グラハム・ヒル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | ![]() ![]() |
活動年数 | 1958 - 1975 |
所属チーム | ロータス, BRM, ブラバム, シャドウ, ローラ, ヒル |
出走回数 | 175 |
タイトル | 2 (1962, 1968) |
優勝回数 | 14 |
通算獲得ポイント | 293 |
表彰台(3位以内)回数 | 36 |
ポールポジション | 13 |
ファステストラップ | 10 |
F1デビュー戦 | 1958年モナコGP |
初勝利 | 1962年オランダGP |
最終勝利 | 1969年モナコGP |
最終戦 | 1975年ブラジルGP |
グラハム・ヒル(Norman Graham Hill, 1929年2月17日 - 1975年11月29日) はイギリスのレーサーで、F1チャンピオンを獲得したドライバー。またF1モナコGP、インディ500、ル・マン24時間レースの「世界3大レース」を制した唯一のドライバー。特にモナコGPには滅法強く、2005年現在で史上2位タイの5勝をあげ、「モナコ・マイスター」と呼ばれていた。
デイモン・ヒルの父親である。
Grahamの発音はカタカナ表記にすればグレアムに近いが、日本では現役活躍時からほぼグラハムと表記されており、本稿でもそれに従う。
[編集] プロフィール
ロンドンのハムステッドで生まれる。一時期はボート競技の選手で、後にヘルメットに「オール」のマークをデザインするようになる。下積みのメカニック時代を経て、1958年にロータスからF1デビューを果たし2年間在籍するが、この際には芳しい成績を残すことは出来ず、1960年にはBRMに移籍。ここでも当初は目立った成績を残していなかったが、1962年には開幕戦オランダGPでの初優勝を含む計4勝を挙げ、一気にドライバーズチャンピオンへと昇りつめた。
その後もリッチー・ギンザーとの名コンビで活躍し、ロータスのジム・クラークと並び、当時のF1界の2大スタードライバーと呼ばれた。1964年は最終戦までチャンピオン争いがもつれたが、ポイントリーダーのヒルはフェラーリのロレンツォ・バンディーニに追突され、チャンピオンをフェラーリのジョン・サーティースに奪われた。フェラーリが故意にぶつけたのではという報道に対し、ヒルは皮肉混じりに「わざとではない、ただ恐ろしく運転が下手だっただけだ」とコメントした。
1962年以降は1965年まで、毎シーズン2勝以上を挙げる活躍を見せていた。しかし、新加入のジャッキー・スチュワートに迫られる場面が増え、1966年はレギュレーションの変更に因む混乱により苦戦を強いられ、6シーズンぶりの未勝利に終わってしまう。ヒルは成功を共にしたBRMを離れ、ライバルチーム、ロータスへの移籍を決意する。
1967年のロータスは、クラークとヒルの豪華なジョイント・ナンバー・ワン体制となったが、当時のロータスは完全にクラークを中心としたチーム作りを行っていた。このこともありヒルは完全にクラークの陰に隠れてしまった。しかし1968年にクラークがF2参戦中に事故死したのを受け、ヒルは自らの活躍で沈むチームスタッフを奮い立たせた。この年3勝を挙げ、6年ぶりに自身2度目のチャンピオンを獲得した。

しかし、1969年は新加入のヨッヘン・リントに速さで劣り、リントが初優勝したアメリカGPで自らは脚を骨折する重傷を負ってしまう。これがキャリアの転機となり、ブラバムへ移籍した翌1970年以降、かつての速さをとり戻すことはなかった。やがて、その熱意は自らのチームを立ち上げ、自ら運転する「オーナー・ドライバー」の夢へと向かうことになる。
1973年にヒル(Embassy Racing With Graham Hill)を結成。当初はシャドウやローラからシャシーを購入して参戦したが、1975年の第5戦のモナコGPから自社製シャシーGH1で参戦。しかしその戦闘力は余りに低く、自らの象徴ともいえたモナコGPで予選落ちを喫するというショッキングな結果を招いてしまう。ショックからかこれ以後は二度とマシンには乗らず、監督業に専念した。
そしてシーズン終了後の11月、翌シーズン用マシンGH2のテストを終えた帰路、自ら操縦していた軽飛行機がゴルフ場に墜落。同乗していたチームのメンバーたちと共に帰らぬ人となった。何度かの大クラッシュを生き延び、18年間走り続けたドライバーの皮肉な最期だった。その際に保険に加入していなかった事が、グラハムの遺族に莫大な補償金を背負わせる結果を招き、その後ヒル家は一転して窮乏生活を強いられる事になってしまった。この時、長男のデイモン・ヒルは15歳で後にデイモンも父と同様、レーサーを志すようになり1992年にはF1デビューを果した。1996年にF1チャンピオンに輝き、親子二代でF1チャンピオンになったのはグラハム、デイモンのヒル親子だけである。彼もまた父親から引き継ぎ、オールのデザインのヘルメットを着用した。
裕福な階級出身ではなく、F1デビューも29歳と遅い苦労人だったが、口ひげを蓄えた優雅な風貌や紳士的な物腰は、かつてモータースポーツが貴族の趣味であった時代の「ジェントルマン・ドライバー」を思わせた。息子デイモンも幼い頃、その姿に憧れたと語っている。一方で、ひょうきんな素顔を持つ人だったという。
[編集] 関連項目
カテゴリ: イングランドのF1ドライバー | 1929年生 | 1975年没