広島東洋カープ
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広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。唯一の市民球団として結成されたという独自の歴史を持つ。
本拠地は広島市民球場(広島県広島市)。二軍の本拠地は広島東洋カープ由宇練習場(山口県岩国市)。
チーム名 | 広島東洋カープ |
加盟団体 | セントラル・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍) |
創設年度 | 1950年 |
チーム名の遍歴 | 広島カープ(1950年~1967年) →広島東洋カープ(1968年~) |
フランチャイズの遍歴 | 広島県(1952年~) |
本拠地 | 広島市民球場(1軍)、広島東洋カープ由宇練習場(2軍) |
収容人員 | 31,984人(広島市民) |
オーナー | 松田元 |
親会社 | なし (独立採算・マツダも株を保有) |
監督 | マーティー・ブラウン |
タイトル | リーグ戦:6回、日本シリーズ:3回 |
(優勝年度) | (リーグ戦)1975、1979、1980、1984、1986、1991 (日本シリーズ)1979、1980、1984 |
目次 |
[編集] 球団の歴史
[編集] ~壊滅の広島からプロ野球を~第一次暗黒時代~
- 1949年シーズンオフのリーグ拡張方針を受け、原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団を設立。同年12月15日にセントラル・リーグに加盟。球団名を広島カープとした。
- 本拠地球場は広島総合球場。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、監督の石本秀一自ら選手集めに奔走。投手に長谷川良平、内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章らが中心となったが寄せ集めのチームは著しく低迷。
- 1951年に深刻な球団経営状態から解散案、あるいは大洋ホエールズ(当時は下関市にチームがあった)との合併案が持ち上がり、四方八方手を尽くし解散を回避。この一件は、2001年5月1日放送のNHK「プロジェクトX~挑戦者たち~」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。
- 翌1952年シーズン開幕前には、当時7球団だったセ・リーグの日程が組みにくいという理由のため、同年シーズン勝率3割を切った球団は解散という取り決めがされた。設立より2年連続最下位だった広島が解散の最有力候補であったが、長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ勝率.316で解散を免れた(松竹ロビンスが最下位・勝率.288)。この年限りで石本は退任。代わりに赤嶺昌志一派の選手が集団で入団した。
- 1952年から1953年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけしかなかった。しかもそのユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
- 1953年~1960年まで白石が監督を務める。チーム成績は低迷するが1960年にBクラスながら球団創設以来初の勝率5割とシーズン勝ち越しを果たした。その後、1961年から1962年まで準生え抜きの門前眞佐人が監督を務めたが、勝率5割を割り辞任。この間1957年7月より、広島市民球場に本拠地を移転した。白石は1963年~1965年シーズン途中まで2度目の監督を務めた。
- 1965年7月から長谷川監督が務めた後、1968年、東洋工業(現・マツダ)が筆頭スポンサーとなり球団名を現在の広島東洋カープに改称。同年、根本陸夫監督のもと球団創設19年目にして初のAクラス(3位)。根本時代は成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄ら、のちの「赤ヘル軍団」の台頭を促した。しかし根本退任後の1972年以降は3年連続の最下位に終わる。
[編集] ~チームカラーを赤に~赤ヘル黄金時代~
- 1973年、別当薫が監督に就任。ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字、胸番号、背番号に赤の縁取り、袖、腰、ストッキングに赤色のラインが入り、のちにチームカラーとなる赤が取り入れられた。帽子のマークがHから赤文字のCに変わる。
- 1975年、球団初の外国人監督としてジョー・ルーツが監督に就任。燃える闘志を表す意味をこめて帽子の色が赤色に変更された。ルーツはシーズン途中で退団したが、後任監督の古葉竹識のもと球団初優勝。平和大通りで行われた優勝パレードはファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた(これが現在5月の連休に行われているひろしまフラワーフェスティバルの発端となる)。
- 1977年、胸文字、胸番号、背番号、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり"カープ=赤”が定着する。
- 1978年、日本プロ野球史上初のシーズン本塁打200発を記録。山本浩二、衣笠祥雄をはじめジム・ライトルとヘンリー・ギャレットの両外人、水谷実雄や高橋慶彦らがアーチを描き赤ヘル打線が炸裂した。
- 1979年・1980年には日本シリーズ2連覇(プロ野球日本一)を成し遂げた。巨人を除けばセ・リーグの球団で日本シリーズ連覇を経験しているのは広島のみである。
- 1984年は山本浩二、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍し3度目の日本一。古葉は1985年限りで勇退。
- 1986年から阿南準郎が監督となる。阿南は「山本浩二監督」実現までの繋ぎと言われたが、ガッツ溢れる采配と手腕で、就任1年目にリーグ優勝。
- 1989年に山本監督誕生。1991年、投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。1993年に最下位の責任を取り辞任。
- 1994年、三村敏之が監督に就任。1996年シーズン中盤は2位に最大7ゲーム差を付けるなど首位を独走していたが、後半まさかの失速で3位(優勝した巨人には最大11.5差つけていた)。三村は1998年限りで退任。この年、投打の主力選手であった大野豊、正田耕三の引退も重なりチームは再び暗黒時代へと突入した。
