急加速をはじめる。やがて飛鳥田市長らの奔走により資金以外の問題は順次クリアされ、堤による支援のほか市民からの株主も募り、1977年ついに第三セクター法人の運営会社「株式会社横浜スタジアム」が設立される。そして1977年4月1日、市の建替え計画に対し大蔵省の許可が下り、球場の建設が開始された。通常、この規模の建築物であれば2年前後の工期がかかるが、横浜スタジアムは翌年のプロ野球開幕に間に合わせるため、平和球場の解体を含めて1年程度の短工期が組まれることとなる。このため着工当初は7社程度のゼネコンによる共同企業体であったが、工期の関係上最終的には11社に及ぶゼネコンが結集し、超突貫体制で建築作業が行われた。法律上、公有地に企業が運営する施設を設置することができないため、建設は横浜スタジアム社が行った上で、一旦横浜市に施設を無償譲渡する形を執り、運営を横浜スタジアム社が行うという形が取られた。なお平和球場解体の際、スコアボードは藤沢市八部野球場に移設され、その後10年ほど使われていた。
この間、大洋球団は6月15日、横浜移転を前提として検討を進めている旨を発表。そして8月20日、翌1978年から横浜スタジアムを専用球場とすることを川崎市に正式に通達した。しかし、大洋側がそれまで川崎市側に対して配慮を行わず、突然一方的に移転を伝えられたことで川崎市は激怒。市内の19団体が「エントツだけのまちにしないで。」とキャッチフレーズを銘打って移転反対を唱えるキャンペーンを行い、当時の市の人口の約半分に当たる54万人分の署名を集めるなど、一時猛反発を呼ぶ事態となった。
[編集] 落成
幸い工事は無事に工期どおり終了し、1978年3月、晴れて横浜スタジアムは完成。同年4月4日に杮落としとなる横浜大洋ホエールズ(移転により改称)-読売ジャイアンツの公式第1回戦が行われ、前年新人王の斉藤明雄の力投により地元大洋が4-1で勝利して花を添えた。この試合の始球式は、前市長として建設に尽力した飛鳥田一雄(この時の地位は日本社会党委員長)が行っている。
[編集] ロッテ共用問題
横浜スタジアムの着工が正式に決定した頃、ロッテオリオンズも大洋と共用で本拠地としたいと表明を行った。この時のロッテの本拠地は宮城県仙台市の県営宮城球場であったが、東北新幹線は未開通、航空機も今ほど気軽に利用できる交通手段ではなかった時代であり、6球団中4球団が西日本に本拠を置いていた当時のパ・リーグで、カード毎の長距離移動はロッテ球団・相手球団ともに選手の肉体面や経費の面で負担が非常に大きかった。それゆえ、首都圏に球場が出来るのはロッテ球団にとって願ってもない好都合な出来事であった。ロッテは大洋に対し「横浜スタジアムで年間40試合前後の公式戦を開催したい」と申し入れを行った。
しかし、横浜スタジアムの単独使用を既定路線として進めていた大洋は、共用によって日程上の制約を受ける事を嫌いロッテの申し入れを拒否した。このとき大洋は既に川崎市に対し正式な移転通告をしていたため、プロ球団がもたらす経済効果を得たい横浜市と、それを喪失したくない川崎市、全国2位の人口を誇る大都市横浜で集客を伸ばしたい大洋球団とロッテ球団、以上4者の思惑が交錯し、マスコミ等世間も注目する中(一部では両球団の合併報道や、横浜スタジアムに国土計画が出資していたことから「西武が大洋を買収」という報道もあった)で竣工間近まで調整が続いた。
だが、横浜スタジアムの使用優先順位については、もともと神奈川県を保護地域としていた大洋に一日の長があり、また当時のロッテの選手や首脳陣が人工芝球場を好んでいなかったともいわれ、結局当初の予定通り横浜スタジアムは大洋の専用となり、ロッテは川崎球場に落ち着くこととなった。
