ヘンリー・スティムソン
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ヘンリー・ルイス・スティムソン(Henry Lewis Stimson, 1867年9月21日 - 1950年10月20日)は、陸軍長官、フィリピン総督および国務長官を務めたアメリカの政治家である。保守的な共和党員であり、ニューヨーク市の弁護士でもあった。
彼は、ナチス・ドイツに対する攻撃的な姿勢のために、陸軍と空軍の責任者に選ばれ、第二次世界大戦期における民間人出身の陸軍長官として最もよく知られている。1,200万人の陸軍兵と航空兵の動員と訓練、国家工業生産の30%の物資の購買と戦場への輸送、日系人の強制収容の推進、また原子爆弾の製造と使用の決断を管理した。
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[編集] 経歴
[編集] 若年期
長い間共和党の政治に関与していたニューヨークの裕福な家庭に生まれ、マサチューセッツ州アンドーヴァーのフィリップス・アカデミーとイェール大学(1888年卒)で教育を受けた。そこで後の多くの人脈を与えた秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」に入会した。
1890年にハーヴァード・ロースクールを卒業し、1891年にウォール街の高名な法律事務所「ルート=クラーク事務所」に就職し、2年後に共同経営者となった。のちに陸軍長官と国務長官となるエリフ・ルートは、スティムソンにとっての理想像となり、大いに影響を与えた。
1893年にメイベル・ホワイト (Mabel White) と結婚したが、子供はいなかった。
1906年、セオドア・ルーズベルト大統領によりニューヨーク南地区の連邦検事に任命された。ここで彼は反トラスト法違反訴訟の検察官を務め、優れた成績を残した。スティムソンは1910年にニューヨーク知事の共和党候補として立候補したが、落選した。
[編集] 政界入り
スティムソンはウィリアム・ハワード・タフト大統領の下で1911年に陸軍長官に任命された。彼は、エリフ・ルートが始めた陸軍再編成を引き継ぎ、第一次世界大戦が広範に拡大する前に陸軍の効率を改善した。彼は戦災に見舞われたベルギーの人々の援助を主導した。合衆国参戦後の1918年8月に大佐に昇進し、フランスで砲兵士官を務めた。
1927年に、スティムソンはカルビン・クーリッジ大統領によって民間の交渉のためにニカラグアに派遣された。スティムソンはニカラグア人が「独立に付随する責任に適合しておらず、支持される自治にはさらに適合していない」と書いた。1927年から1929年までレオナード・ウッド将軍の後任としてフィリピン総督に任命された後、彼は同じ理由でフィリピン人の独立に反対した。
1929年から1933年まで、彼はハーバート・フーヴァー大統領の下で国務長官として仕えた。1929年に彼は、「紳士は互いの郵便を盗み見ない」と語り、国務省の暗号解読局MI-8を閉鎖した。しかし後年彼はこの姿勢を変え、暗号の解読を重視するようになった。
1930年から1931年までスティムソンはロンドン海軍軍縮会議の米国代表団の団長であり、イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドや日本全権若槻禮次郎などとの交渉の末、ロンドン海軍軍縮条約締結にこぎつけた。会議における若槻の「生命と名誉のごときは、これを顧みない」姿勢に感動したため、日本の要求に譲歩したとの批判を受けたが、卓越した弁護士としての技量により条約は批准された。翌年、ジュネーヴ軍縮会議の米国代表団の団長となった。
その同じ年、合衆国は日本の満州侵略に対して「スティムソン・ドクトリン」を公表した。内容は日本の満州への軍事行動を非難するものであった。すなわちケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)に違反するいかなる行動をも認めないとともに、軍事行動によって生じた条約や中国における勢力圏の変化を承認することを拒否するものであった。同時にスティムソン・ドクトリンはアメリカの中国における条約上の権利・権益を侵害するような取り決めを認めず、中国政策における「門戸開放」の方針を確認するものでもあった。
