24年組
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24年組(にじゅうよねんぐみ)とは昭和24年(1949年)頃生まれの少女漫画家の集まり。花の24年組とも言う。
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[編集] 大泉サロン
「大泉サロン」とは、後に「24年組」と呼ばれる女性漫画家達の拠点であった、東京都練馬区大泉の竹宮惠子と萩尾望都が同居していたアパートを指す。このアパートを中心に昭和24年頃生まれの若き女性漫画家達が共同生活を送り、その後の少女漫画界を担う人材として成長していった。そのため、「大泉サロン」は少年漫画界の「トキワ荘」に相当する存在とも言えよう。
「大泉サロン」は1970年から大体1973年頃までが主要な活動期間で、肉筆回覧誌『魔法使い』の作成や、互いの作品制作への協力、あるいは少女漫画の今後のあり方に関する論議などが活発に行われていたとされる。とはいうものの、その活動時期、活動停止時期については明確でない。「大泉サロン」は自然発生的に成立し、いくらかの自覚的活動を行いつつ、いつしか自然消滅したものと思われる。なお、「大泉サロン」解散後も、参画した漫画家同士はそれぞれに親密な関係を持ち続けた。
「大泉サロン」は日本漫画史を語る上で避けては通れない話題にも関わらず、「トキワ荘」と比べると資料も少なく、今後の研究が待たれるところである。 「大泉サロンについて」参照
[編集] 24年組
1970年代までの少女漫画は、少女を対象とする漫画でありながら、男性作家が開拓し編集者も男性という矛盾を抱えつつ、内容的には絵柄の華やかさと運命に流される女性の古典的恋愛のみを求められる状況が長く続いた。こういった中、昭和24年生まれの女性漫画家を中心として少女漫画に一つの革新がもたらされた。彼女達の描く漫画は、主人公が少女以外であったり、SFやファンタジー的要素の導入、表現レベルでは画面構成の複雑化など、それぞれに個性的な技法が駆使されており、今までの少女漫画とは技術的にも内容的にも明らかに異なっていた。この結果、少女漫画の手がけるテーマや内容は急速に深まり、その扱う範囲が急激に広がったのである。彼女らの残した業績は、ただ女性が「少女漫画」のみを描くという当時の不文律をも覆し、女性漫画家が少年誌に連載枠を有つという流れをも生み出した。
例えば、竹宮惠子は少年誌に連載枠を持ち(『地球へ…』「マンガ少年」1977年~1980年 、後にアニメ映画化)、当時話題となった。2004年現在、多くの女性漫画家が少年誌・青年誌で活躍しているが、竹宮惠子の例はその端緒となった事例の一つであろう。竹宮の作品が評価された理由は、彼女の革新性が少女漫画の革新に止まらず漫画表現そのものの革新であったこと、またその内容が対象性別を超えて十分に通用しうるものであったことが挙げられよう。
竹宮の例にみられるような革新性・ある種の普遍性は、その周辺で活躍した女性漫画家にも(個性の差こそあれ)ほぼあてはまるものであり、その革新性・普遍性は少女漫画のカバーする範囲をより広範にすることを決定づけると同時に、「少女漫画・少年漫画」という括りをある程度無効にするものであった。故にこれ以降、少女漫画家が必ずしも「少女ための漫画」のみを描くとは言えない状況が作り出され、今日に至っているのである。
かかる少女漫画の革新を担った女性漫画家達の生年がほぼ同一であったこと、また相互に関係が深かったことから、これらの女性漫画家群はその生年をとって「花の24年組」と呼ばれるようになった。また、年齢およびその作風から彼女達の後輩に当たる女性漫画家達は、「ポスト24年組」と呼ばれている。
これら一群の女性漫画家の多くは長期にわたって活躍しており、日本漫画史を語る上で欠かすことの出来ない存在と言えよう。
[編集] メンバー
- 花の24年組:青池保子、池田理代子、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、木原敏江、山岸凉子、樹村みのり、ささやななえ、山田ミネコ、増山法恵
- ポスト24年組:水樹和佳、たらさわみち、伊東愛子、坂田靖子、佐藤史生、花郁悠紀子
[編集] 関連項目
- 団塊の世代‐24年組が属する人口急増世代。