金子氏
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金子氏(かねこ-し)は、桓武平氏の流れをくむ武蔵七党の村山党から派生した支族であり、武蔵国入間郡金子を領した。
武蔵国多摩郡村山を領した平頼任が村山党の祖となり、その孫の家範が入間郡金子に住み金子を名乗ったのが始まりである。
家範の子家忠は保元の乱・平治の乱などで活躍し、その功績により金子氏は金子や伊予国新居ほかの地頭となった。
[編集] 伊予金子氏
伊予金子氏(いよ-かねこ-し)は、建長年間に金子氏祖 家範の曾孫広家が伊予国新居郡の領地に移り住んだことに始まる。広家は領地を金子と名付け、平野を遠く見渡せる丘陵地(金子山)に金子城を築いてその基礎を固めた。
新居一帯は伊予国の有力豪族河野氏と讃岐の細川氏がせめぎ合う激戦地であったが、南北朝時代に将軍 足利義満によって和睦が成立し、金子氏は細川氏配下になったと見られる。その後、戦国時代になると石川氏が新居・宇摩を治めるようになり、金子氏はその有力武将として石川氏を支えて発展したという。
戦国時代後期に土佐の長宗我部元親が四国制覇に乗り出した時には石川氏は弱体化して名目上の領主でしかなく、金子備後守元宅が事実上の支配者であったものと見られている。長宗我部元親は金子元宅を通じて石川氏と結びこの一帯の覇権を手にした。しかしそれも束の間、豊臣秀吉による全国統一へ向けた四国攻めが始まった。1585年(天正13年)秀吉配下の毛利一族 小早川隆景の軍は瀬戸内海を渡り新居に上陸し、これを金子元宅は配下の武将を従えて迎え撃つ(=天正の陣)が圧倒的な兵力の差に勇戦及ばず、伊予最大の激戦 氷見原の合戦で討ち死にした。弟の対馬守元春に託された金子城も落とされ、約330年にわたる伊予金子氏の新居における歴史は幕を閉じた。
金子氏居館跡には1618年(元和4年)に、天正の陣を生き延び出家した金子元春により歴代城主や武将を弔う菩提寺として慈眼寺が建立され、今に至るまで守られ続けている。また僅かに残った一族は長宗我部元親に保護され、徳川幕府による大坂夏の陣において豊臣方につくが敗れ、九州天草に逃げ延びてその地に根付いたという。