[編集] ~第二次暗黒時代の到来~ブラウン政権へ~
- 1999年からは達川晃豊が監督に就任。しかし1999年、2000年共5位に終わり、わずか2年で辞任。また、引退直後から就任していた大野豊投手コーチと正田耕三守備走塁コーチ、6年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチは1年限りで辞任した。
- 2001年シーズンより再び山本浩二が監督として指揮を執るも、これといった補強の成果も見られず1度もAクラスを経験しないまま2005年終了後成績の低迷の責任を取り辞任。最終年となった2005年もチーム12年ぶりの最下位となった。なお、2001年は4位であるがこの年はこの年に限り順位が勝利数順だったため、勝率順にすればAクラス入り(3位)なので現在でも「Aクラス入りを逃す悲劇」という声が少なくない。
- 2005年9月10日の阪神戦(甲子園)では5失策21失点、特に7回裏には犯した失策が全て失点に絡み失策と四球で出した走者だけで8点を奪われた。
- かつては「足と投手のカープ」といわれていたが今日ではその面影はない。2005年のカープのチーム最多盗塁は5月末に戦線離脱した尾形佳紀の9個であった。
- チームは低迷する中、2005年9月頃よりライブドア社長の堀江貴文(当時)によるカープ球団買収報道が流れ始め、同10月中旬にライブドアが本格的に球団買収調査を開始したと報道された。
- 打線は機動力や小技が全くといっていいほどなく、結果的に本塁打に頼る野球になってしまっており、本塁打の出にくい阪神甲子園球場やナゴヤドームではなかなか点を取れておらず、これらの球場では毎回のように負けており、3タテも何度と喰らっている(阪神と中日の2強状態になってからは特にこの傾向が顕著である、ただし2006年は、ナゴヤドームでの試合では克服傾向にある。)。以上のことからもこれらの球場は広島の“鬼門”とも呼ばれている。逆に本塁打の出やすい神宮球場ではヤクルトとの好相性もあってか勝つことが多い。
- 2006年からはルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティー・ブラウンが監督に就任。山崎立翔が2軍監督に復帰。コーチ陣では小早川毅彦が打撃コーチとして復帰、ジェフ・リブジーも打撃コーチに就任し、打撃指導は小早川・リブジーの2重体制となる。
- 2006年度の戦力補強は、チームのモチベーションが下がるとして基本的に最小限におさえた。投手起用は、基本的に先発投手の負担を抑える為、投手の分業化を計る。
- ドラフトでは飯田宏行(ミネソタ・ツインズ傘下の1Aフォートマイヤーズ(Fort Myers Miracle)に所属)梵英心、鈴木将光らを指名。
- 2006年度のキャプテンは野手陣・前田、投手陣・黒田に決定。ユニフォームにはキャプテンマークとして「C」の文字を入れる。
- 2006年開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続とした。
- 2007年度もキャプテンは前田と黒田となった。また、この年はチームとして10年ぶりのAクラス入りとクライマックスシリーズ進出を狙う。
[編集] チーム成績・記録
- リーグ優勝 6回
- (1975年、1979年~1980年、1984年、1986年、1991年)
- 日本一 3回
- (1979年~1980年、1984年)
- Aクラス 20回
- (1968年、1975年~1976年、1978年~1981年、1983年~1991年、1994年~1997年)
- Bクラス 37回
- (1950年~1967年、1969年~1974年、1977年、1982年、1992年~1993年、1998年~2006年)※1
- 最多勝 75勝(1984年)
- 最多敗 96敗(1950年)
- 最多引分 18分(1978年)
- 最高勝率 .625(1984年)
- 最低勝率 .299(1950年)
- 連続Aクラス入り最長記録 9年(1983年~1991年)
- 連続Bクラス最長記録 18年(1950年~1967年、南海ホークス・福岡ダイエーホークス(1978年~1997年)の20年に次ぐ史上2位)
- ※1 2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はAクラス入り(3位)になっていた。
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 3.0ゲーム(1992年)
- 最大ゲーム差 59.0ゲーム(1950年)
- 最多本塁打 205本(1978年)
- 最少本塁打 29本(1952年)
- 最高打率 .284(1978年)
- 最低打率 .213(1956年)
- 最高防御率 2.62(1959年)
- 最低防御率 5.20(1950年)
[編集] 歴代本拠地
[編集] チーム特徴
- ニックネームの「カープ」は「鯉」の英語Carpに由来。名付け親は政治家の谷川昇(公職追放指定を受けたため球団経営には参画せず)。広島市を流れる太田川が鯉の産地であること、広島城が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であることから採用(これについて谷川は、「文献によると、鯉は諸魚の長となす。形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。また己斐〔広島市西区の地名〕は鯉から転化したものであり、恋にも通ずる」と説明している)。加盟当初は「カープス」であったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした。ただし、英語ではチームなどの集団・集合体を表す場合は単複同形の単語でも末尾にsを付ける慣習があるため(例:アメリカメジャーリーグのフロリダ・マーリンズ(marlin))、「カープ」「カープス」いずれも正しい。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された2軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また、アトムズは原子爆弾からの連想で、原子爆弾に広島を象徴させる事が提案されたのは核兵器廃絶運動の拡大前という時代背景があった。その後、国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)を買収した産経新聞が、自紙で連載中の鉄腕アトムにちなんだものとして「アトムズ」をニックネームに使用した(1966年-1969年シーズンのサンケイアトムズ、1970年-1973年のヤクルトアトムズ)。
