サッカーチェコスロバキア代表
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サッカーチェコスロバキア代表(チェコ語Československá fotbalová reprezentace、スロバキア語Česko-slovenská fotbalová reprezentace)は、チェコスロバキアサッカー協会によって編成されたサッカーのナショナルチームである。
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[編集] 概要
[編集] 基本的なデータ
最大得点差での勝利は、1968年10月18日にメキシコのメキシコシティーで行われたメキシコシティーオリンピックにおけるサッカー競技でのタイ代表とのゲームで8-0で勝利している。
最大得点差での敗北は、1937年9月19日にハンガリーのブダペストで行われたハンガリーとの試合に3-8で、同年12月8日にスコットランドのグラスゴーで行われたゲームに0-5で敗北。1950年4月30日、1952年10月19日にはハンガリーのブタベストでハンガリー代表と試合を行い0-5で敗北している。1954年6月18日にはこの年開催されたワールドカップグループリーグでの試合であった。スイスのチューリッヒで行われたこのゲームでオーストリアと対戦し0-5で敗北した。
チェコスロバキアの最初の国際試合は、1920年8月28日にベルギーのアントワープで行われたアントワープオリンピックにおけるサッカー競技で、ユーゴスラビアに対して7-0で勝利した。このゲームはユーゴスラビア代表にとっても国際デビュー戦であった。
チェコスロバキアの最後の国際試合は、1993年11月17日にベルギーのブリュッセルで行われたベルギーとのゲームであった。このゲームは0-0のドローであった。
[編集] チェコスロバキアを継承するチーム
チェコスロバキア代表は以下の2つのチームに対等に分割された。
両チームは揃って1996年の欧州選手権予選にエントリした。
[編集] 歴史
[編集] 第二世界大戦前
チェコではチェコスロバキア成立以前にオーストリア・ハンガリー帝国内のボヘミア代表として代表チームを編成していた。1903年に始めての国際試合をオーストリア代表と行って以来、1908年までに7試合の国際試合を行っている。
第一次世界大戦が終わると1920年に、オーストリアのボヘミア、モラヴィア、シレジア(チェコ)とハンガリー王国の北部ハンガリー(スロバキア)が合邦してチェコスロバキアが誕生した。サッカーのナショナルチームは早くもこの年に結成され、アントワープオリンピックに出場している。この大会でチェコスロバキアは決勝戦まで進出したが、決勝で審判に抗議して試合をボイコットしたためにリザルトから除外された。オリンピックには1924年のパリ大会にもエントリしたが2回戦で敗退した。
1920年代は、チェコスロバキアでサッカー選手のプロ化が進んだ時代であり、1920年代中ごろにはプロ化が認められた。このためアマチュア大会のオリンピックではなく、プロが出場できる大会へと軸足が移った。
南米ウルグアイで開催された1930年大会は見送ったものの、ヨーロッパで開催された1934年大会からワールドカップに出場した。この大会ではチェコスロバキアはFWオルドリッヒ・ネイエドリーを擁し準優勝に輝いた。但しこの大会、決勝でチェコスロバキアと対戦しジュール・リメ杯を手にしたのはベニート・ムッソリーニの指揮の下、かなり際どい方法で勝ち上がったイタリア代表である事には注意するべきである。
ネイエドリーは準決勝のドイツ戦でハットトリックを決めるなどして活躍。大会得点王になっている。(2006年に認定)
1930年代、最強を謳われた、ヴンダーチームことサッカーオーストリア代表も、準決勝でイタリアの前に敗退している。結局この大会でチェコスロバキアとオーストリアの対戦は無かった。但し30年代を通して、チェコスロバキアとオーストリアは親善試合として何度か対戦している。オーストリアは1931年4月から1934年6月までに21勝6分3敗と言う記録を残しているが、1993年4月9日にウィーンで行われたアウェーゲームでオーストリアに2-1で勝利している。この時代、チェコスロバキアはオーストリアと伍して戦える数少ないチームであった。
[編集] 戦中
