5月13日事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
5月13日事件(5・13事件とも)とは、1969年5月13日に発生したマレーシア史上最悪の民族衝突事件である。1969年総選挙が実施された5月10日の3日後に発生した暴動は、ほぼ1日で収まったものの、銃撃や放火などによって、暴動発生後の数日間で死者196人、負傷者439人の犠牲者を出す流血の大惨事となった。
目次 |
[編集] 背景
[編集] マレー人側の不満
事件勃発の背景の第1として挙げられるのが、建国の父であるラーマンが年をとってしまったことである。独立以来のラーマンの政策は、基本的にはレッセ・フェールであり、政治的には、民族間(マレー人・華人・インド人)の融合政策であった。その融合政策は、独立前夜から続く、統一マレー国民組織(UMNO)-マレーシア華人協会(MCA)-マレーシア・インド人会議(MIC)の3党からなる国民戦線による連立政権であり、「政治はマレー人、経済は華人」という原則を建てていた。
ただ、ラーマンの次の世代に当たるマハティールらUMNO第2世代にとって、ラーマンの民族宥和政策は不満の残るものであった。先述の原則に基づけば、マレー人は経済的に常に華人に対して劣位に立たされている状況は変わらないわけであり、貧困に瀕しているという認識を持つにいたる。その結果が、マレー人の農村部の開発と商工業部門への参入を補助する政策を盛り込んだ第2次5カ年計画(1961年から65年)である。
[編集] 華人側の不満
事件勃発の背景の第2としては、マレー人優遇政策への反発がある。公用語をめぐる問題で華人内部の対立が明らかとなる。
UMNOと連携してレッセ・フェールの経済政策を推進したのはあくまでも英語教育を受けたエリート層であり、当時の華人内部においては上流階層に属する。彼らの経済政策は、少なくとも、中下流階層の華人住民を満足させるものではなかった点は否定できない。中下流層は、マレー語及び英語を解することができず、なおかつマレーシアの公用語が憲法153条条項でマレー語のみと定められ、なおかつ、1957年教育令において、中等教育以降の華語教育の存続が不明確だった点において危機意識を持つにいたった。
[編集] 暴動の発生と議会機能の停止
1969年総選挙の結果、UMNO-MCA-MICを中心とする国民戦線政権は大きく議席を減ずることとなる。1964年総選挙時点での各党の議席数から1969年総選挙時点での議席数の推移は以下の通りとなる。総定員は、104議席。
- 与党(国民戦線) 89→67
- UMNO 59→51
- MCA 27→14
- MIC 3→2
- 野党
- マレーシア民政運動(グラカン) 8 ※1964年総選挙時は未結成
- 人民進歩党(PPP) 2→4
- 全マレーシア・イスラーム党(PAS) 9→12
- 民主行動党(DAP) 1→13
グラカン、DAP、PPPといった華人勢力が大きく勢力を伸ばす一方で、今まで華人勢力の受け皿となっていたMCAが大きく議席数を減らした。華人系住民は意気軒昂となり、野党勝利の行進が行われた。この動きに対抗する形で、UMNOを支持したマレー人青年が行進を行った。その両者の衝突が首都クアラルンプールでおき、流血の惨事になった。これが5月13日事件である。
この結果、ラーマンのUMNO内における指導力は大幅に低下し、1970年9月に首相を辞任し、ラザク副首相が第2代首相に昇格した。また、マレーシアの議会機能は、1971年2月まで21カ月間の間停止する。
[編集] 参考文献
- Mahathir bin Mohammad、高多利吉訳『マレー・ジレンマ』(勁草書房、1984)
- 萩原宜之『ラーマンとマハティール--ブミプトラの挑戦』(岩波書店、1996)
- 金子芳樹『マレーシアの政治とエスニシティ』(晃洋書房、2001)