- 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には白石勝巳、門前眞佐人といった準生え抜きが監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。
- 他球団が外国人選手を採用した後もいわゆる純血主義を貫き、平山智らのような日系人のほかは、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にメジャー・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるソイロ・ベルサイエスを日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後、リッチー・シェーンブラム、ゲイル・ホプキンス、ジム・ライトル、マイク・デュプリー、ネイサン・ミンチー、アンディ・シーツらの外国人選手が、カープ史上に欠かせない活躍を残した。優良な外国人選手を獲得するとも評価されている。しかし球団創設当初から資金難に喘いでいることもありカープ在籍中に活躍したにも関わらずそのシーズンのオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず結局優良外国人選手を他球団に持っていかれる事例が後を絶たない、近年ではアンディ・シーツ(現阪神)が代表例である。またグレッグ・ラロッカ(現オリックス)も来日当初の04年度はカープでプレイし40本を打つなど活躍したが怪我のし易さもあり2年でヤクルト(その後さらにオリックスへ)に移籍している。
- 球団マスコットは「スラィリー」。詳細はその項を参照。
- また、1975年6月より「カープ坊や」がマスコットとして存在している。スラィリー登場後も球団の応援グッズなどに描かれ続けている。
- 1984年に挙げた75勝がチームのシーズン最多勝記録で、セントラル・リーグに所属する球団では唯一のシーズン80勝未到達球団でもある。
- 球団創設以来1967年まで18年連続でBクラスであったが、この記録は1996年に福岡ダイエーホークスに抜かれるまではプロ野球ワースト記録であった。尚、現在もこの記録はセ・リーグワースト記録である。
- 資金が豊富ではないため、選手のフリーエージェント宣言をしての残留は認めておらず、FA移籍選手の獲得も行っておらず、ドラフト希望枠での選手の獲得も消極的である。これが1998年以降Bクラスに低迷している大きな要因の一つといえる。しかし、2006年に黒田博樹がFA資格を取得した際には、球団は宣言した場合残留要請を最大限行うことを表明した(結果的に黒田は宣言しなかった)。
- 合宿所は1軍と2軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1ヶ所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後佐伯郡大野町(現廿日市市)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に2軍の合宿所を建設。三篠寮は1軍選手専用となった。
- 8月6日の広島原爆忌当日に主催試合がある場合は広島市民球場は使用せず、倉敷、福山等で試合を行う。これは球場を保有している広島市が、8月6日を休日としているためである。
- カープは他の球団に比べ、毎年地方球場での主催試合が多い。上記の倉敷、福山以外にも、尾道、米子、松山坊っちゃん等の各球場で主催ゲームが実施される(なお2005年の松山での試合はヤクルトと阪神のそれぞれ主催で2連戦ずつ組まれた)。
- 1980年代後半から90年代前半は地方開催主催ゲームでも、とりわけ東北地方への遠征が多く5月から7月あたりは週末ともなればよく東北(福島、宮城、盛岡)でデーゲームを開催し、2軍のフランチャイズを東北にということまで検討された時もあった。
- 1995年から2005年まで、広島市民球場でのナイターのレギュラーの試合開始時間は18時20分であった。これは広島市の日照時間が日本一長いための措置で、1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、さらには球場周辺の滞在時間増加を見込む等の方針見直しに伴い、2006年よりナイター全試合を18時試合開始に変更している。一部試合は、薄暮試合という処置を取り、午後3時から試合を行う。
- 1990年代中盤以降は投手力の著しい低下に伴い、ルーキー投手も主力として投げることが多いが、これらの投手が1年目は活躍するものの、1年目の酷使がたたって早期に引退に追い込まれるケースが目立つ。逆指名入団の山内泰幸、澤崎俊和は新人王、小林幹英はセ・リーグ特別表彰を受賞したが、2年目以降は故障などで尻すぼみになり、3人とも10年以内で引退している(なお、3人とも現在は広島の一軍あるいは二軍投手コーチを務める)。高卒では苫米地鉄人が1年目から開幕1軍入りするなど活躍したが、その後は伸び悩んで結局7年で引退した。
- 1998年以降、チームが9年連続でBクラスのため、主力選手のほとんどが優勝はおろか、Aクラス入りの経験すらしていない。21世紀になってからセ・リーグ球団で一度もAクラスになっていないのは広島のみである。
- 2006年に北海道日本ハムファイターズがパ・リーグ優勝を果たしたことにより、現在12球団(新規球団の楽天を除き近鉄を含む)で最も優勝から遠ざかっているチームとなっている(ただし、2005年の千葉ロッテはリーグ戦の成績は2位)。2006年現在優勝経験のある生え抜き選手は緒方孝市、佐々岡真司、前田智徳だけである。
- 2007年現在、新規球団の楽天を除き近鉄を含めた12球団で過去に在籍したことのある選手を含めてもメジャーリーグへ移籍した日本人選手が一人も誕生していない唯一の球団でもある(ただし大野豊などのようにメジャー球団からオファーがあった選手は過去にいた。また黒田博樹は2006年オフに広島と4年契約を結んだものの翌年以降にメジャー球団に移籍できるというオプションをつけたため、将来的には広島球団初の日本人メジャーリーガー誕生という可能性はある)。
- 2007年から公式ファンクラブが結成される。12球団で最後の結成。
[編集] ユニフォーム
[編集] 変遷
- 1950年~1952年 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。
