閑院宮
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閑院宮(かんいんのみや)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。
閑院宮の宮号は平安時代の清和天皇の皇子である貞元親王が閑院を号したことに由来するといわれているが、明確ではない。
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[編集] 創設
当時の皇室では皇位継承予定者以外の親王は世襲親王家を継承する例外を除いては出家して法親王となる事が慣例となっていた。ところが、承応3年(1654年)後光明天皇が22歳の若さで崩御したときに目ぼしい親王は殆ど出家してしまい、その後継問題で紛糾した。その苦い経験から皇統の断絶を危惧した新井白石は、徳川将軍家に御三家があるように、皇室にもそれを補完する新たな宮家を必要との建言が将軍徳川家宣に出された。
一方、同様の危機感を抱いていた東山天皇も家宣の舅でもある関白近衛基熙を通じて、実子である直仁親王に新宮家を創設させるための財政的な支援を求めてきた。このため、宝永7年8月11日(1710年9月4日)、直仁親王を初代とする新宮家創設が決定され、8年後に霊元法皇(東山天皇の父、天皇は1709年に崩御)より直仁親王に対して閑院宮の称号と1000石の所領を下賜された。こうして、寛永2年(1625年)の有栖川宮が創設されて以来の新宮家誕生となった。その屋敷地は、京都御苑の南西部に与えられた。旧閑院宮邸は、近年整備され、場所を変えずに江戸時代の遺構を残す唯一の宮家屋敷である。
霊元法皇が新宮家創設に反対したとする説があるが、法皇の天皇在位中にも新宮家創設を要望して拒否された経緯があり、自分の代には認めず親幕府派の東山天皇の要望によって認めたことへの不満があったとされている。
[編集] 系譜
1 2 3 4 5 …東山天皇─直仁親王┬典仁親王┬美仁親王─孝仁親王─愛仁親王 │ │119 ├鷹司輔平└光格天皇 │(鷹司家継承) └倫子女王 (五十宮・徳川家治室) (伏見宮20) 6 7 …邦家親王─載仁親王─春仁王[臣籍降下]
[編集] 歴代当主
第二代典仁(すけひと)親王の時に、新井白石の慧眼が実際に役立つこととなった。後桃園天皇が崩御し、天皇には内親王が1人しかいなかった。そこで、典仁親王の第六王子兼仁王が跡を継ぎ、光格天皇として即位した。光格天皇は、実父典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうと考えたが、将軍徳川家斉が父一橋治済に大御所の称号を贈ることを嫌った、老中松平定信の反対に遭い、朝幕間は緊張した(尊号一件・尊号事件)。ちなみにこの事件で天皇と定信の双方を説得にあたって事態収拾を図った関白鷹司輔平は初代直仁親王の末子で典仁親王の実弟に当たる。
典仁親王の後は、第三代美仁(はるひと)親王、第四代孝仁(たつひと)親王、第五代愛仁(なるひと)親王と続くが、愛仁親王は25歳の若さで薨去。後嗣が無かったため、明治時代に入り、伏見宮邦家親王の皇子である載仁(ことひと)親王を迎える。
明治5年(1871年)に閑院宮家を継いだ載仁親王は、フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、騎兵学校、陸軍大学を卒業し帰国。明治24年(1891年)、三条実美の二女・智恵子と結婚。参謀本部に勤務の後、騎兵旅団長。日露戦争では、満州軍総司令部付きの武官として従軍した。大正元年(1912年)に陸軍大将となり、大正8年(1919年)には元帥の称号を賜った。昭和6年(1931年)から昭和15年(1940年)まで参謀総長を務めた。 昭和20年(1945年)5月、81歳で薨去。 国葬を賜る。また、稀に見る美男子であった。
第七代春仁(はるひと)王は、載仁親王の第二王子として、明治35年(1902年)に誕生。公爵一条実輝の娘・直子と結婚。その後、陸軍大学校兵学教官などを経て、終戦時は陸軍少将として、戦争継続を主張した。戦後の皇籍離脱の論議では、皇室の藩屏が失われるとして反対の論陣を張ったが、昭和22年(1947年)に皇籍離脱。閑院氏を名乗り、純仁(すみひと)と改名した。戦後の新生活は波乱とスキャンダルに満ちたもので、閑院純仁は実業家としては成功を収めたものの、直子とは離婚。妹の華子女王は、皇族出身の元侯爵・華頂博信と結婚したが、恋愛スキャンダルを起こし離婚。純仁は怒りの余り、兄妹の縁を切るまでに至った。その後純仁は昭和63年(1988年)6月、85歳で逝去。子は無く、閑院家は断絶した。
[編集] 参考文献
- 若松正志「閑院宮家の創設」
- 新人物往来社『歴史読本』2006年11月号 No.807 p120~p127