フーヴァー政権の終焉と共に私生活に戻ってからも、スティムソンは日本の侵略に対する強い反対論の率直な提唱者だった。
[編集] 陸軍長官復帰
1940年にフランクリン・ルーズベルト大統領はスティムソンを彼の以前のポストである陸軍長官に復帰させた。同時にやはり共和党員であるフランク・ノックスが海軍長官に任用されている。これらの人事は、危機的な世界情勢を背景に超党派の外交・安全保障政策を展開しようとの意図を持ったものである。スティムソンは、1,000万人以上の兵力にまでなる陸軍の急速で厖大な拡大を巧みに指揮した。
スティムソンは原子爆弾に関して、マンハッタン計画の長レズリー・グローヴズ准将を監督する主要な意志決定者だった。 ルーズヴェルトとハリー・S・トルーマンは共に、原子爆弾のあらゆる局面で彼の助言に従った。そして必要とされるときスティムソンは軍の意見を却下した。 例えばスティムソンは頭越しでグローヴズから受け取った原爆投下の目標リストのうち、文化の中心都市であるとして京都への投下を強行に反対しリストから外させた。 1945年8月6日、最初の原子爆弾の攻撃が広島を破壊した。
スティムソンは、ヘンリー・モーゲンソーによる、ドイツを脱工業化し小さい州に分割するモーゲンソー・プランに強く反対した。 この計画は、ナチの戦争犯罪に対する責任の嫌疑がかかった者は誰でも追放か略式手続きによる投獄をすることも目論んでいた。ルーズヴェルトは当初、この計画に対して同情的だったが、スティムソンの反対に遭い、さらに計画が漏れて大衆の抗議に受けるに至って、彼は方針を転換した。こうしてスティムソンはドイツにおける米国の占領地域の全体的な統制を維持した。
モーゲンソー・プラン自体は決して効力を発することはなかったが、初期の占領に影響を与えた。スティムソンはルーズヴェルトに、ロシアを含めたヨーロッパの10ヶ国がドイツの輸出入と原料生産に依存しており、そしてこの「エネルギーと活力と進歩主義」の民族によって支えられている「自然の贈り物」を「幽霊領土」あるいは「塵の山」に変えるがごときことは想像も及ばないと強く主張した。 しかしながら、彼が最も恐れたことは、あまりにも低い生活水準しか生めない経済状態のために、ドイツの人々の怒りが連合国に向けられて、そのために「ナチの犯罪とナチの教義と行為の邪悪さがあいまいになること」だった。 スティムソンは1945年の春に、ハリー・S・トルーマン大統領に同様の議論を迫った。
弁護士でもあったスティムソンは、主要な戦争犯罪人に対して適切な司法の訴訟手続きを行うよう(ルーズヴェルトとチャーチル双方の最初の願望に反して)強く要求した。彼と陸軍省は国際裁判所についての最初の提案を立案し、それは間もなく交代したトルーマン大統領から支持された。 スティムソンの計画は、最終的に1945年 - 1946年のニュルンベルク裁判に結びつき、国際法の開発に重要な影響を与えた。
ワシントンD.C.にある、民間の国際関係研究所「ヘンリー・スティムソン・センター」は、スティムソンの名にちなんで名付けられた。
スティムソンは、1950年に死ぬまで、タフト内閣の閣僚としては最後の生存者であった。
[編集] 外部リンク
- Obituary, New York Times, October 21, 1950
- Henry Stimson Center
- Hiroshima: diary excerpts
- Annotated bibliography for Henry Stimson from the Alsos Digital LIbrary
官職 | ||
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先代: ジェイコブ・ディッキンソン |
アメリカ合衆国陸軍長官 1911年5月22日 - 1913年3月4日 |
次代: リンドレー・ギャリソン |
先代: ユージン・アレン・ギルモア |
フィリピン総督 1927年 - 1929年 |
次代: ユージン・アレン・ギルモア |
先代: フランク・ケロッグ |
アメリカ合衆国国務長官 1929年3月28日 - 1933年3月4日 |
次代: コーデル・ハル |
先代: ヘンリー・ウッダーリング |
アメリカ合衆国陸軍長官 1940年7月10日 - 1945年9月21日 |
次代: ロバート・パターソン |
カテゴリ: アメリカ合衆国国務長官 | アメリカ合衆国陸軍長官 | 第二次世界大戦 | 1867年生 | 1950年没