- 1952年~1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、フマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。
- 1954年~1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用は南十字星がベース。
- 1958年~1962年 レッドソックスを参考にしたユニフォームが登場。チームカラーが一時期赤となる。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、ドジャース型となった。また、胸番号も登場。
- 1963年~1972年 紺色主体のユニフォームが登場。ビジター用の左袖には番号が付けられていた。1968年からラインが太くなり同時にビジター用にも胸番号が導入(但し、ホーム用とは逆)され、1971年からオレンジのラインが入り胸番号が統一される。
- 1973年~1976年 ニット素材の特徴を生かしたベルトレスのユニフォームが完成。同時にプルオーバーとなる。ラインは紺と赤。1975年から首周りがVネックとなり、帽子も紺から赤に変更される。
- 1977年~1988年 胸マーク、アンダーシャツ、ストッキングが赤くなり、ラインも紺と赤が逆転。ビジター用はそれまでのブルーが鮮やかになり、派手な印象を残した。このデザインは12年の長きに渡り使用。
- 1989年~1995年 ラインから紺を廃止し赤に統一。ビジター用もブルーからグレーに変更される。プルオーバーから現在のボタン式に変更され、レッズ・スタイル(左胸にCマークとロゴ、胸番号は右腹部)となった。左袖には「HIROSHIMA」のロゴが入る。
- 1996年~2001年 大リーグで主流となった前立てラインが登場するが、袖のラインが消えた。1999年のみ球団創設50周年のマークが入る。
- 2002年~ 球団創設期に使われていた縦縞(ピンストライプ)を復活。ロゴを固体から筆記体デザインに変更。2005年からスポンサー・マツダの広告が入るようになった。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。2007年開幕よりビジター用ユニフォームに70~80年代に使われた筆記体書体を復活させる予定。また炎のボールマークからキャッチフレーズのALL-INのロゴに変わってそれが入る。
[編集] スポンサー
- 球団の歴史、ユニフォームの変遷の項にもあるように、1952年から1953年の2年間はユニフォームの左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
- 2005年から、ヘルメット、ユニフォーム袖にマツダがホームゲーム限定のスポンサーとなる。ヘルメットはマツダ製の自動車のブランドロゴを入れる。2005年は8月後半までは新型プレマシー、それ以降はAll New ROADSTER、2006年の始めは新型MPVとなり、2007年のキャンプからはMAZDA CX-7となっている。
[編集] 歴代監督
- 石本秀一(1950年~1953年)
- 白石勝巳(1953年~1960年)
- 門前眞佐人(1961年~1962年)
- 白石勝巳(1963年~1965年、第2次)
- 長谷川良平(1965年~1967年)
- 根本陸夫(1968年~1972年)※1 ※2
- 別当薫(1973年)
- 森永勝也(1974年)
- ジョー・ルーツ(1975年)※3
- 古葉竹識(1975年~1985年)
- 阿南準郎(1986年~1988年)
- 山本浩二(1989年~1993年)
- 三村敏之(1994年~1998年)
- 達川光男(1999年~2000年)※4
- 山本浩二(2001年~2005年、第2次)
- マーティ・ブラウン(2006年~)
- ※1 ここから広島東洋カープ
- ※2 1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行
- ※3 1975年は4月30日まで指揮、5月3日までは野崎泰一が代行
- ※4 1999年から2000年の登録名は達川晃豊
[編集] 永久欠番
[編集] 永久預かり(準永久欠番)
カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。
[編集] キーワード
[編集] 経営事情
- カープは当初、広島県、広島市、呉市、中国新聞、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「8人の侍」参照)。この経験から「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り1960年代まで続いた。
- また、1965年には近鉄バファローズ(大阪府大阪市・藤井寺市のダブルホーム制)との合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、カープの松田恒次オーナーがそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照されたい。
- 1960年代後半、東洋工業は創業家の松田家と共同で運営会社を全面買収したが、これには出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし現在もマツダは株を保有し、運営会社はマツダグループに名を連ねている。このように、実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム運営に多大な貢献があったことを称え、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。(1984年にマツダが東洋工業から社名変更した際、球団名を“広島マツダカープ”に変更するという話があったが、「販売店の広島マツダと混同する」という理由から立ち消えになっている。)
[編集] FA残留拒否
