サミュエル・エトオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
男子 サッカー | ||
金 | 2000 | サッカー |
サミュエル・エトオ・フィス(Samuel Eto'o Fils、1981年3月10日 - )はカメルーン出身のサッカー選手。身長180cm、体重75kg。別名黒い宝石。現状で世界最高のストライカーの1人。
日本においてはどちらかというとエトーと表記されることの方が多い。また日本人とのハーフや日系人と誤解されやすいが、それらではない。
目次 |
[編集] 経歴
母国カメルーンはドアラ市にあるカジ・スポーツアカデミーの一期生。1年半程度在籍した後、16歳でレアル・マドリードに引き抜かれるも、万年Bチームとレンタルの日々(当時はファビオ・カペッロ監督)。その後レガネス、後に6億6000万円でマジョルカに移籍した。マジョルカには2003-2004シーズンまで所属し、2002年にはコパ・デル・レイ優勝に導くなど活躍する。
フランスワールドカップでは17歳3ヶ月で出場、98年トヨタカップ、2000年アフリカ選手権、シドニー五輪を制した。
2004-2005シーズンにバルセロナに完全移籍すると、これまでのレンタル生活の鬱憤を晴らすような大活躍でリーガ優勝に大きく貢献。ピッチ外での話題も豊富で、スポーツカーで大事故を起こすも無傷で数日後の試合に普通に出場したり、カンプ・ノウでの優勝イベントではレアル・マドリードに対し「バルサにひざまずけ」とマイクで発言。これはレアルでの不遇の日々から出た発言だとしている。後日謝罪会見を行っている。
また、2006年ドイツワールドカップのアフリカ最終予選での対エジプト戦でカメルーンがPKを得たが、同国代表のピエール・ウォメがPKを外してしまいワールドカップ出場権を逃してしまった。その後のインタビューでエトオは「PKは自分が蹴ろうとしたが、ウォメが蹴らせてほしいと言ってきたので彼に譲った。」とコメント。しかし後にウォメのコメントによりエトオの発言が嘘だという事実が分かり、エトオへ批判が集中した。2006年のアフリカネイションズカップエジプト大会では準々決勝で2006年ドイツワールドカップ最終予選で最後まで出場を争ったコートジボワールとPK戦までもつれたが全員成功し2巡目の最初の番でエトオはバーを越えるミスキックをしてしまい、チームはベスト8で敗れた。
2006年9月のUEFAチャンピオンズリーグ1次リーグ、ブレーメン戦で右ひざ半月板を痛め、全治5ヶ月と診断された。「第二の故郷」と言うマジョルカ島で療養していたが、2007年2月に復帰し、ゴールも決めている。なお、復帰後の起用法を巡って出場を拒否するなど、トラブルメーカーぶりもまた、健在である。
[編集] 逸話
アフリカネイションズカップ中にもバルセロナの試合を気にし続けるなど、チームに対する深い愛情が感じられる。
またレンタルでマジョルカに在籍していたとはいえ、レアル・マドリードからバルセロナへという禁断の移籍(他にはルイス・エンリケなどがいる)だった為、移籍決着まではかなり難航した。
16歳で移籍する際、イングランドやイタリアからもアプローチがあったようだが、本人がスペインサッカーに最も惹かれていたこともありスペイン行きとなった。フランスのスタイルも気に入っているらしい。ちなみに初めて欧州へ移籍してきたとき間違えてスペインではなくフランスの空港に降りてしまった。
余談だが、レアル・マドリード時代トヨタカップ優勝を経験しているためカメルーンに凱旋した。そのときカルロス国王から賞賛されている。その写真はカジ・スポーツアカデミーの食堂に飾ってある模様。 また、カメルーン代表として2002年日韓ワールドカップで来日した際にサガン鳥栖と試合をして決勝点を奪っている。
スペインのクラブでキャリアを終えるとすればマジョルカで終えたいとインタビューで語っている。
マジョルカの下部組織に弟のダビド・エトオが所属している。
[編集] プレイスタイル
爆発的な瞬発力とスピードによる飛び出しに加えドリブルで切り込んでいく技術も非常に高い。ボディバランスを生かして相手DF数名を引きずりながらゴールを決めることもできる。戦術理解度も高く、仲間とのワンツーや、ラストパスをダイレクトで流し込む得点も多い。また、フリーの状態ならその脚力をいかして非常に高い打点のヘッドも打てる。シュート精度は低くはないが決定的な場面でミスをすることもよくある。
前線からプレッシャーを相手DFやGKにかけて、ボールを奪いそのままゴールを陥れる場面というのも非常に多い。これは豊富な運動量による前線からの献身的な守備の賜物であり、彼の守備は所属クラブであるバルセロナの戦術の要の1つでもある。
得点能力が高いプレイヤーにみられるエゴはあまりなく、得点の可能性が高いならば躊躇なく味方にパスを出す。そのためアシストも多い。
特に緊迫した試合においてのゴールが多く、均衡を破る先制弾や、追いつく同点弾、勝ち越し弾、といった得点が多い。逆に、チームが優勝を決めてしまい、あとは個人タイトルだけ、といったように、完全に得点王を意識しだすと空回りしてしまう点が見受けられる。
所属のバルセロナではロナウジーニョとのホットラインがバルセロナの攻撃の象徴とも言える。また、試合の流れの中でエトーが左サイドでロナウジーニョが中央でプレーすることもある。いろいろな理由があるが1つの例を挙げると相手の右サイドの攻撃が強いときにはエトーが左サイドに行き相手の攻撃を封じるという戦術がある。これは守備にも献身的に働くエトーならではなのかもしれないし、本来左サイドでプレーするロナウジーニョはあまり守備をしないからかもしれない。
[編集] 獲得したタイトル
UEFAチャンピオンズリーグ(2005-2006)優勝 (バルセロナ)
[編集] 代表戦歴
- 2000年 シドニーオリンピック 金メダル
- 2000年 アフリカネイションズカップ ナイジェリア・ガーナ大会優勝
- 2002年 アフリカネイションズカップ マリ大会優勝
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ フランス大会準優勝
[編集] 所属チーム
- 1996-1997 レアル・マドリードB
- 1997-1998 ログロニェス 28試合 3得点
- 1998-1999 レアル・マドリード 0試合 0得点 エスパニョール 0試合 0得点
- 1999-2000 レアル・マドリード 2試合 0得点 マジョルカ 13試合 6得点
- 2000-2001 マジョルカ 28試合 11得点
- 2001-2002 マジョルカ 30試合 6得点
- 2002-2003 マジョルカ 30試合 14得点
- 2003-2004 マジョルカ 32試合 17得点
- 2004-2005 バルセロナ 37試合 25得点
- 2005-2006 バルセロナ 34試合 26得点
FCバルセロナ - 2006-2007 |
---|
1 バルデス | 2 ベレッチ | 3 モッタ | 4 マルケス | 5 プジョル | 6 シャビ | 7 グジョンセン | 8 ジュリ | 9 エトオ | 10 ロナウジーニョ | 11 ザンブロッタ | 12 ファン・ブロンクホルスト | 15 エジミウソン | 16 シウビーニョ | 18 エスケーロ | 19 メッシ | 20 デコ | 21 テュラム | 22 サビオラ | 23 オレゲール | 24 イニエスタ | 25 ホルケラ | 28 ルーベン | 32 クロサス | 33 ジェフレン | 監督: ライカールト |
[編集] 外部リンク
カテゴリ: カメルーンのサッカー選手 | マジョルカの選手 | レアル・マドリードの選手 | FCバルセロナの選手 | 1981年生