バレンティーノ・ロッシ
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バレンティーノ・ロッシ(Valentino Rossi, 1979年2月16日 - )は、イタリア・ウルビーノ出身のオートバイ・ロードレースライダー。
愛称は「バレ」「ザ・ドクター」「ろっしふみ」。FIAT YAMAHA TEAM(フィアット・ヤマハ・チーム)所属
ロードレース世界選手権参戦以来11年間で7回のワールドチャンピオンを獲得しており、「史上最強のライダー」との呼び声も高い。
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[編集] 来歴
[編集] アプリリア在籍時代(125cc・250cc)
1996年、イタリア選手権チャンピオンとしてロードレース世界選手権125ccクラスにアプリリアからデビュー。チェコGPで初優勝を遂げる。この頃は当時125ccクラスを席巻していた日本人ライダーら(青木治親・坂田和人・上田昇など)に親しく接し、現役チャンピオンだった青木はロッシによくアドバイスを与えていたという(後に青木は「あんなに強くなるんなら教えるんじゃなかった」といった旨のコメントをしている)。翌1997年には11勝を上げ初のチャンピオンに輝く。
1998年、250ccクラスにステップアップ。同じアプリリアの先輩である原田哲也、ロリス・カピロッシが展開するチャンピオン争いに割って入り、ランキング2位。2人の抜けた翌1999年はホンダの宇川徹を下してチャンピオンに。
[編集] ホンダ在籍時代(500cc・MotoGPクラス)
最高峰500ccクラスにステップアップするにあたり、ホンダに移籍することを決断。ホンダはロッシを迎えるにあたり、実質ワークス格のロッシ用チーム、ナストロ・アズーロ・ホンダを結成。エンジニアにGP界で数々のチャンピオンを生み出したジェレミー・バージェスを起用するという、500ccルーキーとしては破格の待遇であった。
500cc参戦初年度の2000年、ロッシは最新型ホンダNSR500を駆り大いに注目を集めたが、シーズン序盤は慣れぬマシンに戸惑い転倒が目立った。シーズンが進むにつれ安定感が現れ、中盤のイギリスGPで初優勝。終盤のリオGP(ブラジル)でも優勝し2勝でランキング2位を獲得した。また、日本メーカーであるホンダに移籍したことから、ロッシが出場を望んでいた鈴鹿8耐にも参戦。コーリン・エドワーズとのペアで挑んだがリタイアに終わる。
500cc2年目の2001年、ロッシは11勝を上げ圧倒的な強さでチャンピオンを獲得、3クラス制覇の偉業を成し遂げる(全て参戦2年目での達成)。開幕戦日本GP(鈴鹿)ではホンダのWGP通算500勝目を記録、また前年と同じ体制で挑んだ鈴鹿8耐では優勝するなど、ロッシがロードレース界に君臨した年であるといえる。
2002年、最高峰クラスが500ccクラスからMotoGPクラスに移行してもロッシの強さは変わらなかった。この年、ワークスのレプソル・ホンダに加入。ホンダが新たに投入した4ストロークマシン、RC211Vを駆ったロッシはまたしても11勝を記録、チャンピオンに。翌2003年はライバルのマッシミリアーノ・ビアッジが同じホンダ(サテライトチーム)に移籍し、苦しいシーズンになるかと思われたものの、蓋を開けてみれば9勝を上げチャンピオン獲得。最終戦バレンシアGPで2004年からのヤマハへの移籍を発表した。
[編集] ヤマハ移籍~現在
後述の理由などもあって、当時常勝を誇ったホンダからMotoGPクラス開始以来2勝しか上げていなかったヤマハに優勝請負人として移籍したロッシ。ヤマハも過去2年間で培った技術を元に新開発エンジンを投入、またロッシの希望からホンダ時代のエンジニアであるバージェスをホンダから引き抜きロッシと「2人3脚」でマシンを開発。ウィンターテストの段階から2004年型ヤマハYZR-M1は戦闘力を大幅に上げていた。