- 1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、広島は横浜やダイエーと共に一貫してFA権の行使は認めても行使後の残留(俗に言うFA残留のこと)は一切認めてこなかった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。当然、他球団のFA選手の獲得も行っていない。現実に過去14年間を見ても、FA移籍して成功したといえる選手はほとんどおらず、大抵の選手は移籍先で失敗しているため、この内容により活躍に見合わない契約金や年俸を払わなければならないというリスクは多々発生しており、日本プロ野球選手会の議題で取り上げられるほど問題視されている。ただ、浅井樹(当時選手会長)や金本知憲(現阪神)などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが結局認めてもらえず、広島の選手の間でも球団のこの対応に不満を抱いている者も少なくなかった。そんな中、2006年にFA権を取得したエースの黒田博樹投手が「他球団の評価は是非聞いてみたい」と主張(当然、他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)、これまで主力が次々とFA流出していった広島にとって彼の流出は死活問題となるので、今回ばかりはFA残留を認めざるを得ない状況になった。しかし黒田は会見で「市民球場で、カープの選手やカープファン相手に投げる自分が想像できなかった」と述べFA権を行使せずに残留したため、現在も広島にFA残留した選手はいない。
[編集] 8人の侍
1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由であった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らず、万策尽きたかに見えた。
3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。ニュースは瞬く間に広島市民・県民に衝撃を与えた。そんな中、解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。
[編集] 疑惑のホームラン
- 1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた大洋松竹ロビンス戦で、広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱えた。当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった(福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある)。この試合の会場もフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。
- そのわずか12日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、広島の選手(氏名不明)のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。
[編集] 沖縄出身初のプロ野球選手
- 沖縄県初のプロ野球選手を生み出したのは広島カープである。1964年入団の安仁屋宗八投手は当時アメリカの占領下にあった沖縄の出身。沖縄高校、琉球煙草を経てカープに入団し、その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍。119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇(日本一連覇も)のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰。白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まり、厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの『安仁屋流』を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。
[編集] 「カープを優勝させる会」
- 1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で「酒」という趣味の雑誌を編集・発行している広島県出身の作家佐々木久子で、佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」(=当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かった。この経緯から広島ファンは口の悪い巨人ファンに当時から馬鹿にされていたという)と馬鹿にされる始末。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝がついに実現。しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきだった(そればかりか、優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった)。
- こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが解散したとたん以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。その後この会は解散したが、現在は1991年から実に15年とセ・リーグ球団の中では最も優勝から遠ざかっているばかりか、1998年以来9年連続Bクラスとチームは再び低迷期に入っており、この会を再び復活させようという声が多々あるのも事実である。
[編集] 変則ダブルヘッダー
- 1967年10月12日、カープは日程調整の関係でデーゲーム(13時開始)に巨人戦(後楽園球場)、続いてナイター(19時開始)でサンケイ戦(神宮球場)を行った。1952年に現在のフランチャイズ制が確立されてから唯一、同じ日に同じチームが違う対戦チーム・違う球場でのダブルヘッダーを行った。
[編集] 鯉の季節
- 初めてAクラス入りした1968年、カープは阪神との岡山・姫路での開幕シリーズに連勝。7連敗で一時3位に転落したものの6月12日には首位に返り咲き、7月6日まで守った。この年はピンキーとキラーズのデビュー曲「恋の季節」がヒットしたこともあり、曲のタイトルとカープ(=鯉)を引っ掛けた「鯉の季節」という言葉が新聞紙上を飾った。最近でも「鯉の季節」という言葉自体は使われるが、「鯉のぼりの時期までのカープは勢いがあるが、それを過ぎれば勢いがなくなる」という、からかい半分またはファン自らが自嘲的な意味で使うことが多い。
[編集] 外木場、3度のノーヒッター
- 日本のプロ野球において、ノーヒットノーランの最多記録保持者は沢村栄治(巨人軍)と当チームの外木場義郎の2名が決めた3回である。
- 外木場は1965年10月2日、デビュー2戦目の阪神戦でプロ入り初勝利・初完封をノーヒットノーランで飾る快挙を達成すると、1968年9月14日には大洋を相手に2度目のそれを完全試合(史上10人目、カープとしては初)で決め、日本タイの3回目のノーヒッターは1972年4月29日、沢村が所属した巨人との対戦で飾った。