本拠地問題が収束した後も、大洋が横浜移転発表前後に配慮を行わず紛糾を呼んだ経緯などから、川崎市と大洋球団は半ば絶縁状態となり、大洋(横浜)球団の川崎球場での公式戦開催は横浜移転後の1978年から1992年までなかった。1993年には16年ぶりに阪神タイガース戦が1試合のみ日程が組まれたものの雨天中止となり、結局同球場のスタンドが取り壊される2000年まで、ついに一試合も行われることはなかった(但し1994年、2000年にはオープン戦を開催している。1995年にもオープン戦を予定していたが雨天中止)。
[編集] 建設後の主な改修
横浜スタジアムは、完成後現在に至るまでの間に幾度も改装を受けている。
- 1978年 シーズン途中、ダッグアウト前にフェンスを設置
- 1990年 スコアボード大規模改修。選手名・得点表示部は、選手名・回数ごとに分割して表示部が設けられていたが、全面連結表示になり、光源も白熱球からLED(発光ダイオード)となった。また、映像表示部は動画も橙単色で写していたが、フルカラー式のものに改められた
- 1998年 内野人工芝張替え
- 1999年 スコアボード改修(東芝ライテック製:スーパーカラービジョン)。選手名・得点表示部分を橙単色LEDから3色(赤・緑・橙)LEDに変更。映像表示部も解像度の高い画面に交換。外野席をベンチシートから背もたれ付コンパートメントシートに換装。全席禁煙化。また、開場以来のメインスポンサーであった日産自動車が経営不振により撤退し、トヨタ自動車が日産に替わってその座に着いた。その影響で、スコアボード上端の広告が日産の「LIFE TOGETHER」からトヨタの「クルマが未来になっていく。」に改められている。2006年現在では「Drive Your Dreams.」
- 2001年 外野人工芝張替え。リリーフカーも10年ぶりに代わり、開場以来の日産車(最後はS-Cargoの改造車)からトヨタMR-Sの改造車に変更。
- 2003年 内外野人工芝を、アメリカのメジャーリーグやサッカーの競技場の天然芝球場風の着色が施され、限りなく天然芝に近い感触とされる「フィールド・ターフ」に張替え、国内で野外の野球場では千葉マリンスタジアムと同時に初めて導入した。
- 2004年 球場内ミニFM放送「FMハマスタ」用の放送ブースを、バックネット裏最上段に設置。
- 2005年 内野スタンドから、バックネット以外のフェンスを撤去。また、マルハに代わってTBSが親会社となった2002年から使用されなくなったライトスタンド上に設置されていたエレクトーンブースを撤去した(これによりライトスタンドの席数が若干増えた)ほか、レストランやトイレ等、コンコース内の施設を改修した。
- 2006年 外野フェンスラバークッションの高さをフェンス上端までかさ上げし、クッション厚も変更。ブルペンのマウンド数を一塁側・三塁側とも2箇所から3箇所へ増設。バックネットに広告表示用のLED画面(ファンケル化粧品協賛の広告を掲示)を設置
- 2007年 バックネット裏(9・11・13・15・17ゲート周辺、可動席部分を除く)の座席を従来のオレンジ色のシートからベイスターズのチームカラーでもあるブルーのシートに変更。シートも跳ね上げ式になり、座席幅・間隔も10cm近く拡張される。その分座席数は2,000ほど削減されることになった。削減分は内野席最上段に立ち見スペースを設けることで、30,000人の収容能力を維持している。また、従来はスコアボード下のみにあったスピーカー設備を内野照明灯(4カ所8個)下にも設置した。
[編集] スコアボードの改修
スコアボードはカラーボードが採用されるまでは1回-延長10回までのスコアを表示し、11回からは改めて表示をクリアして1回のところから表示し直す方式だった。カラー化されて以後1998年までは延長戦の場合はそれが行われるイニング分左にスライドしていく形(例えば延長10回が行われる場合、1回のスコアが消去され2回~10回のスコアが表示される)だった。1999年の改修で再び10回まで表示され、11回以後は改めて表示をクリアし、対戦チームの横に10回までのスコア、そしてその右隣に11回~18回のスコアを表示できるようにしている。
