エフード・オルメルト
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イスラエル12代首相
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任期: | 2006年 – |
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出生日: | 1945年9月30日 |
生地: | パレスチナ |
政党: | カディマ |
エフード・オルメルト(ヘブライ語: אהוד אולמרט, ラテン文字転写: Ehud Olmert, 1945年9月30日 - )はイスラエルの政治家。イスラエルの首相および新党カディマの党首を務めている。
[編集] 略歴
- 1945年9月30日、イギリスの委任統治下にあるパレスチナに生まれる
- ヘブライ大学で心理学、哲学、法学を勉強した後、法曹界へ入る
- 1973年、イスラエル議会(クネセト)総選挙にリクードから立候補し28歳で当選、その後7期にわたってクネセトで活動
- 1988年 - 1990年、無任所大臣(国務大臣);マイノリティーの問題を扱う(在任期間:2年)
- 1990年 - 1992年、厚生大臣(在任期間:2年)
- 1993年 - 2003年、エルサレム市長(2期在任)
オルメルトはシャロン同様、リクード内で強硬派に属していた。
エルサレム市長の職にあった1997年には東エルサレムのハル・ホマ地区に大規模な入植地建設を、当時首相だったベンヤミン・ネタニヤフと共に推し進めている。そのオルメルトを豹変させたのが、パレスチナに融和的な夫人の影響だったと言われる。
また、オルメルトはリクード内の強硬派を代表するネタニヤフとはかねてよりソリが悪く、若くして共に将来を嘱望されていたことからお互いをライバル視しており、犬猿の中として知られる。
- 2004年2月、シャロンが、これまでの強硬姿勢を一変させガザからの全面的な軍の撤退・全入植地の撤去一方的婚約解消計画をぶち上げるが、このシナリオを書きシャロンに進言したのが、オルメルトと官房長官のドブ・ヴァイスグラスである。
リクード内では撤退への風当たりが強く、倒閣運動にまで発展するが、オルメルトは反対派を一人一人切り崩して行き2004年10月には辛くも国会を通過させるにいたる。
- 2005年8月、ガザからの撤退に抗議し財務大臣を辞任したネタニヤフの後任に任命される
- 2006年1月、アリエル・シャロン首相が脳卒中で倒れた後に、首相代理および新党カディマの党首代行を務める。
- 2006年5月4日、総選挙の結果を受け首相に就任。
- 2006年7月、ヒズボラによるイスラエル兵拉致を受けレバノンへの侵攻を決意、レバノン侵攻が始まる。同じ頃、小泉純一郎首相(当時)がイスラエルを訪問し首脳会談を行っていた。
- 2006年9月4日、国会の外交・防衛委員会でヨルダン川西岸からの追加撤退を無期限凍結。
- 2006年12月、ヨルダン渓谷に新規・入植地建設を表明。
- 2007年1月、財務相の地位にあった2005年に、国営銀行の民営化の際、職務を利用し知人に便宜を図った疑惑に検察が捜査に着手。追い打ちをかけるように、レバノン侵攻の不手際を批判されていたダン・ハルーツ参謀総長がその直後に事実上の引責辞任を表明。世論調査でも、支持率が14%にまで落ち込んでおり、建国後最短命内閣となる可能性が高まっている。
[編集] 関連項目
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