エクリプス (競走馬)
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![]() エクリプスの肖像、by George Stubbs |
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性別 | 牡 |
---|---|
毛色 | 栃栗毛 |
品種 | サラブレッド[1] |
生誕 | 1764年4月1日 |
死没 | 1789年2月26日 |
父 | マースク |
母 | スピレッタ |
生産 | カンバーランド公爵 |
生国 | イギリス |
馬主 | ウィリアム・ワイルドマン →デニス・オケリー |
調教師 | ジョン・オークリー[2] |
競走成績 | 18戦18勝(諸説あり) |
獲得賞金 | 2128ポンド10シリング |
エクリプス(Eclipse、1764年 - 1789年)は、18世紀後半に活躍したイギリスの競走馬・種牡馬。18戦18勝の戦績に加え、サラブレッドの基礎を作った。ことわざ「Eclipse first, the rest nowhere.」(意味 : 「唯一抜きん出て並ぶ者なし」(『新英和大辞典』研究社より引用))で知られる。
目次 |
[編集] 概要
エクリプスは18世紀の最強馬にして、サラブレッド種の成立にも関わった競走馬である。サラブレッド種が成立する直前[4]の1764年に生まれ、競走馬として全戦圧勝・無敗の成績を残した。その強さは尋常ではなく、多くの馬主が対戦を恐れて回避する程であった。他にも数多くの逸話が残されている。気性は極めて激しかった。
種牡馬としては、同時代のヘロド、ハイフライヤー親子にこそ後れをとるものの成功し、344頭の産駒が競馬で勝利した。後にその父系はヘロドの子孫を凌駕するまでに拡大し、現在その父系子孫は全サラブレッドの90%~95%までになっている。
[編集] 競走成績
[編集] 5歳時
出走日 | 競馬場 | 競走名 | 着順 | 騎手 | 距離 | (対戦相手) |
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1769年5月3日 | エプソム | ノーブルメン&ジェントルメンズ・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | (ガウアー、ケード、トライアル、プルーム) |
5月29日 | アスコット | ノーブルメン&ジェントルメンズ・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝2マイル | (不明) |
6月13日 | ウインチェスター | キングズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | (スラウチ、チガー、ジューバ、カリバン、クランヴィル) |
6月15日 | ウインチェスター | シティ50ギニーズ・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | 単走 |
6月28日 | ソールズベリー | キングズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | 単走 |
6月29日 | ソールズベリー | シティフリー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | (不明) |
7月25日 | カンタベリー | キングズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | 単走 |
7月27日 | ルイス | キングズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | (不明) |
9月19日 | リッチフィールド | キングズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝3マイル | (不明) |
エクリプスは1769年5月3日にエプソムで行われたノーブルメン&ジャントルメンズプレート(貴族と紳士のプレート、4マイルヒート)でデビューした。既に他馬を凌駕する力を持っており、この競走で「Eclipse first, the rest nowhere.」という言葉が生まれた。
2走目はアスコットでのノーブルメン&ジャントルメンズプレートで、ここも圧勝。さらに次走、6月13日にウインチェスターで行われたキングズ100ギニー・プレートは、7歳馬を相手に大差で圧勝した。2日後のレースはエクリプスのあまりの強さを目の当たりにした馬主が皆回避したために単走になった。このシーズンは他に、ノーブルメン&ジャントルメンズプレート、シティプレート、シティフリープレート、キングズ100ギニー・プレート等記録に残っているレースだけで9戦を消化し全て圧勝で終えた。