そして挑んだ2004年開幕戦・南アフリカGP。ロッシは予選でポールポジションを獲得、決勝でもホンダのエース格・ビアッジとの激しい優勝争いを展開。激闘の末、見事ロッシは移籍初戦を優勝で飾り、ウィニングラップで感動のあまり号泣しマシンにキスをした(と報道されたが、自叙伝では「メットの中で大笑いしていたのさ!」と語っている)。
その後もロッシはホンダ時代と変わらない強さを見せ、9勝でチャンピオンを獲得。優勝請負人としての仕事を果たしてみせた。ファンや関係者からは「ホンダやヤマハが強いのではなく、ロッシとバージェスのコンビがいるところが強いのだ」といった感想さえ聞こえた。事実、この年ヤマハはロッシの他に3人のライダー(※カルロス・チェカ、※阿部典史、マルコ・メランドリ)が同じ年式のYZR-M1に乗っていたが誰も1勝さえ上げていない。それほどまでにロッシの強さは際立っていた。※・・・優勝経験者(当時)
2005年もロッシは11勝でチャンピオンを獲得。これで2001年から続く最高峰クラス連覇を「5」とし、1994年~1998年に500ccクラスを5連覇したマイケル・ドゥーハンの記録に並んだ。2006年はこの記録を「6」に伸ばすべく同じくヤマハで戦ったが、開幕から不運が続き例年にない苦しいシーズンとなり、苦労の末ポルトガルGPでようやくランキングトップに躍り出たものの、続く最終戦バレンシアGPで転倒。6年連続チャンピオン獲得とはならなかった。
また、2005--2006年オフシーズンにフェラーリF1チームのテストに参加、2007年からのF1転向が噂されていたが、6月にヤマハ残留を発表。2007年2月には2008年までの契約延長に合意した。なお、ヤマハチームは2007年から2008年までフェラーリの資本の85%を所有するフィアットのスポンサーシップを受けることとなったが、これに関してロッシ自身はF1への転向とは無関係であると表明している。
[編集] ライディングスタイル
ロッシのライディングは長身・長い手足を生かした積極的な荷重コントロールによってマシンの性能を最大限引き出すことが特徴的である。またタイヤのスライド感覚にも優れ、2002年に駆ったホンダRC211Vのエンジンブレーキ(バックトルク)によるリアタイヤのスライドに他のライダーが悩まされる中、ロッシはそのスライドを積極的にコーナリングに活用しアドバンテージを得ていた。
タイヤのスライド感覚が鋭いため、スリップダウン・ハイサイドでの転倒が極端に少なくロッシの安定した強さの要因(=リタイア・怪我が少ない)にもなっている。特にハイサイドの処理は秀逸で、マシンから振り落とされそうになっても一瞬早く反応して収束させてしまうライダーは稀有である。
その一方で近年までは雨には弱く、著しく成績が下がるか転倒といったパターンであった。目立つところでは2001年イタリアGP、本来得意なムジェロで最終ラップで転倒し雨に弱いイメージの一因となっている。しかしここ2年ほどの間に雨を克服したようで、2005年の中国GPでは雨のレースでオリビエ・ジャックを押さえ優勝を飾っている。
レーススタイルとしては典型的な「差し馬」型で、トップを走るライダーの後にぴったり付け、ラスト2~3周で逆転し一気にスパート・優勝というパターンがホンダ時代には多く見られた。ヤマハに移籍してからは、マシンの違いから他の勝ち方も見られるが大きくは変わっていない。
[編集] 人物
[編集] 性格
イタリア人らしく非常に陽気な性格で知られる。ファンサービス精神にあふれており、ウィニンングラップではウィリー・バーンアウトを積極的に行ったり、後述のイベントなどで観客を楽しませる。
しかしレースに対する姿勢は非常にプロフェッショナルであり、テストを積極的にこなしマシン開発に尽力する。また自らのミスで成績が芳しくない時などは無口で厳しい表情を見せるが、自身、同郷と言うことで応援していたビアッジの、上手くいかない際はマシンのせい、スタッフのせいというあまりの態度に辟易した過去もあり、リタイアの原因がマシントラブルにあったとしても、公の場でスタッフを責める発言は口にしない。また勝利の際は必ずチームとスタッフに謝意を述べる。こうした性格のギャップもロッシの魅力の一つである。
