イェロギオフ・アヴェロフ (装甲巡洋艦)
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イェロギオフ・アヴェロフ(Georgios Averof)はギリシャ海軍がイタリアより購入した装甲巡洋艦である。艦名は、本艦の購入代金のうち1/3を寄付したギリシャの大富豪の名に因む。本艦は1911年の就役から現代まで現存する唯一の装甲巡洋艦である。
なお、イェロギオフ・アヴェロフは日本語での慣用で、ギリシャ語名はイェオルギオス・アヴェロフ(Γεώργιος Αβέρωφ)である。特に、名前の部分が「フ」ではなく「ス」である点に注意。
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[編集] 購入までの経緯
1829年に英・仏・露の介入によりオスマン帝国より独立したギリシャ王国はエーゲ海を挟んで東に対峙するオスマンと厳しい緊張関係が続いていた。列強による強弱取り混ぜた介入政策によりオスマンは弱体化したと言っても、建国まもないギリシャ王国には依然として強大な敵であった。ギリシャ海軍は少ない予算から1885年にノルデンフェルトの潜航艇第一号を購入したり、1892年にフランスより海防戦艦「イドラ級」3隻を購入したりと、着実にオスマン海軍への対抗力をつけていた。だが、オスマン海軍には依然として近代化改装済みの装甲艦6隻と新型装甲艦1隻、蒸気フリゲート8隻が作戦行動可能なレベルに整備されており、完璧とは言いがたかった。
その頃、地中海世界で躍進を続けるイタリア王国が装甲巡洋艦「ジュゼッペ・ガリバルディ(2代)」級の改良型艦を建造すると発表した。ガリバルディ級は8隻が建造されたが、イタリア海軍に渡ったのは3隻だけで、残りは1隻がスペインに、4隻がアルゼンチンに売却されたが、内2隻は大日本帝国海軍に売却され、1905年の日露戦争で活躍した。イタリア海軍に納入された艦は、1912年の伊土戦争でオスマン装甲艦「アヴニ・イラー」を撃破した。
オスマン海軍への対抗打に欠けていたギリシャ海軍はイタリアより最新型の装甲巡洋艦を発注することとした。しかし、建国まもないギリシャにとって一隻数十万英ポンドもの大金を用意するのは並大抵の事ではなかった。そこへ、ギリシャを代表する海商王イェロギオフ・アヴェロフが海軍に数十万ポンドもの大金を寄付した。アヴェロフ氏は愛国心溢れる富豪で1896年にアテネで開催された第1回近代オリンピックにおいて、競技を行う主競技場の建築代金 580,000ドラクマを肩代わりすると言う、歴史に残る偉業を遺した人物である。そのアヴェロフ氏の献金により不足していた購入代金の1/3を補うことができた事を記念して、ギリシャ海軍で初の排水量1万トンを超える大軍艦の名に「イェロギオフ・アヴェロフ」を冠したのである。
[編集] 艦形について
基本設計はイタリア海軍のピサ級と同一である。同年代の前弩級戦艦「レジナ・エレナ級」の砲装備を小型化し装甲を減じた代わりに速力を2ノット増加した艦として設計士官ジュゼッペ・オルランドの手によりスマートに纏められた。船体は典型的な平甲板型船体で、艦首には未だ衝角(ラム)が付いている。主砲はイタリア製の「25.4cm(45口径)砲」ではなく、わざわざイギリスより「Mark X 23.4cm(47口径)砲」を購入した点が「ピサ級」とは異なる。これを、楕円筒形状の連装砲塔に纏め、1番主砲塔、司令塔を組み込んだ操舵艦橋、1番から3番までの煙突を挟み込むように両舷に生えた「19cm(45口径)砲」を楕円筒形状の連装砲塔に収め、背中合わせに二基ずつ計4基を配置した。煙突の背後には単脚檣と二本のボート・クレーンが付く、その背後に後部主砲塔が一基装備された。
[編集] 備砲について
この砲はイギリス海軍で多く使われた砲で、準弩級戦艦「キング・エドワード7世」や装甲巡洋艦ドレイク級、クレッシー級、デューク・オブ・エジンバラ級、ウォーリア級と長く使われた砲である。
