金山町 (岐阜県)
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金山町(かなやまちょう)は、岐阜県益田郡にあった町である。2004年3月1日に益田郡の他4町村と合併し下呂市となった。合併後の住所表示は、下呂市金山町○○である。
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[編集] 概要
飛騨川と馬瀬川が合流する地点を中心に栄えた飛騨街道の宿場町である。高山線白川口駅飛騨金山駅間の開通(1928.03.21)まで交通の要衝として商売していた。
江戸時代は二十二ヵ村、行政区(尾張藩[金山,桐洞,笹洞]・苗木藩[田島]・天領[下原]・旗本二家知行地[東十二ヵ村. はじめは郡上藩 ]; 維新後は岐阜県・筑摩県→明治九年以降に岐阜県; 郡制は武儀郡・郡上郡・益田郡・加茂郡に所属)によって行政万般ことごとく違う。
金山は濃飛街道の要衝で、四郡の境界。十王坂から渡し場までは宿場商店街として発展した。江戸時代には既に物品の問屋取引を行なっており岐阜尾張方面と郡上益田方面を繋いだ。明治大正期には近隣へ短期行商する店もあった。
下原は飛騨の門戸で天領交通の要衝、宿場街である。天領であった為、幕府の万延元(1860)年遣米使節随行員だった加藤素毛など国政の中央と関わる人物が幾人もいた。
金山下原間の金山渡しは境橋の完成 [明治十二年(1879.07.15)架橋の彊国橋は五年後に流失、明治十八年再架橋、境橋と改名、同年(1885.05.16)に渡橋式] まで渡舟により、難所だった。
菅田[桐洞, 笹洞]は製糸製茶が盛んで郡内有数の商業地だった。農業の副業に大工, 左官, 石工を営む者が相当居た。
東地域は馬瀬川・和良川沿いにあり宿場が多かった。農林業と林産物に依り交易した。
合併に至る前史として、戦前の旧金山町内には実業系の学校が短期間ながらも設置されており、近隣の町村から生徒が集まっていた。昭和の大合併の際、これら武儀郡・郡上郡・益田郡・加茂郡の四郡が合併して成立した金山町内には飛騨と美濃の境を示す境界石(藩領境標石)があり、高校進学は飛騨学区と可茂学区両方へ認められている。
飛騨木曽川国定公園にも指定されていて、中山七里などの景勝地もある。飛騨・美濃紅葉三十三選にも選定されている。下原ダムは、湖面に映る特急「ワイドビューひだ」が絶好の被写体となる鉄道写真の撮影地として知られている。馬瀬川を遡ると、ロックフィル式の巨大な岩屋ダムと東仙峡金山湖がある。そのすぐ傍に縄文時代の岩屋岩蔭遺跡がある。金山町祖師野で最初にギフチョウが確認されており、ギフチョウの里として有名。
[編集] 隣接していた自治体
[編集] 歴史
[編集] 沿革
- 1889年(明治22年)7月1日 町村制施行により武儀郡金山村が成立
- 1890年(明治23年)12月27日 町制施行により金山町となる
- 1955年(昭和30年)3月1日 武儀郡 金山町・菅田町、郡上郡東村、益田郡下原村、が合併して益田郡金山町となる
- 1955年(昭和30年)4月1日 加茂郡白川町大字白山の一部を編入した
- 2004年(平成16年)3月1日 下呂町・萩原町・金山町・小坂町・馬瀬村が合併し下呂市となった
[編集] 姉妹都市・提携都市
[編集] 名所・旧跡
- 中山七里
- 岩屋岩蔭遺跡
- 横谷峡の「四《よ》つの滝」
- 句碑「居ながらに聞くや四郡のほととぎす」
- 昭和三年高山線金山開通の機に来遊した山田三秋(獅子門29世宗匠)の句。金山地区中宮町の柯柄八幡神社境内地にある。
[編集] 交通
[編集] 鉄道路線
[編集] 道路
- 一般国道
- 一般県道
- 岐阜県道58号関金山線
- 岐阜県道85号金山上之保線
- 岐阜県道86号金山明宝線
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 参考資料
- 金山町誌(1975年刊)
- 続金山町誌