フョードル・ドストエフスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー(Фёдор Михайлович Достоевский, 1821年11月11日(ユリウス暦10月30日) - 1881年2月9日(ユリウス暦1月28日))はロシアの小説家、思想家である。レフ・トルストイやアントン・チェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪である。その著作は、当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教に基づく魂の救済を訴えているとされる。実存主義の先駆者と評されることもある。
目次 |
[編集] 概要
モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれ、15歳までモスクワの生家で暮らした。作家時代を送ったペテルブルクは物語の舞台として数々の作品に登場する。
1846年、処女作『貧しき人々』を批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、華々しく作家デビューを果たす。デビュー前のドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ詩人ネクラーソフが、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話は有名である。
デビューこそ華々しかったものの、続けて発表した『白夜』などは酷評をもって迎えられる。その後空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、処刑間際で特赦が与えられ(この一連の特赦はすべて仕組まれたものであった)、1854年までシベリアで服役。この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。
刑期終了後、兵士として勤務した後1858年にペテルブルクに帰還。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があったとされる。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。
自身の賭博好きな性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感をともなう珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。賭博好きな性質は、ドストエフスキーの生涯を貧乏生活にした。借金返済のため、出版社との無理な契約をして、締め切りに追われる日々を送っていた。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』、『賭博者』などは口述筆記という形をとった。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの二番目の妻となる。
また、小説以外の著作として『作家の日記』がある。これはいわゆる日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)などを含み、後年ドストエフスキー研究の貴重な文献として参照されることとなった。
晩年に集大成ともいえる長編『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日に家族に看取られながら60歳で亡くなる。死去するまでに残した著作は全部で35篇で、短編も少なからず残されている。
ドストエフスキーが日本文学に与えた影響は計り知れない。ドストエフスキー熱は現在でも冷めることなく、「ドストエーフスキイの会」(木下豊房代表)、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」などがある。
ドストエフスキーの末裔、ドミトリーは現在もサンクト・ペテルブルグで活躍中。関東(早稲田大学)、関西(天理大学)で2004年に来日記念講演を行った。
[編集] 著作
- 1841年『マリア・ステュアルト』、『ボリス・ゴドゥノフ』(いずれも現存せず)
- 1846年『貧しき人びと』(Бедные люди)、『分身』(Двойник)、『プロハルチン氏』、『剃り落とされた頬髯』、『廃止された役所の話』(後の二作品は現存せず)、
- 1847年『九通の手紙にもられた小説』、『ペテルブルグ年代記』、『家主の妻』
- 1848年『他人の妻』、『弱い心』、『ポルズンコフ』、『世なれた男の話』(のちに改稿の上『正直な泥棒』と改題)、『クリスマス・ツリーと結婚式』(Елка и свадьба)、『白夜』(Белые ночи)、『嫉妬ぶかい夫』(Честный вор)(のちに『他人の妻』と合わせて『他人の妻とベッドの下の夫』と改題)
- 1849年『ネートチカ・ネズワーノワ』(Неточка Незванова)
- 1857年『小英雄』
- 1859年『伯父様の夢』(Дядюшкин сон)、『ステパンチコヴォ村とその住人』(Село Степанчиково и его обитатели)いづれも笑劇的な滑稽小説であるが、不当に無視されている。
- 1860年『死の家の記録』(Записки из мёртвого дома)
- 1861年『虐げられた人びと』(Униженные и оскорбленные)、『ペテルブルグの夢―詩と散文』
- 1862年『いまわしい話』(Скверный анекдот)
- 1863年『冬に記す夏の印象』
- 1864年『地下室の手記』(Записки из подполья)
- 1865年『鰐』(未完)
- 1866年『罪と罰』(Преступление и наказание)、『賭博者』(Игрок )
- 1868年『白痴』(Идиот)
- 1869年『大いなる罪人の生涯』(創作ノート)
- 1870年『永遠の夫』
- 1871年『悪霊』(Бесы)
- 1873年『ボボーク』*
- 1875年『未成年』(Подросток)
- 1876年『キリストのもみの木祭りに行った男の子』*、『百姓マレイ』*、『百歳の老婆』*、『やさしい女』
- 1877年『おかしな人間の夢』(Сон смешного человека)*
- 1880年『カラマーゾフの兄弟』(Братья Карамазовы)
題名のあとに「*」をつけてあるものは『作家の日記』(Дневник писателя)に収録された短編である。
一般に『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』が、ドストエフスキーの5大作品と呼ばれている。
[編集] 研究
ドストエフスキーの研究の歴史の中で、特に重要な研究者は以下の通りである。
- ミハイル・バフチン - バフチンはポリフォニー論やカーニバル論によって、ドストエフスキー研究の新たな境地を拓いた。バフチンの論は半ば一般論化している。
- アンドレ・ジイド - ジイドは「地下室の手記」がドストエフスキー文学を解く鍵であるとした。ジイドの論文「ドストエフスキー」は数ある評論の中でも特に有名である。
- レオニード・グロスマン - グロスマンはドストエフスキーの文学が、冒険小説的構成をとっていることなどを、指摘した。
- ヴィクトル・シクロフスキー
- 江川卓 - 江川はドストエフスキーの言語のダブルミーニングなどについて、研究を行った。
[編集] 著名人への影響等
ドストエフスキーは文学以外の分野の著名人からも、高く評価されてきた作家である。
- アルベルト・アインシュタイン「ドストエフスキーは、どんな思想家が与えてくれるものよりも多くのものを私に与えてくれる。ガウスよりも多くのものを与えてくれる」
- ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を50回以上も熟読したとされている(第一次世界大戦従軍時の数少ない私物の一つが『カラマーゾフの兄弟』だったため)。
- ジークムント・フロイトは論文「ドストエフスキーと父親殺し」において、ドストエフスキーの小説や登場人物について研究している(フロイトが論文の表題に作家の名前を冠したことは、極めて異例なことだった)。
- 黒澤明「ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んでいて、どうしても一度は映画化をやりたかった。もちろん僕などドストエフスキーとはケタが違うけど、作家として一番好きなのはドストエフスキーですね」(黒澤監督は『白痴』を、人物と場所の設定を日本にした上で映画化している)