[編集] 幼少期
かつてスズキで活躍したGPライダー、グラツィアーノ・ロッシの子として生まれる。父親が強制したわけではないが、幼少のころよりポケバイ・カートに興じ、当時からライディング感覚は優れていたという。
[編集] ビジュアルへのこだわり
ロッシの大きな特徴としてビジュアルデザインに対するこだわりがある。ヘルメット・ツナギやマシンに後述のキャラクター・パロディなどの遊び心にあふれたステッカーを多数製作・貼付している。また、2001年までは地元イタリアGPでマシン自体にスペシャルカラーを施していた。
ヘルメットデザインの多彩さは他のライダーの及ぶところになく、毎年2~3つのデザインを使いまわしている。地元イタリアGPでは毎年スペシャルデザインを用意している。
主なキャラクターは月と太陽、ブルドッグ、カメ、ザ・ドクター。好きな色は黄色である。 月と太陽のデザインはロッシ自身の二面性を表しているらしい。
パロディ・自虐ネタが好きで、2004年序盤に4位が続いて迎えた地元イタリアGPでは、ヘルメットに木のメダルをデザインし(金・銀・銅に次いで4位は木という意味。もちろんイタリアの洒落)、「自分には4位がお似合いだ」というメッセージを込めた(結果は優勝)。また、不振が続く2006年にはランキング1位のライダーと自分とのポイント差を気温差のように表示したステッカーをお決まりとなっているブルドックと共にシートに貼り、ポイント差が開くとマイナスの度合いが開き、ブルドッグが凍えていく、という皮肉なデザインを使っていた(最大時にはブルドックはアイスブロックで覆われていたが、その後ポイントが縮まりアイスブロックは撤去された)。
[編集] ヤマハ移籍の理由
ロッシがホンダからヤマハへ移籍した最大の理由は、当時無敵を誇ったRC211Vに乗らずとも自らの力量で勝利を勝ち取れることを誇示したいという思いからであった。同時に、ホンダのある種非情なまでの常勝主義、(技術にしろイメージにしろ)市販車にフィードバックすることが第一という商業主義、ライダーの尊厳を低く扱う事にも不満を持っていたとも(優勝したライダーはその年のマシンを永久に貸与されるのが通例であるが、2001年モデルのNSR500を譲り渡す姿勢を見せつつ本音では絶対譲るつもりがないホンダに対し、非常な憤りを感じたという)。とはいえ当初はホンダを去るつもりはなかったようだが、2003年初頭、接触してきたヤマハとドゥカティを移籍先の候補に考え初め、両社の社風に触れるうちにホンダで勝利を重ねる(常勝であることを求められ続ける)環境に次第に魅力を感じられなくなったようである。その後ドゥカティにホンダと似た雰囲気を感じ、最終的にヤマハへの移籍を決意したようである。
[編集] その他
- 2005年の推定年収は33億円。
- ゼッケンナンバーはデビュー以来一貫して「46」を使い続けている。モータースポーツ界では前年のチャンピオンが「1」を付けるのが一般的である(MotoGPの場合は付ける権利がある)が、ロッシはチャンピオンになった翌年も「46」を使っている。「46」という番号は父親の現役時代のものを受け継いでいる。
- 若手時代、日本人GPライダー阿部典史の大ファンだったことで知られ、阿部への尊敬から自らに「ろっしふみ」(ロッシ+のりふみ)というニックネームを付けたほどだった。また、阿部のニックネーム「ノリック」にならい、Valentinic(バレンティニック)と書いたロゴをマシンに貼ったこともある。
- 大のタバコ嫌いとして有名で、以前タバコ会社がスポンサーを務めるチームを蹴って比較的ギャラの低いレプソル・ホンダに所属していた。ヤマハ移籍後2年間は、ゴロワーズ・キャメルとタバコ会社がスポンサーを務めるチームに所属していた。
- WRCにも2度の出場経験がある。初出場は2002年のラリー・グレードブリデンで、周囲からの大きな注目を集めていたが、オープニングステージでコースアウトと、期待を裏切る結果に終わった。4年後の2006年には、ラリー・ニュージーランドに出場。絶対完走を目標にスタートし、序盤はグループNより遅かったが、持ち前の適応能力を発揮し、最後は11位でフィニッシュした。他にも地元のラリーイベントに参加するなど、かなりのラリー好きで、WGP引退後は、ラリー転向もほのめかしている。
