関孝和
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関 孝和(せき たかかず、男性、寛永17年(1642年)3月 - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、江戸時代の和算家(数学者)である。本姓内山氏、通称新助。字は子豹、自由亭と号した。
[編集] 生涯と業績
関孝和は上野国(群馬県)の藤岡市で幕臣の家に生まれ、幼少時から、吉田光由の『塵劫記』を独学で学び、のちに、そろばんや算木から抜け出し、独自の和算の世界を創始する。甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重、徳川綱豊(徳川家宣)に仕え、綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。
1674年(延宝2年)『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術-てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。
他には円周率を正131072角形を使って、小数第11位までを求めている。
ニュートン・ライプニッツとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前までたどり着いたとして知られるが、和算が自然科学から独立して発展してしまった為にそれ以上の発展を見られなかった。・・・と言われるが、ニュートンとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前までたどりついていたという意見には、いろいろな議論が交わされている。
関は、ヨーロッパでライプニッツが行列式の概念に到達する以前に独自に同じ概念を研究していた(1683年)。またヤコブ・ベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見していたことも知られている。
関はそれ以前の中国、日本の数学を吸収した上で、そのレベルを飛躍的に向上させ、後の和算の伝統を作った。
宝永5年(1708年)10月24日(旧暦) 病に倒れ、東京都新宿区の浄輪寺に葬られている。