サルマタイ
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サルマタイ (Sarmatae, Sarmatia) は紀元前4世紀~紀元後4世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧民族。サルマート人、サルマタエ人、サルマティア人ともいう。紀元前4世紀後半までドン川下流とアゾフ海の沿岸に居住していたサウロマティア人と区別する。
[編集] 概略
最初に(偽)スキュラクスとクニドスのエウドクソスというギリシアの歴史家が、紀元前338年頃にドン川沿岸におけるサルマタイSurmatai人の情報を得ている。
紀元前5世紀頃、ユーラシアのステップにおいて、西にスキタイ人、その東にサルマタイ人、その東方にサカ人が暮らしていた。サルマタイ人は、紀元前3世紀頃、西方の南ウクライナ(黒海北岸)に移動し、スキタイ人を壊滅した。スキタイ人を滅ぼすことができたのは、サルマタイ人が優れた騎馬戦闘術と重装武装の武具甲冑を持っていたためと言われている。紀元前2世紀には、サルマタイ人はヨーロッパに侵入し、そのまま残ったものはアラン人と呼ばれるようになった。その後はたびたび、ローマ帝国の北部辺境に侵入しアルメニア地方でローマに反抗したミトリダテス王軍の一翼を担ったこともあるという。62年にネロの将、シルバヌスが遠征しトラキア人とゲルマン人、サルマタイ人の軍隊に一撃を加え、ダニューブ川の彼方へ追い返した。1世紀から3世紀頃にはローマ帝国の軍事力で抑えられているとはいえ、絶えずドニエプル川とコーカサス山脈以北の脅威であり続け、ハドリアヌス帝の時代以降ローマの戦法に特殊な影響を与えてもいた。4世紀頃、フン族とともに西ヨーロッパになだれ込んでゴート族を脅かし、民族大移動を起こした。また7世紀には最後のサルマタイ文化が起こった。その後に滅んだが、10世紀にポーランド人が、サルマタイ文化を真似る程に影響を遺した。その後は、スラヴ人の南下と東方からの遊牧民の侵入により衰退し、散り散りとなった。現在、コーカサス山脈に住む少数民族のオセット人は、サルマタイ人の末裔だと言われている。 また、ブリテン島に伝わる、アーサー王伝説は、この地に派遣されたサルマタイ人の伝説が起源だという説がある。なぜなら、帝政ローマ時代のブリテン島には多くのサルマタイ人が駐屯していて、彼らは自分たちの伝説や神話を持ちこんだとされる。事実、アーサー王伝説のストーリーの一部はサルマタイ神話と奇妙なほど酷似している。
[編集] 古代の記録、出土品より
ローマ時代の歴史家たちは断片的とはいえ、時には精密なサルマタイ人の描写を残している。タキトゥス、ヴァレリウス・フラックス、アーリアヌス、パウサニアス、ストラボン、ヨセフスなどがそうした歴史家である。サルマタイ人は、スキタイ人の文化を継承しているとはいえ、興味を引くのはその類似点より相違点なのである。
記録から推測できるサルマタイの社会組織は封建的であって、スキタイのように世襲的な王朝をもっていたかどうかは定かでない。彼らは村や町をつくらない、純粋の遊牧民であったらしい。スキタイ人と違って彼らは黒海沿岸の都市を攻撃することはなく、ゴートと連合してギリシア都市を征服するようになった時代でさえ、被支配民の政治組織に変更を変えることなく維持させ、特にギリシア商人を代理として交易を行っていた。
サルマタイ兵の主要な武器は、ヨーロッパ中世の騎士の持っていたような長く重い矛であった。馬も人も鎖帷子か鋳鉄の鎧で武装し、騎兵集団で突撃して敵の抵抗力を破った。一騎打ちでは鋭い峰の長剣を用いた。スキタイ人と違い、弓矢の役目は二次的なものに留まった。サルマタイの宗教について文献から知られていることは、火の崇拝があったらしいこと、儀式では馬の犠牲が顕著に見られることぐらいである。葬法はスキタイよりも簡素で、副葬品は東方の影響を受け幾何学文様が多く、動物文様は少ない。婦人の装飾品や壺の表面装飾は宝玉や七宝細工を多用し、ギリシアの神話や宗教的素材は引用されず、均整より多彩であることを重んじ、印象は華美である。こうしたサルマタイ人が好んだ多色様式の工芸品は、ビザンティンとヨーロッパ中世の美術へと継承される。