セルジュ・ゲンスブール
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セルジュ・ゲンスブール(Serge Gainsbourg, 1928年4月2日 - 1991年3月2日)はフランスの作曲家、作詞家、歌手、映画監督、俳優である。両親は帝政ロシア(現在のウクライナのハリコフ)出身のユダヤ人で、パリ生まれ。幼名はリュシヤン・ギンスブルグ(Lucien Ginsburg)といった。1958年にLe Poinçonneur des Lilas(「リラの門の切符切り」)でデビューして以来、反体制的な作風で人気を博し、1960年代の特に後半から1970年代にかけて、フランスのポピュラー音楽において中心的な役割を果たした。作詞に特徴が強く、ダブル・ミーニングなどの言葉遊びを多用する。また、ときにはメタファーを使って、ときには露骨に、性的な内容を語った歌詞が多い。俳優・歌手のジェーン・バーキンは3人目の妻であり、俳優のシャルロット・ゲンスブールはバーキンとの間に儲けた娘である。死後はその栄光をたたえて、ジャン=ポール・サルトル、シャルル・ボードレールなどの著名人が数多く眠るモンパルナス墓地に葬られた。
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[編集] 経歴
[編集] デビュー以前
ギンスブルグ家はロシア革命の混乱を逃れてきた移民である。リュシヤンの父親ジョゼフはピアニスト・美術家だったが、パリに移ってからはもっぱらキャバレーでピアノを弾いて生計を立てていた。パリで産まれたリュシヤンは父の影響で幼少からクラシック音楽に親しみ、絵画にも興味を持っていた。幼いころは内気な性格だった。1947年ごろ、小遣い稼ぎにギターを弾きはじめる。1948年に召集を受け、翌1949年までおよそ1年間従軍するが、この間、脱走を企てたことなどから3ヶ月間投獄されている。それに前後してギターが生計を担うようになり、絵画からは遠ざかってゆく。この期間、貧困に苦しんでさまざまな仕事をする合間に、はじめて作曲をする。1951年、エリザベート・レヴィツキーと結婚する。1954年、パリの有名なキャバレー「ミロール・ラルスイユ」でピアニストとして働きはじめる。そこでボリス・ヴィアンの歌唱を聞いて感銘を受け、「これなら自分にもできる」と考える。それ以来、セルジュ・ゲンスブールと名乗るようになる。本人の談によると、「ゲンスブール」の由来は高校の教師が「ギンスブルグ」をうまく発音できず「ゲンスブール」と読んでいたことで、「セルジュ」はロシア風の名前から選んだという。
1958年に歌手としてデビューするまで、ゲンスブールはパリのキャバレーでピアニスト兼歌手として働いていた。ここでボリス・ヴィアンの歌唱を聞き、その反骨精神に感銘を受けたことが後の作風に影響したという。デビュー前から、ほかの歌手に提供する形で作曲はしていた。ヴィアンはゲンスブールの才能を絶賛していた。
なお、「ギンスブルグ」の綴りには諸説あるが、2006年に発売されたトリビュート・アルバムMonsieur Gainsbourg Revisitedのブックレットには、"We wish to thank [...] Paul Ginsburg"という記載がある。「ゲンスブール」についても、日本では「ゲンズブール」「ゲーンスブール」「ゲーンズブール」といった表記が使われている。69 année érotique(「69年はエロな年」)、Ballade de Johnny-Janeなどで聞ける本人の発音は「ゲンズブール」に近い。フランス語の発音規則に従えばここは「ス」なのだが(規則どおりなら「ゲァンスブール」と読まれるのが自然である)、フランス語では有声化と呼ばれる現象が強く、後の[b]に影響されて[s]が[z]に近く発音されると考えられるので、揺らいでいる文字の発音は「有声化によって『ズ』に近くなった『ス』」という記述がもっとも適当だろう。
[編集] 歌手デビュー後
1958年、ゲンスブールは歌手としてメジャーデビューする。デビュー作のLe Poinçonneur des Lilasは、地下鉄の駅で切符を切り続ける改札係を歌ったものである。暗い地下から逃げて広い世界に出たい、という着想は、あるとき改札係に「なにか望みはないか」と尋ね、「空が見たい」という答えを受けたことから生まれたという。歌詞の中では、色々な意味に変わりながら繰り返されるtrous(穴)という語が性的な隠喩であるとされる。この曲がヒットしている間、ゲンスブールはコンサートで改札係に扮して歌った。
