雷電 (戦闘機)
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雷電(らいでん)は、日本海軍が開発し、太平洋戦争後半に実戦投入した局地戦闘機。アメリカ軍を中心とする連合国側のコードネームは「Jack」。局地戦闘機(以下「局戦」と略)とは空母から運用される艦上戦闘機とは異なり、陸上基地からの運用を前提とした戦闘機を指す日本海軍独自の用語。
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[編集] 開発の経緯
日中戦争時、中国空軍の爆撃機隊により少なくない被害を受けた海軍は、昭和14年(1939年)三菱単独指名で「十四試局地戦闘機」(以下、「十四試局戦」と略)を提示、翌昭和15年(1940年)4月に「十四試局地戦闘機計画要求書」を交付した。計画書に記載されていた海軍の要求値は、概ね以下の様なものであったとされる。
- 最高速度
- 高度6,000mにおいて325ノット(約601.9km/h)以上。340ノット(約629.7km/h)を目標とする。
- 上昇力
- 高度6,000mまで5分30秒以内。
- 航続力
- 最高速(高度6,000m)で0.7時間以上(正規)。
- 武装
- 20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺。
- その他
- 操縦席背面に防弾板を装備すること。
これを受けた三菱では零戦に引き続き堀越二郎技師を設計主務者とした設計陣を組み、開発に取り組んだ。
[編集] 概要
大型爆撃機迎撃を主任務の一つとする局戦に要求される性能は、敵爆撃機が飛行している高度に短時間で到達する上昇力と敵爆撃機に追い付く速力、そして一瞬のチャンスに敵爆撃機へ致命傷を与え得る火力の三つである。これらを重視して開発されたはずの雷電であるが、いくつかの問題を抱えていた。
[編集] 発動機
速度と上昇力を確保するためには大馬力エンジンが必要だが、当時の日本には戦闘機に適した小型軽量の大馬力エンジンが存在しなかった。そのため、一式陸上攻撃機等の多発大型機用に開発された、エンジン直径が大きいが日本最大馬力(当時)を発揮する「火星」が選定されている。但し大直径を補うために採用された紡錘形の胴体(後述)に適合するよう、延長軸と強制冷却ファンを追加した火星一三型が十四試局戦用に開発されている。強制冷却ファンは、機首を絞ったことによるエンジン冷却用空気流入量の減少による冷却効率の悪化を補う為に装備されたが、冷却用空気流入量が減少する上昇時の冷却効率を上げる効果も期待されていた。
このような努力にも関わらず、十四試局戦の最高速度が要求性能を大きく割り込むと試算されたことから、昭和16年7月、水メタノール噴射による出力向上を図ることが内定され、同年12月正式決定され火星二三甲型に換装した「十四試局地戦闘機改」(以下、「十四試局戦改」)が開発されることになった。十四試局戦は昭和17年2月に初飛行したが、予想された通り、最高速度や上昇力が要求性能に達しなかったため、より大馬力の火星二三甲型を装備する十四試局戦改の開発が促進されることになった。
同年10月に初飛行した十四試局戦改(昭和18年8月に試製雷電と改称)は、十四試局戦の要求性能をほぼ達成(十四試局戦改の要求性能は未達成)したものの、今度は最大出力発揮時に激しい振動が発生して大問題となった。この振動の原因はなかなか判明せず、防振ゴムの改良等の対策にも関わらず解消にはほど遠い状態であった。
延長軸の採用による振動の誘発は、事前に実機を使用した実験が行われたほど開発当初から懸念されており、十四試局戦改/試製雷電で振動問題が発生した際も真っ先に延長軸が疑われている。しかし、様々な分析からこの振動の原因は減速機構の振動とプロペラ強度不足による振動の共振であることが明らかになり、プロペラ減速比の変更とプロペラブレードの剛性向上によってほぼ解決されている。気化器装備で延長軸がない以外は火星二三甲型と基本的に同じエンジンである火星二一型を装備する一式陸上攻撃機二二型(G4M2)でも激しい振動が発生していることから、延長軸が振動を増幅していた可能性はあるが、主因ではなかったと考えられる。
この間、帆足工大尉が殉職する墜落事故が発生したこともあり、この振動問題が解決されるまでに1年以上の月日が経過し、雷電の実用化を大幅に遅らせることになった。
