TVR
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TVR (ティー・ブイ・アール TVR Engineering Ltd.)は、英国のスポーツカーメーカーである。創業者はトレバー・ウィルキンソン(Trevor Wilkinson)。
1970年代前までは、小さなバックヤードビルダーに過ぎなかったが、1981年にピーター・ウィラーに買収され、1990年代、彼の思想が盛り込まれたキミーラの成功によってTVRはポルシェ、フェラーリに次ぐ世界第3位のスポーツカーメーカーに成長した。そのころ日本でも東京モーターショーに出展したり、ゲームソフト「グランツーリスモシリーズ」に登場するなど、徐々に知名度を上げていった。2003年には西部警察スペシャルでの人身事故が発生したが、皮肉にもこの事件によって日本でのTVRの知名度は飛躍的に向上した。 2004年にロシアの大富豪、ニコライ・スモレンスキーがTVRを買収、社長に就任した。
日本の総輸入元は2001年までは岡崎市のTVR Japanであったが、2002年から名古屋市のオートトレーディングルフトジャパン輸入権を取得し、輸入販売を行っている。
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[編集] 歴史
[編集] 創業までの道のり
TVRの創始者のトレバー・ウィルキンソンは、1937年、14歳の時から地元ブラックプールのクルマ屋に弟子入りして働き始めた。1946年、トレバーが23歳の時に、彼は郊外にある修理工場を改装してTrevcar Engineeringを立ち上げる。当時、家族は彼の新しい試みに乗り気ではなかったが、息子の熱意に押されて、ついに父親が修理工場の設置に伴う費用のほとんどを出資して工場が完成する。ウィルキンソンは自身の経験を生かして既存のシャーシを使用した特別車を作り始める。当初はメインの収入源はクルマの修理とディーラー業であった。そのうちに彼の元には様々な製造業の仕事が舞い込むようになる。
[編集] トレバー・ウィルキンソン時代
1947年にウィルキンソンは最初はパートタイムとして夜と週末のみ働いていたジャック・ピッカードを最初の従業員として雇用し、会社名もTVR Engineeringと改めた。軍のトラックの修理依頼が定期的に舞い込みTVR Engineeringは、安定した収入を得るようになった。 2年後、会社の経営が軌道に乗ったと判断したウィルキンソンは初めてTVR独自のシャーシの開発に着手する。彼もジャックも自動車工学の経験がそれほど無かったために、プロジェクトの完成までにはかなりの時間が費やされた。この時点でもメインの収入源は機械の製作だったため、彼らは仕事の合間を縫って、昼も夜もそして休日も働き続けた。鋼鉄のパイプが枠組みされたシャーシが完成したところで、テスト走行が行われた。が、最初のテスト走行ではクルマは木にぶつかってやっと止まるといった状態だった。再び改良が加えられ、まともなブレーキが取り付けられた。ボディワークを手がけるためにレス・デールが雇用され、最初のTVR車が完成した。クルマの形は古くさく、製造者達はがっかりしたが、このクルマはウィルキンソンのいとこが購入し、クルマの完成前に次の顧客はすでに決定していた。この時点までは彼らの仕事はまだ趣味の域を出ないものだった。その後もほとんど受注生産のワンオフモデルばかりで、生産量が増え出したのは1958年のグランチュラの製造以降である。グランチュラはF1マシン、ロータス25にも搭載された名機、コベントリー・クライマックスを搭載したFRPボディの安価な軽量スポーツカーとして人気を博した。その後1963年にさらに過激なグリフィスを発表したが、その後経営が悪化、1965年にマーチン・リリーへとその経営が引き継がれた。
[編集] マーチン・リリー時代
リリーはその後、タスカン、ビクセン、Mシリーズ、タイマーといったモデルを送り出し、年間生産台数400台を超えるメーカーへと成長させた。しかし1980年に発売したタスミンが不評で、経営が悪化した。ロータス・エスプリに負けんばかりに角張ったデザインは刺激的ではあったが、生まれてくるのが10年遅かった。デザインの流行はもはやウエッジシェイプではなく曲線を多用した流線型に移っていたのだ。そしてリリーはTVRの経営権を手放すことになった。
[編集] ピーター・ウィラー時代
そこで登場したのがピーター・ウィラーである。彼は1981年に経営権を手に入れ、彼は不評であったタスミンにバリエーション(TVR初のコンバーチブル、4シーターなど)を追加し、エンジンを創業当時から長らく搭載してきたフォードV8からローバーV8に変更し、シャーシを細くすることによって軽量化した。その後1986年にはSシリーズを発表、年間生産台数は700台を超えるまで成長させた。更に1990年、新世代TVRたるグリフィスを、1992年にキミーラを矢継ぎ早に発表。エグ味のある、FRP素材を活かして作られた生物のようなヌメっとしたブリティッシュデザインは好評で、キミーラはTVR史上最も売れた車種となった。1994年にはバックヤードビルダーとしては常識外の自社製V8エンジンAJP8を開発、それを搭載するサーブラウを発表する。その後1996年にSPEED12、SPEED6と次々に自社製エンジンを開発、それらを搭載したタスカンを1998年に、タモーラを2001年に発表した。そして現在、TVRは年間生産台数2000台を超える世界で第3位の巨大スポーツカーメーカーとなった。(ちなみに1位はポルシェで4万台、2位はフェラーリの3500台)
[編集] ニコライ・スモレンスキー時代
2004年、TVR社は、ロシア人の若い大富豪家ニコライ・スモレンスキーにより日本円にして30億円で買収された。スモレンスキーは今までのウィラー時代と比べて、品質管理、信頼性の向上に力を注いでいる。さらに製造部門と販売部門を分割し、出荷前のチェックを厳しく行うようになった。そのうえ、新車購入後2年間の完全保証制度を導入し、ただのバックヤードビルダーではなく、自動車メーカーとしての体制を固めている。2005年にはT350の後継車、サガリスを発表。ウィラー時代よりもさらにエグ味を増したデザイン路線を打ち出した。しかし、依然としてブラックプールの工場はウィラーのものであり、スモレンスキーは月に日本円にして数千万円の家賃を支払っている。また、ウィラーはTVR社に対して影響力を持っている存在でもある。このためスモレンスキーは創業の地であるブラックプールを離れ、海外に移転することを決定した。しかし移転先はまだはっきりとは決まっていない。有力な移転先としてベトナムや南アフリカなどが噂されている。
[編集] 世界最大のバックヤードビルダー
50年以上の歴史の中でTVRは、「スポーツカーというのは、大馬力で軽量であればそれでいい」という考えのもとに、マルチチューブラースペースフレームに軽いFRPボディを被せた軽量ハイパワーなFRを一貫して作り続けてきた。ドライバーズシートさえも手作りで行なわれるというアナログさ、エアバッグは勿論の事、ABS、TCD等の電子デバイスは一切装備されないというレーシーさは、今尚TVRがバックヤードビルダーである事を証明している。
[編集] 車種
- Jomar
- グランチュラ
- グリフィス
- タスカン
- ビクセン
- 1600M
- 2500M
- 3000M
- タイマー
- 3000S
- タスミン
- 280i
- 350i
- 350SX
- 350SE
- 390SE
- 400SE
- 400SX
- 420SE
- 420SEAC
- 450SE
- 450SEAC
- TVR S1
- TVR S2
- TVR S3(C)
- TVR S4C
- TVR V8S
- グリフィス
- キミーラ
- サーブラウ
- タモーラ
- T350t
- T350c
- タイフーン
- サガリス
[編集] TVRが使用された映画、ドラマなど
[編集] 日本国内
- ドラマ
- 映画