ビリー・マーチン
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ビリー・マーチン(Alfred Manual "Billy" Martin, 1928年5月16日 - 1989年12月25日)はアメリカ・メジャーリーグの野球選手・監督。
1950年から二塁手としてニューヨーク・ヤンキースなどでプレー、現役時代はミッキー・マントルの陰に隠れる格好であったが、ここぞというところで打つなどの勝負強さがあり、ワールドシリーズでの打率.500(24打数12安打)は今も破られていない。
1957年に、ニューヨークのナイトクラブ「コパカバーナ」で起こした乱闘騒ぎにより、ヤンキースを追われるような形でトレードに出され、その後カンザスシティ・アスレティックス、シンシナティ・レッズなどを渡り歩いて1961年に現役を引退した。
引退後はファームでのコーチを経て1969年にミネソタ・ツインズの監督に就任、その年に地区優勝を果たしたが、同年、フロントと対立してあっさり退団してしまう。しかし、その間にチームの看板選手だったロッド・カルーを鍛え上げた。その後、デトロイト・タイガース、テキサス・レンジャーズでの監督を経て、1975年からは古巣ニューヨーク・ヤンキースの監督を務めたが、当時からのオーナーであるジョージ・スタインブレナーや1977年に移籍でやってきたレジー・ジャクソンらとたびたび対立し、タブロイド紙はこの当時の球団を“Bronx Zoo(ブロンクス動物園)”などと揶揄した。1982年にはオークランド・アスレチックスでも指揮をとり、盗塁王リッキー・ヘンダーソンを育てている。
本塁打の破壊力と機動力を生かした攻撃的な野球スタイルは「ビリー・ボール(Billy Ball)」と呼ばれファンを魅了したが、現役時代から見られた武闘派とも言える彼の短気と猪突猛進な性格は多くのトラブルを生んだ。青年時代はボクサーを志していただけあって、そのパンチ力は並外れており、その鉄拳で引き起こしたバーやクラブなどでのケンカは膨大な量になる(そのため、彼のことを「喧嘩屋」「野獣選手」と皮肉ったところもある)。前述の「コパカバーナ」での乱闘のほかにも、ツインズ監督時代には主力投手のデイブ・ボズウェルをぶっ飛ばしてKOさせたり、1979年10月にはマシュマロを売りにきたセールスマンをのしたり、地元ニューヨークの記者の前歯をへし折るなど。スタインブレナー・オーナーとの愛憎入り混じった関係も有名で1988年までにヤンキース監督を5回も解雇され、4回復帰している。「まるでSM関係」と評するマスコミもいた。
1989年12月25日、ニューヨーク州のバーミントンで乗っていたトラックがアイスバーンで横転する事故により死去。享年61。この訃報を聞いたスタインブレナー・オーナーは「家族の一人を亡くしたようだ」というコメントを残している。
野球殿堂入りはまだ果たしていないが、1986年に、現役・監督を通じてつけていた自身の背番号1をヤンキースの永久欠番に指定されている。
[編集] 通算成績
[編集] 監督としての成績
- 通算1253勝1013敗
- ヤンキースでの勝ち星556勝はチーム6位の記録である。
- 1975年ア・リーグ東地区3位(ビル・ヴァードンの後任としてシーズン途中8月に就任)
- 1976年ア・リーグ優勝(ワールド・シリーズはシンシナティ・レッズ相手に4-0で敗退)
- 1977年ワールド・シリーズ優勝(ロサンゼルス・ドジャース、4-2)
- 1978年ワールド・シリーズ優勝(ロサンゼルス・ドジャース、4-2。マーチンはシーズン途中の7月に辞任。この年ヤンキースは3人もの監督が入れ替わる)
- 1979年ア・リーグ東地区4位(ボブ・レモンの後任としてシーズン途中6月に就任)
- 1983年ア・リーグ東地区3位
- 1985年ア・リーグ東地区2位(ヨギ・ベラの後任としてシーズン途中4月に就任)
- 1988年ア・リーグ東地区5位(シーズン途中6月に解雇。後任はルー・ピネラ)
[編集] その他
ヤクルトスワローズのビリー・マーチン(Billy Joe Martin,1976年6月10日-)は別人。
カテゴリ: アメリカ合衆国の野球選手 | MLB監督 | 1928年生 | 1989年没