1965年、フランス・ギャルがゲンスブールの提供曲Poupée de cire, poupée de son(「夢見るシャンソン人形」)でユーロビジョン・ソング・コンテストのグランプリを獲得する。ロック風の激しいサウンドは、当時ジャック・プレヴェールに代表される情緒豊かな作品(日本で普通「シャンソン」と呼ばれるようなもの)が主流だったフランス音楽界において一部の反発を受けるが、若い層を中心に絶大な人気を集め、ギャルとともにゲンスブールの名を一気に高める。その後もギャルへの提供曲は続々とヒットし、ギャルはフレンチロリータという伝統の始まりとなる。なかでも話題を呼んだのが1966年のLes sucettes(「アニーとボンボン」)である。この歌は(棒つきの)キャンディを美味しそうに舐める女の子を歌ったもので、童謡のような曲とアレンジで歌われた。歌詞がダブル・ミーニングでフェラチオを暗示していたのだが、当時18歳のギャルは後に、そちらの意味には気付いていなかったと発言している(ギャルのベストアルバムPoupée de cire日本版のブックレットより)。ヒット中には、何も知らずにTVやグラビアで棒つきキャンディを頬張っている姿を見せていたギャルだったが、後にゲンスブールが書いた歌詞に秘められていた悪意に気付いて人間不信に陥り、恥ずかしさと怒りから数ヶ月部屋に閉じこもってしまったという。ちなみに「夢見るシャンソン人形」にも、蝋人形という死のイメージにアイドル歌手をダブらせるというある種の悪意が込められているとされる。
1967年、ブリジット・バルドーと不倫の関係を持つ。この年にはバルドーにHarley Davidsonなど多数の提供曲を作っている。Je t'aime... moi non plus(ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ)もその一つだが、バルドーは当時の夫ギュンター・ザックスの怒りを恐れ、この歌のリリースを拒否する。詳しくはジュ・テーム・モワ・ノン・プリュを参照されよ。翌1968年にはゲンスブールとバルドーのデュエットなどによるアルバムBonnie and Clydeがリリースされている。
[編集] ジェーン・バーキン
1968年、映画Slogan(『スローガン』)でジェーン・バーキンと共演する。当時20歳のバーキンはゲンスブールに一目惚れし、同年のうちにJe t'aime moi non plusをゲンスブールとデュエットするなど親密な関係を経て結婚する。なお、バーキンがJe t'aime moi non plusを歌ったアルバムJane Birkin et Serge Gainsbourgにはゲンスブールが歌うLes sucettesも収録されている。ゲンスブールにとっては3度目の結婚である。この結婚生活は円満で、娘のシャルロット・ゲンスブールにも恵まれ、二人はおしどり夫婦として知られるようになる。以後ゲンスブールはバーキンに無数の提供曲を作る。バーキンとのデュエットに、Je t'aime moi non plusと同様、性行為を歌ったLa décadance(「デカダンス」、1972年)がある。
1968年、フランソワーズ・アルディにComment te dire adieuを提供する。これがきっかけで、アルディはゲンスブールともバーキンとも親しく交際するようになる。ゲンスブールの死後もアルディはバーキンのアルバムRendez-vous(2003年)にSuranéeで参加するなど、バーキンと懇意である。
1973年、心臓発作を起こして倒れる。バーキンは家庭のために健康にも気遣ってほしいと懇願するが、ゲンスブールはそれを聞き入れず、以前と同様の飲酒と喫煙を続ける。これも一因となって夫婦の争いが多くなり、ゲンスブールはバーキンに暴力を振るうようになる。1977年、バーキンと離婚。その後も曲の提供は続ける。
[編集] バーキン以後
