高野虎市
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高野 虎市(こうの とらいち、1885年 - 1971年)は、チャーリー・チャップリンの秘書として有名な人物。広島県安佐郡八木村(現・広島市安佐南区八木)出身。
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[編集] 略歴
- 1885年 広島に生まれる
- 1900年 渡米
- 1916年 チャップリンに運転手として雇われる
- 1934年 チャップリンの元を離れ一時帰国し、すぐに米国に戻る。
- 1941年 アメリカでスパイ容疑で逮捕される。
- 1957年 日本に帰国。東嶋トミエと出会う。
- 1971年 死去
- 2006年 3月25日~4月2日まで、京都市にて、チャップリン研究の第一人者大野裕之らの呼びかけで、「チャップリンの日本~チャップリン秘書・高野虎市遺品展」が開催される。チャップリン国際シンポジウムも同時開催され、東嶋トミエ、黒柳徹子、ジョゼフィン・チャップリン、大野裕之らが講演した。
[編集] 人物
1900年、15歳のときに渡米し当初は従兄弟を頼りに暮らしながら雑貨店などで働いていた。1916年にチャーリー・チャップリンが運転手を募集していたため赴いたところ、採用された。とくにチャップリンが日本人を求めていたわけでも、高野がチャップリンのファンであったわけでもない。当初は運転手としての雇用だったが、後にチャップリンの身の回りに関する全てを担う秘書と呼べる存在となる。チャップリンは高野のこの仕事に一途な姿勢に感銘をうけ、一時期家の使用人全てを日本人にしたほどである。また、チャップリンが日本贔屓であるのも彼に由るところが大きい。
1934年までチャップリンの元で秘書を務めた。全幅の信頼を寄せられていた虎市が突然解雇された理由については諸説あるが、チャップリンの当時の妻ポーレットの浪費癖を指摘したところ、不快に思われ解雇されたという説が有力である。
チャップリン研究家の大野裕之によると、1941年にアメリカで日本軍のスパイ容疑で逮捕され、6年間抑留されたとのこと。
1957年に、日本に帰国。晩年を故郷の広島で過ごした。1971年、86歳で死去。
[編集] その他
- チャップリンの映画『チャップリンの冒険』(1917)に運転手役として出演している。
- 映画監督牛原虚彦は高野の紹介によってチャップリンに弟子入りができた。
- テレビ番組トリビアの泉において「チャップリンのマネージャーは日本人。」とトリビアとして取り上げられたことがある。
- 最晩年に、チャップリンへの面会を希望していた萩本欽一から請われてアドバイスをした。高野は「チャップリンは日本人、特に女性が好みだから女性を連れて行けば会ってくれるだろう」と答え、それを聞いた萩本は(女性は連れて行けなかったため)博多人形を土産として持参した。
[編集] 参考文献
- 『チャップリン再入門』(NHK出版生活人新書 大野裕之著)
- 『チャップリンの日本』(日本チャップリン協会 大野裕之著)=高野虎市の遺品を集めた貴重な写真集。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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