計画要求書交付から3年半近く経過した昭和18年9月からようやく一一型の生産が開始されたが、部隊配備開始後、高高度において定格通りの出力が出ないという問題が起きたことから、高高度性能を向上させた火星二三丙型や火星二六型への換装型の開発が進められている。また、従来の火星二三甲型を装備する既存機や新造機の双方に対して、昭和19年後半より高高度で有利(最高速度の面では不利)な付け根までブレードの太いプロペラに変更するという対策が施されている。
[編集] 機体設計
搭載エンジンが大直径の割に低馬力であったため、空気抵抗を可能な限り減少させなければならなかった。そのため、当時最新の航空力学理論に基づき、機首を絞り込み全長の40%が最も太くなる紡錘形の胴体が採用されている。この胴体形状ではエンジンが機首よりかなり後方に位置することから、上記したように延長軸を追加したエンジンをわざわざ開発する必要があり、操縦席部分が機首より太くなるため、背の低い風防と相まって、機首上げ時の前下方視界が極めて悪化するという弊害も招いた。このため、速力の低下を承知の上で風防上部の嵩上げが行われ、最終的には風防前部付近の胴体側面の削り落としまで行われている。
場当たり的に見える対応だが、これは十四試局戦等の飛行試験結果から紡錘形の胴体形状がさほど効果がないことが判明した後に、強風から紫電改の様に細く絞った胴体へ再設計する案が三菱から提出されたが、量産に支障が出るという理由で却下されたため、既存の胴体形状のままで最大限可能な視界改善策が妥協策として採用された結果である。また、風防に使用された曲面ガラスが視界を歪ませることも問題視され、平面ガラスに変更されている。
主翼については、1940年代当時抵抗軽減のため高速機に有利として着目されはじめていた層流翼の翼型を内翼側に採用した半層流翼を採用している。この主翼は零戦で問題となった中・高速域の横転性能が大幅に改善されており、280ノット(約518.6km/h)付近まで良好な横転性能を発揮できたとされている。また高速力の代償として主翼面積を抑えたことから、日本機としてはかなりの高翼面荷重となったため、フラップを九六式艦戦や零戦が装備した単純なスプリット式ではなく、高揚力装置としての能力が高く、また空戦フラップとしても利用できるファウラー式を採用している。
雷電と同時期以降に開発された日本海軍機に軒並み採用された層流翼は、当時の加工精度では設計で意図したほどの抵抗軽減効果は上げていなかったのではないかと言われる。また雷電の主翼は、限界領域での飛行特性にトリッキーな面があったようで、着陸速度付近での旋回時の失速による墜落事故も複数記録されており、このため雷電への搭乗を嫌う搭乗員もいたようである。急降下制限速度については、同時期に配備されていた五二甲型以降の零戦や紫電改と同じ400ノット(740.8km/h)と規定されたが、同時期の陸軍戦闘機と比較すると100km/h以上低いものであった(降下初期加速は良好)。
[編集] 武装
一一型までの武装は零戦と同じく翼内に20mm機銃2挺、胴体に7.7mm機銃2挺であったが、二一型以降は九九式20mm機銃4挺を翼内に装備している。ところが二一型の開発時期と九九式20mm機銃の生産が短銃身の一号銃から長銃身の二号銃に移行する時期が重なり、二号銃を必要数確保出来ない恐れがあったことから、外翼部に一号銃、内翼部に二号銃をそれぞれ1挺ずつ混載するという妥協案が採られている(紫電改の前身である紫電一一型の初期生産型も二号銃ではなく一号銃を装備している)。
一号銃と二号銃は同じ九九式ながら構造がかなり異なり、また弾薬包も互換性がないため、機銃そのものの整備や補給に支障をきたし、また弾道にバラツキが出るなどという結果となった。ただし、二号銃の生産が安定してからは九九式二号銃4挺に統一された他、極少数ではあるが30mm機銃を装備した機体もあった。
[編集] 戦歴
当時最新の航空力学に基づいた機体に大馬力エンジンを装備し、更に大火力を併せ持つ雷電は海軍の大きな期待を集め、昭和18年頃には零戦に替わる海軍の主力戦闘機として大増産計画が立てられた。この計画では雷電の増産に併せて零戦は減産し、昭和19年には三菱は零戦の生産を終了(中島飛行機では空母搭載用の零戦を僅かに生産)して雷電のみを生産する予定だった。
しかし、上記の問題により実用化が遅れたことから計画は白紙に戻され(とりあえず零戦を改良しつつ増産)、雷電は開発開始はやや遅いものの実用化はほぼ同時期となった紫電改と比較されるようになった。海軍における新型機の審査を受け持つ横須賀航空隊は、両者の試作機を使用した比較テストから「紫電改には対戦闘機戦闘能力が期待できるが、雷電には甲戦闘機による護衛が必要である」と結論し、「雷電の生産を中止して紫電改の生産に集中すべき」という報告書が横空から航空本部に提出されるほど雷電の評価は低下していた。しかし、紫電改の誉発動機は高空性能が期待できず、この面では雷電の火星発動機の方が有利であったことから、限定された生産量が確保され、拠点防衛部隊を中心に配備されることになった。
