コント55号の世界は笑う
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コント55号の世界は笑うは、1968年7月13日~1970年3月28日まで、フジテレビ系にて放送された、コント55号(萩本欽一・坂上二郎)司会の公開方式のバラエティー番組。放送時間は毎週土曜20時~21時。
[編集] 概要
1968年4月よりフジテレビでスタートした平日昼のベルト番組「お昼のゴールデンショー」のレギュラーとして、一躍注目を浴びる存在となったコント55号をメインに据えてスタート。主にコントを中心に、ゲスト歌手による歌などを織り交ぜる構成、会場も「お昼の~」と同じく東京有楽町のビデオホールから、と「お昼の~」との関連性を強く残す形での始動であった。
同番組プロデューサーは「お昼のゴールデンショー」スタート時に同番組への55号起用を決定した人物である常田久仁子であった。土曜20時という時間帯は、若年層から年配層まで幅広い年代の視聴者から最も注目を集まる時間帯であったが、この時間帯にまだ売り出し中の段階にあった55号を起用することについて、当時は局内外から番組の将来を危惧する声が高かった。しかし、常田は55号の持つ笑いのセンスを高く評価しており、局内外の批判に全く耳を貸さず、半ば強行的にこの番組をスタートさせた。
当初は外部作家の脚本によるコントが主流であったが、途中から、常田を介して萩本の手に放送前に原案が渡り、それを萩本が修正するという作業を行うようになり、次第に外部作家の脚本よりも萩本自身の脚本によるコントが行われる度合いが多くなった。55号、そして製作者・作家陣との切磋琢磨の中で、「立会演説会」(別名・「机」。「忘れもしない13年前!」というフレーズで有名なコント。後年、明石家さんまらによって幾度ものリスペクトがなされている名作である)や「当たり屋」などといった、後世に語り継がれるコントが次々と誕生。そして番組も平均視聴率30%を悠に越えるという同局のドル箱番組へと成長を遂げた。
しかし、1969年10月、「打倒55号」の意識からTBSはザ・ドリフターズをメインに起用して、同じく公開バラエティーの体裁を取った「8時だョ!全員集合」を同番組にぶつけてきた。多様なゲストを起用してのコントあり、歌ありという豪華さが受け、「全員集合」の人気は放送開始から程なくして急上昇。この頃日本テレビで放送されていた「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」が低俗番組として槍玉に挙げられ、これまで順風満帆なステータスを歩んでいた55号に対する世間の風向きが少なからず批判的なものへと変わって来たことも影響して、同番組の人気は下降線を辿りはじめ、1970年春、最終的には1年9ヶ月という短命で番組は打ち切られることになってしまった。
時間は流れ、1975年秋、萩本欽一や常田ら主要な萩本のブレーンたちは、既に「怪物番組」として一人勝ちの状態となっていた「全員集合」に再び対抗すべく、この土曜20時の時間帯に5年半ぶりに戻ってきた。それが萩本単独での代表作となる「欽ちゃんのドンとやってみよう!」であり、今度は「萩本一人VSドリフターズ」という図式で再び「土曜8時戦争」が激しく繰り広げられることとなる。
わずか約2年という短命番組ではあったが、「オレたちひょうきん族」など、各年代を代表するテレビバラエティーを築く時間帯として定着させ、また「欽ちゃんVSドリフ」という後世に語り継がれるライバル図式を生み出した、同番組のテレビ史・お笑い史に残した影響は相当に大きい。
[編集] 番組の内容
コント55号の二人がメインのコントを演じるが、コントの途中の爆発音で二人が突然世界の別空間に移動し、そこでまた別のコントを繰り広げるといった設定。なお、世界各地の背景は一枚の写真を一枚の大型パネルで表現した。
当初からカラー放送で、公開録画。このため、昭和60年代から平成初期にかけてはフジテレビの「テレビ30年」特番をはじめ、TBSテレビの「テレビ探偵団」やNHKテレビの特集でも当時のVTRが放送されている。
コント55号の他に、南州太郎、ラッキー・セブン、鳳啓助・京唄子らがゲスト出演して脇を固めていた。