金栗四三
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金栗 四三(かなぐり しそう 1891年8月20日 - 1984年11月13日)は、日本のマラソン選手である。日本における「マラソンの父」と称される。熊本県玉名郡春富村(現在の和水町)出身。
旧制玉名中学を卒業後、1910年、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学。1911年、翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初オリンピック選手第1号となる。しかし、翌1912年のオリンピックではレース途中で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であった。その後、1920年のアントワープオリンピック、1924年のパリオリンピックでもマラソン代表として出場するが、アントワープオリンピックでは16位、パリオリンピックでは途中棄権に終わっている。
1920年、第1回箱根駅伝が開催されるが、金栗はこの大会開催のために尽力している。この功績を讃え、箱根駅伝では2004年より、最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されている。
1967年3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待される。実は、ストックホルムオリンピックでは棄権の意志がオリンピック委員会に伝わっておらず「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った。記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3で、これは世界一遅いマラソン記録である。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。
金栗が残したその他の有名な言葉として、「体力、気力、努力」がよく知られている。
晩年は玉名市で過ごし、1984年11月13日、93歳で死去した。熊本県民総合運動公園陸上競技場の愛称「K.K ウィング」は氏の業績をたたえたとされている。