エクリプスの強さが明らかになるにつれ賭けレースを挑もうという人は少なくなり、馬主が貴族でもジョッキークラブに所属しているわけでもないエクリプスにとって出走する競走がないという問題が出てきた。この後も出走可能な貴族と紳士のプレートのような競走に出走し続けるが、登録する端から皆が回避してしまうために、生涯で少なくとも8度の単走を記録した。
[編集] 6歳時
出走日 | 競馬場 | 競走名 | 着順 | 騎手 | 距離 | (対戦相手) |
---|---|---|---|---|---|---|
1770年4月17日 | ニューマーケット | マッチレース | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | (ブケファロス) |
4月19日 | ニューマーケット | キングズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | (不明) |
6月5日 | ギルドフォード | ヒズマジェスティーズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | 単走 |
7月3日 | ノッティンガム | ヒズマジェスティーズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | 単走 |
8月20日 | ヨーク | ヒズマジェスティーズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | 単走 |
8月23日 | ギルドフォード | グレートサブスクリプション・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | (トルトワーズ、ベラリオ) |
9月3日 | リンカーン | ヒズマジェスティーズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | 単走 |
10月3日 | ニューマーケット | 150ギニーズ・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | (コルシカン) |
10月4日 | ニューマーケット | キングズ100ギニー・プレート | 1着 | J.オークリー | 芝4マイル | 単走 |
前述の通り、エクリプスにマッチレースを挑もうという馬はほとんどいなかったが、1770年の初め1つのマッチレースが組まれた。相手は当時北部を中心になかなかの実績を上げていたブケファロスという馬で、馬主ペレグリン・ウエントワースは6対4という強気な掛け率で挑んできていた。このマッチレースでもエクリプスは楽勝した。ウエントワースは愛馬が惨敗したことにショックを受け半年間自宅に引きこもってしまったという。
4月の終わりにはオケリーが1100ギニーでエクリプスの権利を全て買い取った。その後ヒズマジェスティーズ100ギニー、キングス100ギニー等に勝った。10月にはこの時代を代表するもう一頭の強豪、ゴールドファインダー(13戦不敗)とのマッチレースが行われる予定であったが、ゴールドファインダーが故障、そのまま引退したため実現せず、最後は挑んでくる者もいなくなったためこのシーズンを最後に引退することとなった。生涯成績は18戦とも20戦とも26戦とも言われているが全勝だったことは確かである(ここではイギリスの公式の競馬成績書に基づいて18戦とした)。
[編集] 種牡馬成績
引退後はクレイヒルの牧場で種牡馬として供用された。種付料は初年度が50ギニー、それ以降は20から30ギニーの間で推移した。種牡馬成績はエプソムダービー馬3頭やポテイトーズ等344頭の勝馬を輩出し現役時代に勝るとも劣らない活躍をしたが、結果的に一度も種牡馬チャンピオンになることはなかった。これはヘロド(Herod、種牡馬チャンピオン8回、勝ち馬497頭)とその息子ハイフライヤー(Highflyre、種牡馬チャンピオン13回、勝ち馬469頭)と種牡馬としての活躍時期が競合していたためである。そのため、1778年から1788年の間歴代最多となる11年連続種牡馬ランキング2位という記録を作っている。しかし母の父としては、ヘロド=ハイフライヤー系の父との間に多くの名馬が出た。アーチデューク(Archduke)、ジョンブル(John Bull)といった英ダービー馬もいる。
- 勝利産駒 344頭(文献により325~400の幅あり)
- 総獲得賞金 158,047ポンド
なお、エクリプス(とハイフライヤー)は産駒があまりに活躍するためにレースでは特別な負担を課せられることもあった。例えば第1回ジュライステークスの施行条件にはエクリプスとハイフライヤー産駒は負担重量を余計に3ポンド背負わなければならないといった無茶な条件が含まれていた。