[編集] 江夏の21球
- 1979年、近鉄バファローズとの日本シリーズ第7戦で、江夏豊がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け広島を日本一に導く。このシーズンで自身初、そしてリリーフ投手で初のMVPに輝く。なお、この詳細はNHK特集に取り上げられた。
[編集] 日本シリーズMVPの自動車
- カープは過去に1979、80、84年の3回にわたって日本シリーズに優勝しているが、それぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手に贈呈された自動車は通常のトヨタ自動車ではなく球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。
- ちなみに広島カープが敗れた1975、86、91年のMVP選手には通常と同じくトヨタ車がプレゼントされている。
[編集] 停電事故
- カープは1982年7月8日に開かれた阪神戦と2004年9月15日の巨人戦、及び2006年8月2日の東京ヤクルト戦でナイター照明の停電事故を経験している。前者は岡山県営球場での事故で、ナイター照明に蛇が絡まったことによるもの、後者2つは本拠・広島市民球場による事故で、試合中市内での落雷発生によるもので何れも数十分間試合が中断した。2006年の場合はその後豪雨が降ったためにグラウンドコンディションが悪化し7回表途中でコールドゲームとなった。
[編集] 背番号0の男
- 1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。
[編集] 究極の右投手攻略法
- 小早川・長嶋・高・大野は左打者。また正田・山崎・高橋・松林はスイッチヒッターで右投手が相手だと左打席に入るので、達川以外の8人が左打者というスタメンになった。
- 試合は初回に正田・山崎が連打で無死2・3塁としたところで高橋の2点タイムリーで先制。4回表に同点に追いつかれたものの、7回裏に9人目の左打者・西田真二の2塁打を機に決勝点をもぎ取って勝った。この後もカープはしばしばこのオーダーを使い、他球団の右投手を苦しめた。
- ちなみに1984年2月28日、鹿児島でのロッテオリオンズとのオープン戦では、以下のような左打者だけのオーダーを組んでいる(ただし、山崎・高橋・川口はスイッチヒッター)。
[編集] 日本球界初のアカデミー
- アメリカ合衆国のメジャーリーグでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏季にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)
- 日本ではそれまで下部組織は国内の2軍だけだったが、チームがメジャーリーグなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々のデメリットを危惧したことを受けて、上記メジャーリーグのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー(通称・カープアカデミー)をドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。(この他公式戦出場はなかったものの1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている)
[編集] クモ男
- 1990年5月12日開催の対巨人7回戦(広島市民球場)6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋をはいた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本あったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落とした。この落とした垂れ幕には「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったという。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒を焚き、オモチャの手裏剣を投げた。約9分後に男は降りて来たが、待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者だった。この日、野球中継はNHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件についてマスコミからコメントを求められるや「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され罰金20万円の刑事処分をうけた。さらに蛇足だが、このクモ男が後に関西テレビ放送・「ねるとん紅鯨団」に出場した。
[編集] 放火事件
[編集] スパイダーマン事件
- 2005年7月9日開催の対巨人11回戦(広島市民球場)試合終了後、広島が勝利したことに嬉しさのあまりか、広島ファンのスパイダーマンがグラウンド内に乱入したが、すぐにグラウンド外につまみ出された。試合は、広島が9-8で巨人にサヨナラ勝ちした。
[編集] 社会人野球大会出場
- カープ2軍チームは2002年から社会人野球の公認大会であるJABA広島大会(毎年5月)にエントリーするようになった。これまで社会人野球の試合にプロチームが出場することは規制の問題から実現できなかったが、近年のプロ・アマ交流が盛んになったこと、特に社会人チームとプロ2軍の練習(交流)試合も盛んに行われるようになったことから、日本野球連盟・中国地区連盟は広島大会に限定してカープ2軍チームの出場を許可し、社会人野球公式戦の舞台で社会人チームとの対戦が実現した。
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- 戦跡一覧
- 2002年 1回戦敗退(2-3 三菱三原硬式野球クラブ)
- 2003年 優勝(決勝戦:4-0 三菱重工広島)これは全国の社会人野球の大会でプロチームの初めての優勝であった
- 2004年 優勝(決勝戦:4-3 三菱自動車水島=現・倉敷オーシャンズ)
- 2005年 準決勝敗退(準決勝:4-6 デュプロ)
- 2006年 予選リーグ敗退(7-0 常石鉄工、1-4 JFE西日本 予選Bグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
[編集] ベースボールドッグ
- ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグをミッキー(イヌ・雄のゴールデン・レトリバー)が務めた。日本球界初の試み。3回裏と5回裏終了後に登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし(この日はミッキーの8歳〔=人間年齢では50~60歳にあたる〕の誕生日でもあった)、5月21日の楽天戦ではカープのユニフォーム姿(背番号は111)で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(数枚限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。
- あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや前述の高齢などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったもののミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。
- この人気は他球団に波及し2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組「ペット大集合!ポチたま」とのコラボレーションでエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)ミッキーと共演を果たした。
- 2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら長距離の移動による疲れをものともせず完璧に仕事をこなし、多くのプロ野球ファンを魅了した。なおミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。
[編集] 始球式
- 有名人の起用があまり無く(同球場での開幕試合は広島市長が始球式を行うためでもある)2004年まではほとんどは抽選で選ばれた子供たちなどの一般者が投げることが多かったが、2005年から主にカープファンの有名人、番宣絡みでの有名人起用を増やしてきた。
- 過去の有名人の始球式
- 奥田民生(2004年8月20日対巨人戦 打者・仁志敏久。082(広島市の市外局番)の背番号が入ったユニホームの姿で投球。同年10月30日に行われる『奥田民生ひとり股旅スペシャル』の告知を兼ねて)
- 角田信朗(2005年4月17日対横浜戦 付き添いにチェ・ホンマン。打者・石井琢朗。6月に広島グリーンアリーナで行われるK-1の宣伝告知を兼ねて)
- 堂珍嘉邦(CHEMISTRY・2005年5月21日対楽天戦 4492(よしくに)の背番号が入ったユニホームの姿で投球。打者・礒部公一)
- 中尾明慶(2005年7月8日対巨人戦 打者・清水隆行。同日TBS系列で放送のドラマ「ドラゴン桜」の番宣告知を兼ねて)
- TIM(レッド吉田・ゴルゴ松本)(2005年8月3日対巨人戦 打者・川中基嗣。「TIM神様の宿題」の企画。投手役がゴルゴ、捕手役がレッド)
- 尾方剛(2005年9月2日対巨人戦 中国電力所属・2005年世界陸上男子マラソン銅メダリスト 打者・清水隆行)
- キム・ヨンチョル(2005年9月3日対巨人戦 韓国人俳優 打者・清水隆行)
- 平井理央(2006年4月25日対巨人戦 打者・? 『SPORT』新キャスター就任記念)
- アンガールズ(2006年4月26日対巨人戦 打者鈴木尚広 『TIM神様の宿題』企画)
- 岸田繁(2006年6月4日対ロッテ戦 ロックバンドくるりのボーカリスト 打者・西岡剛)
- 大野豊(2007年4月3日対横浜戦 広島市民球場開場50周年記念及び星野ジャパンの広告活動 打者仁志敏久)
- 石原さとみ(2007年4月10日対巨人戦 フジテレビ系火9ドラマ花嫁とパパの番組宣伝 打者高橋由伸)
- 1999年度には球団設立50年として過去のカープOB、当時の現役選手が連日広島市民球場で始球式を行った。
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月日 対戦相手 氏名 備考 4月6日 阪 神 白石勝巳 ※1 4月7日 阪 神 長谷川良平 4月8日 阪 神 長谷部稔 4月9日 ヤクルト 渡辺信義 4月11日 ヤクルト 松山昇 ※2 4月20日 巨 人 川本徳三 4月21日 巨 人 備前喜夫 4月23日 中 日 原田信吉 4月24日 中 日 緋本祥男 4月25日 中 日 平山智 5月8日 中 日 古葉竹識 5月9日 中 日 鵜狩道夫 5月11日 巨 人 山本一義 5月12日 巨 人 安仁屋宗八 5月28日 横 浜 衣笠祥雄 5月29日 横 浜 大石弥太郎 5月30日 横 浜 三村敏之 6月11日 ヤクルト 河合昭時 6月12日 ヤクルト 高橋里志 6月13日 ヤクルト 久保俊巳 6月15日 阪 神 水沼四郎 6月16日 阪 神 深沢修一 6月25日 巨 人 木下富雄 6月27日 巨 人 山本浩二 ※3 7月6日 横 浜 北別府学 ※4 7月7日 横 浜 小林聖始 7月8日 横 浜 今井譲二 7月30日 巨 人 金石昭人 7月31日 巨 人 川口和久 8月1日 巨 人 高橋慶彦 8月4日 横 浜 渡辺弘基 8月5日 横 浜 宮本幸信 8月13日 中 日 及川美喜男 8月14日 中 日 高木宣宏 8月15日 中 日 福島久晃 8月19日 ヤクルト 新美敏 ※5 8月25日 阪 神 小川達明 8月27日 巨 人 高橋直樹 8月28日 巨 人 定岡徹久 8月29日 巨 人 中利夫 9月4日 中 日 野村謙二郎 9月5日 中 日 江藤智 9月14日 ヤクルト 前田智徳 9月15日 ヤクルト 浅井樹 9月25日 横 浜 金本知憲 9月26日 横 浜 福地寿樹 9月28日 阪 神 玉木朋孝 9月29日 阪 神 木村拓也 9月30日 阪 神 嶋重宣 10月1日 阪 神 江夏豊 ※6 10月3日 ヤクルト 朝山東洋 10月4日 ヤクルト 野々垣武志 10月5日 横 浜 新井貴浩 10月6日 横 浜 東出輝裕 10月11日 巨 人 緒方孝市
※1 実際の始球式は秋葉忠利広島市長が行ったためVTRで登場。
※2 前日が雨天中止のため長持栄吉と務める。
※3 前日が雨天中止のため金城基泰と務める。
※4 来日したゲイル・ホプキンスと務める。
※5 前日が雨天中止のため杉本正志と務める。
※6 8月16日が雨天中止となったため。
[編集] 調査データ
2006年3月2日、読売新聞掲載の、同社がおこなった全国世論調査で、好きなチームの問いに、巨人、阪神、中日、ソフトバンクに次いで5位(中央調査社の調査ではヤクルトに次ぐ6位)にランクされた。この調査は全国250地点でおこなわれた。