- 個人スポンサーとしてイタリアのビールブランドであるナストロ・アズーロがついている。500cc時代まではロッシの所属チームのメインスポンサーを務めていたが、現在はロッシの被る帽子にそのロゴを見ることができる(人物欄の写真を参照)。また、使用するヘルメットメーカーは一貫してイタリアのAGV。ツナギなどライディングウェアは全て同じくイタリアのダイネーゼと契約している。
- 世界中を転戦するMotoGPであるが、彼のファンクラブは熱心に全てのレースに帯同し、ロッシが勝つとウィニングラップにコースにに出てきてロッシと喜びを分かち合う。チャンピオン獲得など記念すべきレースでは何らかのイベントを用意している場合が多い。
- レース開始前、ピットから出て行く際には必ずマシンのステップを掴んでしゃがみこみ、精神統一する儀式を行う。
- イタリアが優勝した2006年サッカーワールドカップ直後の開催だったドイツGPで優勝、その表彰式にて、前述のワールドカップの決勝戦でジダン選手から頭突きを受けた事で時の人となっていたイタリア人DF・マテラッツィ選手(インテル・ミラノ所属)のイタリア代表ユニフォームを着て表彰台に上がった。そのユニフォームはマテラッツィ本人に優勝を祝福する連絡をした所、本人からそのお礼に送られたものだった。
[編集] 主な戦績
- 1995年:イタリア選手権125ccチャンピオン
- ヨーロッパ選手権125ccランキング3位
- ロードレース世界選手権125ccランキング9位 1勝(チェコ)
- 1997年 - ナストロ・アズーロ・チーム/アプリリアRS125
- 1998年 - ナストロ・アズーロ・チーム/アプリリアRS250
- 1999年 - アプリリア・グランプリ・レーシング/アプリリアRSW250
- ロードレース世界選手権250ccチャンピオン 9勝(スペイン、イタリア、カタルニア、イギリス、ドイツ、チェコ、オーストラリア、南アフリカ、ブラジル)
- ロードレース世界選手権500ccランキング2位 2勝(イギリス、ブラジル)
鈴鹿8時間耐久ロードレースリタイヤ(コーリン・エドワーズ)(カストロール・ホンダ/ホンダVTR1000SPW)
- 2001年 - ナストロ・アズーロ・ホンダ/ホンダNSR500
- ロードレース世界選手権500ccチャンピオン 11勝(日本・鈴鹿、南アフリカ、スペイン、カタルニア、イギリス、チェコ、ポルトガル、パシフィック・もてぎ、オーストラリア、マレーシア、ブラジル)
鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝(コーリン・エドワーズ)(チーム・キャビン・ホンダ/ホンダVTR1000SPW)
- ロードレース世界選手権MotoGPチャンピオン 11勝(日本・鈴鹿、スペイン、フランス、カタルニア、イタリア、オランダ、イギリス、ドイツ、ポルトガル、ブラジル、オーストラリア)
- 2003年 - レプソル・ホンダ・チーム/ホンダRC211V
- ロードレース世界選手権MotoGPチャンピオン 9勝(日本・鈴鹿、スペイン、イタリア、チェコ、ポルトガル、ブラジル、マレーシア、オーストラリア、バレンシア)
- ロードレース世界選手権MotoGPチャンピオン 9勝(南アフリカ、イタリア、カタルニア、オランダ、イギリス、ポルトガル、マレーシア、オーストラリア、バレンシア)
- 2005年 - ゴロワーズ・ヤマハ/ヤマハYZR-M1
- 2006年 - キャメル・ヤマハ/ヤマハYZR-M1
- ロードレース世界選手権MotoGPランキング2位 5勝(カタール、イタリア、カタロニア、ドイツ、マレーシア)
- 2007年 - フィアット・ヤマハ/ヤマハYZR-M1
- ロードレース世界選手権MotoGP 1勝(スペイン)
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