この砲は毎分3~4発を発射でき、仰角15度で最大射程は14,170 mに達した。副砲は破壊力を重視して「1908年型 19cm(45口径)砲」を採用し、この砲塔は毎分3.2発を発射でき、俯仰角は仰角25度から俯角7度で最大仰角25度で22,000mというイギリス製主砲を超える大射程を持っていた。その他に対水雷艇用に「76mm(40口径)砲」を単装砲16門、47mm(40口径)単装砲2基、45cm水中魚雷発射管3基を装備した。
[編集] 機関について
ボイラーはフランスで開発され各国に採用されたベルヴィール式石炭・重油混焼缶22基に直立型四気筒三段膨張式レシプロ機関2基2軸推進で最大出力20,000hp、速力23ノットを発揮した。速力12ノットで航続距離は2672海里と計算された。航続距離が他国装甲巡洋艦に比べ、極端に短いのが特徴であるが地中海での行動を念頭において設計されたイタリア装甲巡洋艦の特徴である。同じく地中海で行動するギリシャ海軍では特に問題ではなかった。
[編集] 防御について
本級の防御装甲は同世代の装甲巡洋艦に比べ、1万トン台という排水量を考えれば極めて強固であり。舷側装甲厚200mmという値は防御に優れるイギリス艦の152mm、ドイツ・フランス艦の170mm~180mmで欧州最高峰であった。唯一として比肩するのが大日本帝国海軍の装甲巡洋艦「筑波型」(竣工時は装甲巡洋艦に属していた)の203mmくらいであった。
[編集] 竣工から第二次世界大戦まで
本艦は1909年にイタリアの大手造船会社オルランド社がリヴォリノ造船所にて輸出用に建造中していたピサ級装甲巡洋艦「仮称名 "X"」を、同年にギリシャが30万英ポンドで購入し、1910年3月12日に進水式を行い、翌1911年5月16日に竣工してギリシャへと引き渡された。就役後はギリシャ海軍の旗艦として艦隊の中核を成し、1912年10月17日に生起したバルカン戦争において、海防戦艦イドラ級3隻と駆逐艦14隻を率いてオスマン海軍と激しく戦った。同月18日から20日にかけてダーダネルス海峡封鎖を狙ってレムノス島占領作戦を成功に導いた。1912年12月16日にオスマン帝国海軍によるギリシャ反抗作戦が開始され、前弩級戦艦「トゥルグート・レイス」級「トゥルグート・レイス」「バルバドス・ハイレディン」2隻と装甲艦「アシャーリ・テウフイク」と防護巡洋艦「メスディエ」と駆逐艦4隻を率いて突撃してきた。これに対し、ギリシャ艦隊は旗艦「アヴェロフ」とイドラ級3隻と駆逐艦4隻を率いて迎えうった。
オスマン帝国艦隊は岸から充分に離れてから90度回頭した。これに対し、「アヴェロフ」に座乗するコンドリオティス少将は優速な艦を率いて20ノットを下命、付いてこられない艦は自由行動とした。アヴェロフを旗艦とした高速艦隊は縦列陣を、装甲艦3隻は横列陣を採り前進する。オスマン帝国艦隊は9,000mから射撃を開始したものの、重装甲なフランス製海防戦艦に戸惑っている内にアヴェロフに回り込まれて両方から砲弾を撃ち込まれる体たらくであった。慌てたオスマン艦隊の指揮官はダーダネルスへの撤退を命じた。しかし、艦隊運動はお粗末で混乱に満ち満ちており、互いに進行方向を妨害する始末であった。更に、射線上に友軍艦隊がいるのでオスマン艦隊は射撃を中断。その隙を突かれ「バルバロス・ハイレディン」の艦後部に立て続けに命中弾、機関室や石炭庫で火災が発生し中破した。「トゥルグート・レイス」と「メスディエ」にも命中弾が出たが、大した損傷は出なかった。混乱する「メスディエ」はギリシャ駆逐艦「イェラクス」に60発以上の102mm砲弾を発射し追い払ったのが戦果らしい戦果だった。オスマン艦隊は我先へとダーダネルス海峡に逃げ込み、10時30分に戦闘終了。
オスマン帝国艦隊はこの時に大小合わせて800発もの砲弾を発射したが、大口径砲弾の命中は唯一3,000mまで近づいた「アヴェロフ」に命中弾1発を出しただけで、それさえも強固な舷側装甲に弾かれた。むしろ小口径弾の方が命中弾が多く、「アヴェロフ」に十数発の命中が確認され、1人戦死、7名負傷させた。他に「イドラ」と「スペツェス」に命中弾が出たが、両方合わせて1名が重傷を負ったに過ぎない。なお、「プサラ」は無傷であった。ギリシャ艦隊の圧勝で終わったこの海戦は「エリの海戦」として戦史に残り、その名は1914年に中国経由でアメリカ合衆国より購入した軽巡洋艦「エリ」として残った。
