閑院宮典仁親王
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閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう、1733年(享保18年) - 1794年(寛政6年))は、江戸時代の宮家当主で皇族。 幼名は寿宮(ひさのみや)。世襲親王家、閑院宮第二代当主。慶光天皇または慶光院の前名。閑院宮典仁親王の呼びかたは江戸期のもので、明治期以後は慶光天皇といい、皇室の一員とされている。古今伝授に連なる和歌の名手であり、短冊などの遺墨は、たいへん貴重。
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[編集] 系譜
閑院宮直仁親王の第二王子。養母は関白近衛基熙の娘、藤原脩子。実母は家女房の讃岐。 御息所は中御門天皇の第五皇女、成子内親王。
- 妃:成子内親王
- 女房:大中臣祐智女
- 第一王子:美仁親王(第三代閑院宮)
- 女房:紫雲院
- 第四王子:良宮 輪王寺宮 公延入道親王
- 第一王女:弥数宮
- 第二王女:孝宮 宗恭女王
- 女房:かく
- 第八王子:精宮
- 女房:交野
- 第九王子:鏗宮
[編集] 系図
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(114)中御門天皇 |
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(115)桜町天皇 |
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(117)後桜町天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(116)桃園天皇 |
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(118)後桃園天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(閑院宮) 直仁親王 |
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典仁親王 (慶光院) |
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美仁親王 〔閑院宮へ〕 |
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(119)光格天皇 |
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(120)仁孝天皇 |
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(121)孝明天皇 |
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(122)明治天皇 |
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輔平 (鷹司基輝養子) |
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親子内親王 (徳川家茂夫人) |
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[編集] 略歴
朝廷では、1779年に後桃園天皇が男子を残さないままに崩御してしまった為、典仁親王の第六皇子として生まれた師仁親王(兼仁親王)が、急遽即位(光格天皇)となった。父である典仁親王の宮中での地位が大臣より低い事から、太上天皇の尊号を贈ろうとしたが、江戸幕府老中・松平定信などに反対され、贈る事はできなかった(尊号一件)。
1884年(明治17年)になり、明治天皇の高祖父にあたるという事で「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」の尊号が贈られた(明治以後に「太上天皇」制度が廃止された関係で二重の手続を要した)、以後、閑院宮典仁親王ではなく、慶光天皇または慶光院と称される。
[編集] 関連項目
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