阿部光雄
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阿部 光雄(あべ みつお、1949年4月29日 - )は、日本のオートレース選手。新潟県出身。6期、川口オートレース場所属。モーターサイクル・ロードレースレーサーの阿部典史は実子。
[編集] 略歴
- 1974年
- この年の賞金王に輝く。
- 1975年
- 2年連続賞金王に輝く。
- 1977年
- 5月10日、第1回春のスピード王決定戦(伊勢崎オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「ゼロ」。競走タイムは3.45。
- 1978年
- 7月11日、第2回キューポラ杯争奪戦(川口オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「テン」。競走タイムは3.50。
- 1979年
- 7月24日、第3回キューポラ杯争奪戦(川口オートレース場)優勝。競走タイムは3.53。
- 1980年
- 10月14日、SG第12回日本選手権オートレース(川口オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「シビア」。競走タイムは3.92。
- 1981年
- 1983年
- 3月22日、開設31周年記念グランプリレース(川口オートレース場)優勝。競走タイムは3.43。
- 1984年
- 12月11日、第10回グランドチャンピオン決定戦(川口オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「モト」。競走タイムは3.786。
- 1986年
- 6月11日、第5回オールスターオートレース(浜松オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「シビア」(メグロ2気筒)。競走タイムは3.459。
- 1989年
- 3月2日、開設37周年記念グランプリレース(川口オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「スティック」。競走タイムは3.426。
- この年、川口後期A1。
- 1993年
[編集] 人物
阿部はかつて、同じ川口オートーレース場所属の広瀬登喜夫、且元滋紀(9期)、篠崎実(9期)らと共に「川口四天王」と呼ばれたレーサーである。雨の強さに定評があり、「雨光雄」とも呼ばれた。長らく無冠の時期が続いたが、1980年に地元川口で当時唯一の特別競走(現在のSG)タイトルである第12回日本選手権オートレースで優勝を飾った。今なお川口で最重ハンデに並ぶ猛者である。
「四天王」の中では唯一フジに乗らなかったと本人は語る。実際、トラやメグロの二気筒(プッシュロッド方式のMR型と、チェーンカム方式の両方)に乗っていた時期はかなり長い。また、1節だけベックスエンジンに乗ったことがある。乗った感想は「とてもじゃないが、乗れたもんじゃない」とのことだった。
青木治親のオートレース選手転向のきっかけを作った人物でもある。当時青木はスポンサーが見つからずシートを失う状況に陥っていた。一方、オートレース(日本小型自動車振興会)側では、1999年(27期)の選手募集時より、WGPや全日本ロードレース選手権などで優秀な成績を収めたものに限り年齢制限を28歳以下に緩めるほか(通常は23歳以下)、試験の一部を免除するといった特例枠を設けるようになった。オートレース選手募集は2年に1度しか行われないため、2003年の第29期選手募集が27歳の治親にとって最後のチャンスであった。息子・典史との関係で交流のあった阿部は青木の相談相手として様々なアドバイスをし、最終的に青木は転向を決意したのである。青木のデビュー後も、同門である阿部は良き先輩として、そして良きライバルとして交流を交わしている。
58歳を迎えようとする現在も、高速バンクと化した川口走路でのスピード戦に付いて行き、それどころか若手を置き去りにするような競走を見せる。また、2006年9月24日のSG第10回オートレースグランプリでは第11レースの特別選抜戦で1着を獲るなど、下手な若手よりも遥かに強い。一方で、かつては「雨光雄」とまで言われた雨巧者ぶりは影を潜め、最近では全くと言って良いほど雨が乗れなくなってしまっている。
余談ではあるが、川口オートの公式テーマソングである『ぶっちぎりの青春』に広瀬登喜夫らと共にバックコーラスで参加している。