1913年には、先の海戦の影響で左遷させられた前任者に代わりラムシ・ベイ大佐率いるオスマン艦隊は主力艦4隻と駆逐艦13隻を率いて再びダーダネルス海峡を渡った。しかし、オスマン帝国艦隊がレムノス島まで13マイルまでに近づいたとき、ギリシャ艦隊が出撃してきた。「アヴェロフ」の存在を確認したオスマン艦隊司令は退却を下命。しかし、コンドリオティス司令はこれを追撃、長距離砲撃戦が始まり、徐々に距離を詰めながら砲戦は継続され、約2時間は「アヴェロフ」は5000mにまで接近し、トルコ艦隊に何度も命中弾を出した。砲撃を受けた「バルバロス・ハイレディン」と「トゥルグート・レイス」は激しく炎上したが、さすがに前弩級戦艦であり、ダーダネルス要塞の射程まで逃げ込んだ。しかし、「バルバロス・ハイレディン」は2番主砲塔が使用不能となり、同じく「トゥルグート・レイス」も砲塔1基が破壊された。装甲艦「アシャーリ・テウフイク」は大破した。
今回もオスマン帝国艦隊は大小砲弾合わせて800発を放ったが、人的被害はギリシャ艦隊全体で1名が運悪く重傷を負っただけ。旗艦「アヴェロフ」に命中した砲弾は戦闘能力を奪う損傷は与えていなかった。一方でオスマン帝国艦隊は戦艦2隻が中破、装甲艦1隻大破で、人的被害は31名戦死、負傷者は82名を数えた。今回もギリシャ艦隊の大勝利に終わり、この海戦は「レムノスの海戦」として戦史に残り、その名はギリシャがエリに引き続きアメリカより準弩級戦艦ミシシッピ級2隻を購入し、海防戦艦「キルキス」級2番艦「レムノス」として名が残った。
バルカン戦争においてギリシャ艦隊の中核として戦闘のみならず、輸送作戦に従事した本艦はほぼ無傷のまま戦後を迎えた。
第一次世界大戦時には連合側として参戦したギリシャは、ギリシャ艦隊をフランスに差し出した。フランス海軍指揮下に置かれた「アヴェロフ」以下ギリシャ艦隊は輸送作戦で海上護衛に従事した。その縁もあり、第一次大戦後、前檣のなかった本艦は強固な三脚型の前檣を与えられ、頂上部にフランス式射撃方位盤と「X」字状の信号ヤードが設けられた。また、老朽化した機関を換装して現代の姿に近くなっている。近代化改装を終えた本艦は再びギリシャ艦隊の中核としてエーゲ海で活発な活動を行った。オスマン艦隊にはドイツより購入した巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」があったが同艦は1918年10月から1923年まで連合軍に抑留されていたし、返還後も連合軍の眼が光っており、ダーダネルス海峡から出ようとしなかったので問題は無かった。
[編集] データ
[編集] 竣工時
- 水線長:140.5m
- 全長:130m
- 全幅:22.2m
- 吃水:21.1m
- 基準排水量:-トン
- 常備排水量:9,832トン
- 満載排水量:10,100トン
- 兵装:23.4cm(47口径)連装砲2基、19cm(45口径)連装砲4基、76mm(40口径)単装砲16基、47mm単装砲2基、45cm水中魚雷発射管3基
- 機関:ベルヴィール式石炭・重油混焼缶22基+直立型四気筒三段膨張式レシプロ機関2基2軸推進
- 最大出力:20,000hp
- 航続性能:12ノット/2672海里
- 燃料搭載量:1,560トン(石炭)、70トン(重油)
- 最大速力:23ノット
- 装甲
- 舷側装甲:200mm(水線面上部主装甲)、80mm(艦首尾部)
- 甲板装甲:51mm
- 主砲塔装甲:160mm(前盾)、140mm(側盾)、140mm(後盾)、-mm(天蓋)
- 副砲塔装甲:170mm(前盾)、-mm(側盾)、-mm(後盾)、-mm(天蓋)
- パーペット部:190mm
- 司令塔:180mm
- 航空兵装:-機
- 乗員:684名
- 同型艦:なし
[編集] 関連項目
[編集] 参考図書
- 「世界の艦船増刊 イタリア巡洋艦史」(海人社)
- 「世界の艦船増刊 イギリス巡洋艦史」(海人社)
- 「小松香織著 オスマン帝国の海運と海軍」(山川出版社)