[編集] 主な産駒
- ポテイトーズ (Potoooooooo、1773年) 46戦30勝。 ネアルコ、ハイペリオン系等現在の父系の大半の祖先
- キングファーガス (King Fergus、1775年) 1797年英リーディングサイアー。セントサイモン系の祖先
- ヤングエクリプス (Young Eclipse、1778年) 英ダービー
- サルトラム (Saltram、1780年) 英ダービー
- サージェント (Serjeant、1781年) 英ダービー
- アネット (Annette、1784年) 英オークス
[編集] 後世への影響
後世への影響は非常に強い。サラブレッドの血統を父の父の父…という風に父方に辿ると殆どがエクリプスに辿り着くと言われており、その勢力は実に95%に達するとまで言われる。また、母系を合わせてのサラブレッドへの血統的影響はヘロド程ではないが非常に強く、血量にして優に10%を超えている。
しかし、父系に関して言えば最初からこれほどまでの勢力を持っていたわけではない。当初はヘロド=ハイフライヤー系の方が優勢で、実際に1780年から1839年までの60年間の首位種牡馬回数は、エクリプス系12回に対し、ヘロド系が43回とヘロド系の方が多かった(マッチェム系は5回)。オケリーは詩人を使ってハイフライヤーの馬主であるタタソールに向かって「ハイフライヤーの産駒でヘロドの血の優秀性を証明して見せよ」と、どちらの血が優れるか投げかけてはいるものの、 三大始祖[5]いずれの父系が優れるかの議論もヘロド系の方が優勢で、エクリプスはハイフライヤーに牝馬を提供するだけという極端な考えを持っていた馬主もいたようである。
だが、ヘロド系が優勢だったのは1830年頃までで、19世紀中盤以降ハイフライヤー系が衰退・滅亡するヘロド系に対し、ストックウェル、ニューミンスター、セントサイモン等大種牡馬を連発したエクリプス系が勢力を伸ばした。これ以後現在に至るまでエクリプス系優位が続いている。現在エクリプス系は主にポテイトーズとキングファーガスの2頭にさかのぼることができる(子孫についての詳細はエクリプス系を参照のこと)。
[編集] 生涯
[編集] 誕生
エクリプスは1764年4月1日の日食(金環食)[6]の日に生まれた。馬名はこの日食に由来し、ジェネラルスタッドブック第1巻には「全てのレースを侵蝕(Eclipse)したからエクリプスと呼ばれたのではなく、日食の日に生まれたため日食を意味するEclipseと名付けられた」と注釈がある。生産者はヘロドも生産したイギリスの軍人カンバーランドでありる。
一方この時代、まだ血統書や成績書などは整備されていなかったため[7]、分かっていないことも多い。生誕地はウィンザー御狩場牧場というのが有力ではあるが、他にもドーキングのミクルハムにある古木の側なども有名で、バークシャーダウンズ、アイル・オブ・ドッグズという説もある。
[編集] デビューまで
1歳になった1765年、カンバーランド公が死亡したためエクリプスを含め彼の持ち馬は全てセリに出された。羊の売買商ウィリアム・ワイルドマンは、人からエクリプスの話を聞きぜひ手に入れたいと思っていたが、彼が到着したとき既にエクリプスは70ギニーで落札されてしまっていた。ワイルドマンは諦めずにセリが公示時刻よりも早く始まっていたことに抗議し、再度行われたセリにて75ギニーにせり上げエクリプスを手に入れる事に成功した。
ワイルドマンはこうしてエクリプスを手に入れたものの、非常に気性が荒く、事あるごとに暴れるエクリプスを持て余していた。一時は去勢することも考えたが、知り合いのデニス・オケリーの勧めもあり結局辛抱強く致訓を行った。名立ての荒馬乗りジョン・オークリーに乗り回される内に競馬に使えそうな見込みが立ち1769年にデビューした。当時はヒート競走(同じ馬が2回勝つまでレースを繰り返す競走)が主流だったこともあり5歳6歳になってからのデビューが普通で、エクリプスもこの時5歳になったばかりだった。
エクリプスをデビューさせるにあたりエプソムで試走させてみると、エクリプスは予想外の力を見せた。真偽のほどは定かではないが次のような話が伝わっており、キノコ狩りにやってきてたまたまこの試走を目撃した近所の老婆が「あれが本当の競馬であったかどうかよくわからないが、右後脚一白の栗毛馬がもの凄い形相をして疾走し、たちまち相手馬との差をどんどん広げていくのを見たのはたしかです。あの馬に追いつくには地の果てまで走り続けても……」(参考文献2,3より引用)と答えたという。デビュー戦の掛け率はこの試走により一挙に1対4にまで跳ね上がった。
[編集] 競走馬時代
- #競走成績参照
