高宗 (高麗王)
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高宗 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 고종 |
漢字: | 高宗 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
こうそう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
コジョン |
ラテン文字転写: | Gojong |
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高宗(こうそう、1195年-1259年、在位1213年-1259年)は第23代高麗王。
1218年、モンゴル帝国と同盟を結ぶことで親睦を深めようとしたが、モンゴルに属国同然に扱われたことに激怒し、1225年に断交して対立する。そのため、高麗はモンゴル軍の侵攻を6度にわたって受けることになった。
このため、モンゴルの襲来を恐れた高宗は高麗の首都を江華島に移したが、その結果として本土が壊滅状態となり、1258年、これを見かねた高宗は、皇太子(のちの元宗)を人質として差し出すことを条件にして降伏した。このモンゴルの侵攻で、高麗は荒廃し、実質的には滅亡状態にあったという。
1236年(高宗20年)に元が高麗に侵攻し、符仁寺にあった版木は戦災で焼失してしまった。高宗は江華島に避難していたが、大蔵経の製作を指示し、巨済島や南海から白樺の材木を運び、15年の歳月をかけて八万枚以上もの版木を彫り上げた。これが、2004年現在に伝わる高麗八萬大蔵経である。
[編集] 略年
- 1月22日 蒙古 高麗からひきあげる。
- 都を開京から江華島に移し抵抗。
- 達魯花赤が殺害される事件
- 1235年 蒙古軍、再び高麗へ。(元史 2)
- 1238年 蒙古軍、再び高麗へ。
- 1247年 9月 蒙古軍、再び高麗へ。(元史 208)
- 1254年 夏 高麗へ。(元史 3)
- 1258年 和州以北を蒙古へ
- 1259年 蒙古に服属。世子 (元宗)を人質として差し出す。
- 1259年死去。
[編集] 関連事項
- ^ 太宗三年八月,命撒礼塔征其国,国人洪福源迎降于军,得福源所率编民千五百户,旁近州郡亦有来师者。撒礼塔即与福源攻未附州郡,又使阿兒秃与福源抵王京,招其主王皞,皞遣其弟怀安公王侹请和,许之。置京、府、县达鲁花赤七十二人监之,遂班师。
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