[編集] 過去に起きた新球場建設の動き
近年は横浜スタジアムに替わる新球場建設の動きも見られた。
[編集] 新鶴見操車場跡地の利用
1990年代の初めには近郊の新鶴見操車場跡に新球場を建設することを目指し入札手続の準備を進めたが、入札に参加しなかったためそれが頓挫したこともあったといわれている。
[編集] 横浜ドーム構想
1997年にベイスターズが優勝争いをすると、ファンから横浜スタジアムの収容観客数の少なさや施設の狭さに対する不満が続出した。これに乗じた高秀秀信横浜市長(当時・故人)は、みなとみらい21地区に新球場(多目的ドームを想定)建設を提案し、横浜商工会議所等の地元経済団体も呼応する動きが見られた。ちなみに高秀は、1998年の市長選で、ベイスターズの優勝を条件にドーム球場建設を公約している。
しかし当初から、大阪ドーム(現京セラドーム大阪)等の経営失敗例が生じたことや、横浜アリーナなどの既存施設と使用目的が一部競合することなどから、多くの横浜市民が多目的ドームの必要性・採算性に疑問を持っていたことに加え、2000年以降はベイスターズの成績がふたたび低迷し観客数も減少。さらに2002年の高秀退陣以降、中田宏新市長による横浜市が不要不急な公共事業を凍結する政策に転換したこともあり、新球場構想はたちまち頓挫した。
また、中田市長はラジオ番組に出演した際「横浜ドームは不要。横浜スタジアムの可動式スタンドを使えなくしてでも天然芝にするか、東京ドームで今年(2002年)から導入されたフィールドターフを導入すれば良い。」と発言していた。
余談であるが、2001年から2002年にかけて加熱していた「横浜ドーム構想」で、熱狂的ベイスターズファンが試合中、ライトスタンドから「ハマドーム、イラン」や「横浜ドームはいらない」と書かれた横断幕を掲げたり、ベイスターズの公式戦が行われる日に横浜公園内で「横浜ドームを実現する会」という団体が連日署名運動を行っていた。実現する会には、かつてベイスターズ(大洋ホエールズ)に所属していた選手も多数署名したという。2002年には「TBSがプロデュース、横浜ドーム」という記事がスポーツ新聞のトップに出た。そこには、横浜ドームは世界の何処のドームを参考に建設されれば良いかなどの比較写真なども掲載されていた。この記事には、反対派からの抗議もあったほか、以前から続いていた「実現する会」のホームページに設置されていた掲示板の荒らしが一層酷くなるなどの被害があった。ちなみに現在は、実現する会のホームページは無くなっており、むしろ横浜ドーム建設構想があったことすらも感じさせない風潮である。
その後、高秀の構想によって新球場建設予定地と目されていた西区高島1丁目の広大な空き地は日産自動車によって買収され、同社の新本社ビル建設用地ならびにJリーグ・横浜F・マリノスの練習場・クラブハウス(マリノスタウン)となった。ちなみに、みなとみらい線の新高島駅構内の柱や改札口などに「マリノスタウン」と書かれている。
[編集] 交通
- JR根岸線・横浜市営地下鉄 関内駅 南口より徒歩3分
- 横浜高速鉄道みなとみらい線 日本大通り駅 横浜スタジアム口より徒歩3分
- 横浜市営地下鉄ブルーライン 関内駅 1番出入口より徒歩5分
- 横浜市営バス 横浜スタジアム前・市庁前・内駅北口・尾上町・羽衣町停留所
[編集] 関連項目
- 日本の野球場一覧
- ニッサングリーンカップ・全国草野球大会(全国決勝戦が当球場で行われ、草野球の甲子園といわれた)
- 全日本少年軟式野球大会
- 社稷野球場(横浜スタジアムをモデルとして造られた韓国・釜山広域市にある野球場)
[編集] 外部リンク
前本拠地: 川崎球場 1955 - 1977 |
横浜大洋ホエールズ・ 横浜ベイスターズの本拠地 1978 - 現在 |
次本拠地: n/a - |
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