現役時代に馬主が変わっている。オケリーはワイルドマンの友人で、初戦でもうけた金を元にして3戦目にエクリプスの権利の半分を650ギニーで買い取り、さらに1770年の4月の終わりに1100ギニーで残りの権利もすべて買い取った。
なお、走行フォームは頭を地面すれすれに下げて走る独特なものだったと伝えられている。
[編集] 引退後
- #種牡馬成績参照
長年オケリーのもとで供用され、オケリーはエクリプスを利用して馬産家として成功した。なお、最初はクレイヒルで供用されていたが、24歳の時に2頭立ての幌付き馬車でカノンズに移された。これ以前に競走馬が車で移動した例は無く、馬運車に初めて乗った馬ではないかとも言われている。
1789年2月27日夜7時、疝痛により死亡、25歳であった。カノンズで行われた葬儀には多くの人が集まり弔いのためにビールと菓子が供された。
[編集] 死亡後
死亡の際ロンドンの獣医大学教授ヴィアル・ド・サン・ベルが検死を行っている。体高は16.2ハンド(約164.6 cm)と推定され、この時代の馬としては非常に大きな馬体を持ち、骨格は当時の他の馬とは異なる特徴がいくつも見出された。心臓は14ポンド(約6.35 kg)もあった。なお、右写真の骨格は現在ニューマーケットの競馬博物館に展示されているものだが、この他に「これはエクリプスの骨格である」と主張する物が4体もあり、蹄も本物の1つで金の台座にあしらわれた物がジョッキークラブに所有されているが、他に本物と称するものが少なくとも5個ある。検死の後に、皮は財布の皮にされ、たてがみと尾の毛は鞭にされた。
骨格や血統の研究は現在も続いており、2005年にはエクリプスのDNAが調査される予定であるとBBCやサラブレッドタイムズによって報道された。BBC(外部リンク、英語)。記事には、イギリスの王立獣医科大学とケンブリッジ大学の科学者が歯等に残されたDNAを調査すると記載された[8]。また、2006年には骨格と運動モデルが分析され、現在の馬とほぼ同じ特徴を持っていたと結論付けられた。この他の特徴も現在のサラブレッドにかなり似ている。エクリプスが現在のサラブレッドの似ているわけではなく、現在のサラブレッドがエクリプスに似ているのだと主張される事もある。
[編集] その他
1886年にはイギリスサンダウン競馬場でエクリプスを記念するエクリプスステークスが創設された。この競走は当時英国内で最高額の賞金を持ち、現在もG1に指定されている。さらにアメリカ競馬の年間表彰制度エクリプス賞もこの馬を記念したもので、各部門の最優秀者及び最優秀馬の所有者にはエクリプスの像が送られる。ニューマーケット競馬場にも銅像がある。
[編集] Eclipse first, the rest nowhere.
エクリプスを紹介する際に使われる有名な語句。デビュー戦でエクリプスが第1ヒートを圧勝した後に、オケリーが第2ヒートの全馬の着順を賭けてもいいと宣言した際に発言した。意味はエクリプス1着、他はどこにもいない(「Eclipse first, the rest nowhere.」)。つまりレースで他の馬の入着が認められないほどの大差をつけると宣言したことになる。結果、エクリプスが圧勝し、残りの馬は大差が付いたために失格、オケリーの予想が的中した。この言葉はのちに有名になり「圧倒する」という意の慣用句として主にイギリスで使用された(Eclipse単体を動詞で使うと「相手を凌駕する」の意になる)。英和辞典にも「唯一抜きん出て並ぶ者なし」の訳で掲載されたことがある(『新英和大辞典』研究社より引用)。
[編集] 馬主のデニス・オケリーについて
エクリプス3人目の馬主であるデニス・オケリー(Dennis O'Kelly、1720,28年? - 1787年)は、18世紀後半にイギリスで名をはせたギャンブラー。もとはアイルランドの貧しい農家の生まれで、ロンドンに出て怪しげな商売をしていたという。一時はその饒舌と端麗な容姿が受けて社交界の寵児となっていた時期もあったが、ビリヤードなどのギャンブルで金を使い果たし破産、流刑になる。
しかし運のいいことに流刑予定地アメリカで独立前の混乱が起こり、囚人船が出発できずロンドンに逆戻り、さらに1760年10月にジョージ2世死去に伴う特赦で釈放された。その後は成功者の道を歩み、囚人船の中で知り合ったシャーロット・ヘイズと組んで行ったギャンブルがことごとく成功し、ついには金の力で大佐の地位まで手に入れる。後に馬産家としても成功した怪しげな人物。
彼がエクリプスから得た金は25000ポンドを超えたという。ダービーもヤングエクリプスで勝った。ただ死ぬまでジョッキークラブの会員には成れなかった。
[編集] 血統背景