1979年、フランスの国歌La Marseillaise(「ラ・マルセイエーズ」)をレゲエに編曲したAux armes et caeteraをリリースする。この時代レゲエに傾倒していたゲンスブールは、新作のアルバムをジャマイカのキングストンで録音する。このときボブ・マーレィのバックヴォーカルを務めていたリタ・マーレィが参加しているが、ボブは後で、リタがエロティックな歌詞を歌わされたとして怒ったという。
1980年から、モデル・歌手のバンブーと同棲。彼女は30歳年下だった。1986年には息子ルルーも生まれ、バンブーはセルジュの最後のパートナーとなった。
Aux armes et caeteraのために右翼団体から狙われていたゲンスブールは、その後たびたび襲撃されるようになる。1984年に競売でLa Maiseillaiseの著作権を買い取ったとき、「破産する覚悟で望んだ」という本人の談がある。
1984年、娘のシャルロットとのデュエットでLemon incestをリリースする。これはフレデリック・ショパンの「12の練習曲 Op.10 第3番 ホ長調『別れの曲』」に、incest(近親姦)という題名の通り、セルジュとシャルロットの関係を思わせるような歌詞をつけて歌ったものである。
晩年、テレビに出演する機会は多かったが、髭も剃らず、しばしば酔ったままで現れた。ホイットニー・ヒューストンと共演したときには"I want to fuck you"と発言した。
1991年、死亡。死因は心筋梗塞と考えられているが、発見されたときには既に死後いくらかの時間が過ぎていたので定かでない。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬された。ゲンスブールの墓を訪れる人は後を絶たず、彼らがLe poinçonneur des Lilasにちなんで地下鉄の切符を供えるため、墓の周りにはいつも無数の切符が散らばっている。
[編集] 代表作
[編集] 歌曲
- Le Poinçonneur des Lilas (リラの門の切符切り)
- La Javanaise (ラ・ジャヴァネーズ)
- Docteur Jekyll et monsieur Hyde (ジキルとハイド)
- Bonnie and Clyde (ボニーとクライド)
- Je t'aime... moi non plus (ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ)
- Ford Mustang (フォード・ムスタング)
- Je suis venu te dire que je m'en vais (手ぎれ)
- Rock around the bunker (ロック・アラウンド・ザ・バンカー)
- Aux armes et caetera (祖国の子供たちへ)
- Ecce homo (エクセ・オモ)(フリードリヒ・ニーチェのEcce Homo(『この人を見よ』)にちなんだもの)
- Lemon incest (レモン・インセスト)
- Ballade de Johnny-Jane
[編集] 提供曲
楽曲を提供したアーティストは無数であり、特に女性が多い。
- フランス・ギャルへ
- Poupée de cire, poupée de son
- Les Sucettes
- フランソワーズ・アルディへ
- Comment te dire adieu
- ジェーン・バーキンへは数多くの曲を提供しているが、もともとゲンスブールが歌ったものをバーキンがカバーしたり、逆のケースも多いので厳密に分けることは難しい。
[編集] 映画
- ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ Je t'aime... moi non plus(1976年、監督、出演)
- 赤道 Equateur(1983年)
- シャルロット・フォー・エバー Charlotte For Ever(1986年)シャルロット・ゲンスブール出演
- スタン・ザ・フラッシャー Stan the Flasher(1990年)エロディ・ブシェーズ出演
[編集] 著作
- 「スカトロジー・ダンディズム」(福武書店、1980)
[編集] 評伝
- 「ゲンスブールまたは出口なしの愛」(ジル・ヴェルラン著、1993年、マガジンハウス)
- 「ゲンスブールかく語りき」(永瀧達治著、1998年、愛育社)