[編集] 応援の先駆者
一般に広島県民は「進取性がある」という県民性を持つと言われ、新商品のテスト販売が広島県内で行われることが多い。この進取性がある性格は広島県民の大半が当てはまるカープファンにも言えることで、現在のスタイルにつながる数々の応援方法を生み出したことで知られている。
- トランペット応援・選手別応援歌
- 戦前のプロ野球ではチームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られた(大阪タイガースや阪急軍のブラスバンド演奏は数々の文献に出ている)が、戦後は手拍子や野次を中心にした応援が主流だった。しかしカープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したことから応援スタイルが徐々に変化していった(トランペット応援の発祥がカープにあるというのは「プロ野球ヤジ講座」〔おかひろみ編・自由国民社〕、「巨人がプロ野球をダメにした」〔海老沢泰久著・講談社〕にも記述されている)。また1978年にはチームの中心選手である山本浩二を特別な形で応援するため、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている。
- ジェット風船
- スクワット応援
- 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1990年代に泥酔した観客が始めたものと伝えられている。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。
1975年の初優勝時、カープファンはスタンドでしゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは広島湾に浮かぶ宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。現在でも高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることがある。この様子を見ていたスポーツ用品メーカーの社員がプロ野球チームのペットマークが描かれたシールをチームカラーのメガホンに貼って球場で売ったところ、飛ぶように売れたという。
[編集] 応援歌
- 『勝て勝てカープ』(歌・塩見大治郎)
- 『それ行けカープ~若き鯉たち』(歌・塩見大治郎)
- 『燃える赤ヘルぼくらのカープ』
- 『痛快!赤ヘル音頭』(歌・柏村武昭)
- 『ゴーゴーカープ』(歌・富永一朗)
- 『Red~僕らの広島カープ~』(歌・石田匠)
- 『わしを市民球場に連れてって。』(歌・堂珍嘉邦)
[編集] キャッチフレーズ
- 2001年 レッドアタック「攻めろ!!」
- 2002年 レッドパワー「燃えろ!!」
- 2003年 ライジングハート「たかぶるハートで」
- 2004年 REBORN TO WIN
- 2005年 WILL TO VICTORY
- 2006年・2007年 ALL-IN
[編集] カープ応援番組
- 進め!スポーツ元気丸(広島テレビ放送)
- カープDON!(広島ホームテレビ)
- カープっ娘TV(テレビ新広島)※放送終了
- サタ・スポ(テレビ新広島)
- DO THE CARP(広島FM)
[編集] 関連項目
- 広島東洋カープの選手一覧
- 涼風-登場人物の名前のモチーフがカープに所属している(した)選手の名前が多い。因みにこの作者は地元・広島出身であり、カープファン。
[編集] 外部リンク
00 山崎浩司 | 0 井生崇光 | 1 前田智徳 | 2 東出輝裕 | 4 尾形佳紀 | 5 栗原健太 | 6 梵英心 | 9 緒方孝市 | 10 比嘉寿光 | 11 小山田保裕 | 12 白濱裕太 | 13 佐竹健太 | 14 梅原伸亮 | 15 黒田博樹 | 16 宮崎充登 | 17 大竹寛 | 18 佐々岡真司 | 19 上野弘文 | 20 永川勝浩 | 21 ショーン・ダグラス | 22 高橋建 | 23 横山竜士 | 24 河内貴哉 | 25 新井貴浩 | 26 廣瀬純 | 27 木村一喜 | 28 広池浩司 | 29 佐藤剛士 | 30 森跳二 | 31 石原慶幸 | 33 鞘師智也 | 34 前田健太 | 35 中東直己 | 36 青木勇人 | 37 岡上和典 | 38 田中敬人 | 39 梅津智弘 | 40 倉義和 | 41 森笠繁 | 42 長谷川昌幸 | 44 山田真介 | 45 松本高明 | 46 大島崇行 | 47 青木高広 | 48 ジャレッド・フェルナンデス | 50 鈴木将光 | 51 末永真史 | 52 大須賀允 | 53 林昌樹 | 54 吉田圭 | 55 嶋重宣 | 56 中谷翼 | 57 甲斐雅人 | 58 小島心二郎 | 59 山本芳彦 | 60 齊藤悠葵 | 61 山本翔 | 62 今井啓介 | 63 仁部智 | 64 会沢翼 | 65 相澤寿聡 | 66 上村和裕 | 67 丸木唯 | 68 金城宰之左 | 69 天谷宗一郎 | 93 ビクトル・マルテ | 121(育成選手) 飯田宏行 | 122(育成選手) 山中達也 | 123(育成選手) エスマイリン・カリダ |
71 監督 マーティ・レオ・ブラウン | 75 ジェフ・リブジー | 88 小早川毅彦 | 73 小林幹英 | 87 澤崎俊和 | 77 高信二 | 85 永田利則 | 78 熊沢秀浩 | 76 二軍監督 山崎立翔 | 82 浅井樹 | 80 山内泰幸 | 86 阿部慶二 | 74 岡義朗 | 81 道原裕幸 | 83 朝山東洋 | 89 水本勝巳 |
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ |
---|---|
読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス |
イースタン・リーグ | ウエスタン・リーグ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | グッドウィル | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス |
中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | サーパス | 広島東洋カープ | 福岡ソフトバンクホークス |
日本シリーズ | オールスターゲーム | 日本野球機構・日本プロフェッショナル野球組織 | 日本プロ野球選手会 | 名球会 | 独立リーグ |