エクリプスの両親はマースクとスピレッタ。どちらもカンバーランドの持ち馬であった。マースクは、現役時代に6戦3勝の成績を残した。種牡馬としての評価はあまり高くなかったが、エクリプスの活躍で評価が高まった。母スピレッタは1戦して着外だった。その2番目の産駒がエクリプスである。兄弟は全部で5頭、内2歳年下の全妹プロサーパインは娘にルナを出し、ルナはファミリーナンバー12-g号族の祖となった。12-g号族の日本での代表格はハイセイコー、タニノムーティエ・タニノチカラ兄弟等がいる。
なお、父はマースクではなくシェイクスピアだという説もある。タタソールの記録帳には、オケリーの厩務員の証言として、1763年のスピレッタにはマースクに交配される前にシェクスピアとも交配されたという記述がある。エクリプスの特徴もシェイクスピアに似ているという。しかしこれはあくまで仮説であり、公式にはエクリプスの父はマースクである。もっとも、シェイクスピアの父親はホブゴブリンであり、その父の父はマースクと同じくダーレイアラビアンに遡るため仮にこちらが本当だとしても父系自体に大きな変更はない。
[編集] 血統表
血統表及びその見方については競走馬の血統#血統表を参照
エクリプスの血統 (エクリプス系/Snake Mare3×4=18.75% Snake4×4・5=15.62%) | |||
父
Marske 1750 黒鹿毛 (or Shakespeare 1745) |
Squirt 1732 栗毛 |
Bartlet's Childers | Darley Arabian |
Berry Leedes | |||
Snake Mare | Snake | ||
Grey Wilkes | |||
Blacklegs Mare | Blacklegs | Hutton's Bay Turk | |
Coneyskins Mare | |||
Bay Bolton Mare | Bay Bolton | ||
Fox Cub Mare | |||
母
Spilletta 1749 鹿毛 |
Regulus 1739 鹿毛 |
Goldolphin Arabian | 不明 |
不明 | |||
Grey Robinson | Bald Galloway | ||
Snake Mare | |||
Mother Western 1731 |
Easby Snake | Snake | |
Akaster Turk Mare | |||
Old Montagu Mare | Old Montagu | ||
Hautboy Mare F-No.12 |
[編集] 脚注
- ^ 当時はイングランドのランニングホース等と呼ばれていた
- ^ 当時は騎手と調教師、厩務員の区別は明瞭ではなく、騎手ジョン・オークリー、馬主ウィリアム・ワイルドマンらが調教を付けていた
- ^ 当時のイギリスでは5月1日に一律年をとる
- ^ サラブレッドという呼び名が定着したのは19世紀に入ってから
- ^ 三大始祖が成立したのはエクリプスやハイフライヤーの産駒が走っていた時代であり、1785年にダービーを制したエイムウェル(オルコックアラビアン系)にしても母の父にヘロドを持っていた
- ^ 皆既日食、あるいは日食などそもそも無かったとも流布されているが、実際は金環食
- ^ ジェネラルスタッドブック(血統書)創刊が1791年、レーシングカレンダー(成績書)が1773年
- ^ 同チームはさらにセントサイモンやハーミット、ゴドルフィンアラビアンのDNAについても調査を検討していると報道された
[編集] 参考文献
- 山野浩一『伝説の名馬 I』中央競馬ピーアール・センター、1993年 ISBN 4924426377
- 原田俊治『新・世界の名馬』サラブレッド血統センター、1993年 ISBN 4879000329
- Eclipse(Thoroughbred Heritage)、1997-2006年
- 原田俊治『馬の文化叢書10 「競馬 - 揺籃期のイギリス競馬」』財団法人馬事文化財団、1995年(以下2文献の部分訳)
- Theodore Andrea Cook『A History of the English Turf』vol.1 - vol.3 div.2 (Virtue And Co)1901-04(千葉隆章訳)
- Charles Mathew Prior『The History og the Racing Calender and Stud-Book』(The Sporting Life)1926(三宅隆人訳)
- 日本中央競馬会編『サラブレッド世界百名馬』中央競馬ピーアール・センター、1978年
- 石川ワタル『世界名馬ファイル』光栄、1997年 ISBN 487719293X
- Charles Vial de Sainbel『An Essay on the Proportions of Eclipse.』 London: Martin and Bain、1795年
カテゴリ: サラブレッド | イギリス生産の競走馬 | イギリス調教の競走馬 | 1764年生 | 1789年没