最初の雷電装備部隊として、パリクパパンの油田防衛部隊である第三八一航空隊が編成されたが、雷電の生産が捗らないため零戦を装備してスピンガンに進出している。後にスピンガンへ空輸された雷電を受け取った第三八一航空隊は、油田から豊富に産出される高品質燃料を使って訓練を積み、短期間ではあるが油田攻撃に飛来するB-24、P-38、P-47の迎撃で少なくない戦果を挙げている。そのほかの部隊では、本土防空専任部隊として編成された第三〇二航空隊(厚木)、第三三二航空隊(岩国/鳴尾)、第三五二航空隊(大村)に主として配備され、特に小園安名大佐率いる第三〇二航空隊の乙戦(雷電)隊は、B-29迎撃で最も戦果を挙げたと言われている。厚木基地の撃墜王として赤松貞明中尉が有名である。
[編集] 派生型
- 十四試局地戦闘機(J2M1)
- 火星一三型を搭載した試作型。初期は局面ガラスを使用した背の低い風防を装備していたが、後に背を高くして視界を改善。武装は翼内20mm機銃2挺、胴体7.7mm機銃2挺。
- 十四試局地戦闘機改/試製雷電(J2M2)
- 水メタノール噴射装置と燃料噴射装置を追加した火星二三甲型に換装、排気管を集合式から推力式単排気管に変更し、20mm機銃を銃身の長い九九式二号銃三型に換装した型。主翼上下面に大型のドラム弾倉を覆うための涙滴型の突出部がある。
- 一一型(J2M2)
- 十四試局戦改/試製雷電の生産型。生産途中から機首下部の潤油冷却器用空気取入口、翼内タンクに自動消火装置を追加。
- 二一型(J2M3)
- 武装を翼内20mm機銃4挺(ベルト給弾)に強化、胴体タンクを防弾タンクに変更した主生産型。試作名称は「試製雷電改」。20mm機銃を二号銃に統一した二一甲型(J2M3a)も試作された。
- 三二型(J2M4)
- 排気タービン過給器付きの火星二三丙型に換装した高高度型。空技廠型と三菱型の二種類があり、三菱型は翼内の20mm機銃を2挺に削減する代わりに胴体に20mm斜銃2挺を装備。三菱型は試作のみだが、空技廠型は少数だが量産されて実戦配備。
- 三三型(J2M5)
- 高高度性能を向上させた火星二六型に換装、機首下部の潤油冷却器用空気取入口を半埋め込み式とし、風防上部の再嵩上げと胴体側面を削り視界改善を実施した型。大戦末期に少数ながら三〇二空や三三二空等に配備された。二一型・三一型と同様、20mm機銃を二号銃に統一した三三甲型(J2M5a)も試作された。
- 三一型(J2M6)
- 二一型に三三型と同じ視界改善だけを実施した型。昭和19年末以降の三菱生産機は主にこの型式。二一型・三三型と同様、20mm機銃を二号銃に統一した三一甲型(J2M6a)も試作された。
- 二三型(J2M7)
- 二一型のエンジンを火星二六型に換装した型。機首下部の潤油冷却器用空気取入口は半埋め込み式だが、風防と胴体形状は二一型と同じ。試作のみ。
[編集] 諸元
制式名称 | 雷電二一型 | 雷電三三型 |
機体略号 | J2M3 | J2M5 |
全幅 | 10.8m | 同左 |
全長 | 9.695m | 9.945m |
全高 | 3.945m | 同左 |
自重 | 2,539kg | 2,510kg |
正規全備重量 | 3,507kg | 3,482kg |
発動機 | 火星二三甲型(離昇1,800馬力) | 火星二六型(離昇1,800馬力) |
最高速度 | 596.3km/h(高度5,450m) | 614.5km/h(高度6,585m) |
上昇力 | 6,000mまで5分38秒 | 8,000mまで9分45秒 |
降下制限速度 | 740.8km/h | 同左 |
航続距離 | 2,519km(増槽あり) | 全力0.5時間 + 巡航2.4時間 |
武装 | 20mm機銃4挺(携行弾数190~210発) | 同左 |
爆装 | 30~60kg爆弾2発 | 同左 |
[編集] 余談
当時の連合軍機のようなずんぐりむっくりした機体や、P-47やA-10と愛称が同じ「サンダーボルト(雷電)」であることから、欧米諸国のミリタリーマニアの間では意外と人気が高い。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本の戦闘機 | 大日本帝国海軍航空機