鷹司輔政
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鷹司 輔政(たかつかさ すけまさ、嘉永2年(1849年) - 慶応3年9月11日(1867年10月8日))は、江戸時代末期(幕末)の公家。父は関白鷹司輔煕。母は一条忠良の娘・崇子。
安政5年(1858年)正月、数え10歳にして従三位に叙せられ、同年9月権中納言・左衛門督となる。文久2年(1862年)正月には左近衛権中将を兼務。翌年2月には権大納言となった。
元治元年(1864年)の2月には正三位に叙せられ、5月には16歳の若さで国事御用掛に任命されるが、7月に起きた禁門の変において長州藩に同情し、朝廷と長州との間を斡旋しようとしたため孝明天皇の不興を買い、参朝を停止された。
しかし、翌月には謹慎を解かれ廟堂に復帰。慶応2年(1866年)8月には従二位に進む。翌年2月には山陵使長官となった。5月12日、将軍徳川慶喜が主催した兵庫開港勅許問題を議する朝議に参加した際には、会議の長さに辟易した摂政二条斉敬が散会を提案したのに対し、堂々と「天皇も摂政も将軍も良しとする勅許をこの会議で決められないようでは朝廷も今日限りと存ずる」と発言し、父・輔煕にたしなめられるが、この発言がきっかけとなり、慶喜の思惑通り勅許問題は解決した。
同年9月、急死。まだ19歳の若さであった。