その後、ヨーロッパに戦雲が立ち込めるようになる。チェコスロバキアにはナチス・ドイツが介入、1939年にスロバキア側に傀儡政権であるスロバキア独立国を成立させる。サッカースロバキア独立国代表は、1939年から1944年までの間にヨーロッパの枢軸国を中心として16試合を行う。一方でチェコでもナチス・ドイツによってボヘミア・モラビア保護領に組み込まれ、ナショナルチームが結成された。ボヘミア・モラビア保護領代表も1939年にドイツと試合を行わされている。
[編集] 第二世界大戦後
第二次世界大戦が終了すると再びチェコスロバキアが復活した。サッカーナショナルチームも1954年のワールドカップ本大会に出場するなど国際舞台への復帰を果たした。1962年のワールドカップでは準優勝を果たすなど戦前の地位に迫りつつあった。
チェコスロバキア最大の栄光は1976年のサッカー欧州選手権での優勝であった。この大会では準決勝でオランダ代表を、決勝で西ドイツ代表を下してヨーロッパチャンピョンの地位にたどり着いた。準決勝と決勝でチェコスロバキアが破ったオランダと西ドイツは、ワールドカップ74年大会ファイナリストであった。即ちこの場合のオランダと言うのはヨハン・クライフがいたオランダであり、この場合の西ドイツと言うのは、フランツ・ベッケンバウアーやゲルト・ミュラーがいた西ドイツの事である。
[編集] チェコスロバキア代表の最後
76年の欧州選手権の後、チェコスロバキア代表は徐々に下降線をたどる事になった。モスクワオリンピックにおけるサッカー競技では金メダルを獲得したものの、この大会は西側諸国の多くがボイコットした大会で、キューバなどサッカー後進国などが混ざっていたトーナメントの結果獲得したメダルとあっては、その金色も色あせるような大会の内容であった。
1980年代に入ると、多くの東欧諸国がそうであったように、西欧諸国と肩をはって選手権を争うのは段々と難しくなっていった。そして19980年代末がやってきた。東欧革命によって東欧諸国は消滅し、その下締めであったソビエト連邦さえも消滅してしまった。チェコスロバキアも例外ではなく、1989年のビロード革命によって共産党政権が崩壊すると、共産主義体制化で抑圧されていたチェコとスロバキアの民族対立が表面化した。それでもなおチェコスロバキアは平和的に事態を解決する事を望み、1993年1月1日チェコとスロバキアが対等に独立するビロード離婚が成立した。こうして国家としてのチェコスロバキアは消滅した。しかしこの時尚、「サッカーチェコスロバキア代表」は生きていたのである。
ビロード離婚が成立した時点で既に、1994年のワールドカップ欧州予選が開始されており、1993年1月1日以降も「チェコスロバキア代表」は大会にエントリし続けていた。もちろん予選を突破すれば「チェコスロバキア代表」は本大会に出場する権利を有する事になっていた。こうして迎えた11月17日の対ベルギー戦は運命の一戦となった。このゲームでチェコスロバキアがベルギーに勝利すればグループリーグ2位に入り、ワールドカップに出場する事ができた。「チェコスロバキア代表」の冒険はまだまだ続く。一方で引き分け以下ではワールドカップへの道が絶たれるだけでなく、「チェコスロバキア代表」がそこで完全に終わる事を意味していた。このゲームは0-0のドローで終わり「チェコスロバキア代表」の最後のワールドカップ出場には至らなかった。
[編集] ワールドカップの成績
- 1930 - 不参加
- 1934 - 準優勝
- 1938 - ベスト8
- 1950 - 不参加
- 1954 - グループリーグ敗退
- 1958 - グループリーグ敗退
- 1962 - 準優勝
- 1966 - 予選敗退
- 1970 - グループリーグ敗退
- 1974 - 予選敗退
- 1978 - 予選敗退
- 1982 - グループリーグ敗退
- 1986 - 予選敗退
- 1990 - ベスト8
- 1994 - 予選敗退
[編集] 欧州選手権の成績
- 1960 - 3位
- 1964 - 予選敗退
- 1968 - 予選敗退
- 1972 - 予選敗退
- 1976 - 優勝
- 1980 - 3位
- 1984 - 予選敗退
- 1988 - 予選敗退
- 1992 - 予選敗退
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