ホロコースト否認論の考察
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歴史家や評論家の多くが「ホロコースト否認の現象」を考察している。これは次の2つの議論に分けられる。一つはホロコースト否認論者の手法に対する批判で、もう一つはホロコーストの証拠書類に関するものである。
目次 |
[編集] ホロコースト否認論者が用いている方法
否認論者の主張について回る論争の殆どは、伝えられるところでは「ナチス党率いるドイツ政府によって行われたホロコーストは決して存在しなかったのだ」という議論を提起することに集中している。「真実」や「証拠」と主張される(裁判の場で提出された証拠を含む)おびただしい数の記述が出されている。しかし独立調査においては、これらの主張は欠陥のある調査、偏向した証言、さらには慎重に偽造された証拠にさえ基づいていることが明らかにされている。ホロコースト否認論に対抗する人々は無数の例による詳細な説明を積み上げ、否認論者の差し出した証拠が改変されたものや作られたものであることを明らかにしている(下記およびニツコー・プロジェクトen:Nizkor Project参照)。ホロコースト否認論者によって出されている証拠は法廷での精密な調査に耐えられるものではない(フレッド・A・ロイヒターen:Fred A. Leuchterおよびデイヴィッド・アーヴィングen:David Irving参照)上に、独立して対等評価する論文審査制の雑誌(いわゆる査読誌)の基準も全く満たしていない。
インターネット上で否認論者の主張に対抗している活動家のケン・マクヴェイ(en:Ken McVay)は1994年のインタヴューにおいて、ホロコースト否認論者の「手口」を次のように表現している:
彼ら(否認論者)が「アウシュヴィッツでは誰も死んでいないということがK.K.キャンベル(K.K. Campbell)の有名な著書の82ページに書いてある」と挙げたら、アメリカ連邦議会図書館に行ってK.K.キャンベルのその本の82ページを開いてみるといい。そこには実際には「ダッハウではいい日和だった」ということが書いてある。議会図書館なんかに行っている暇のある人間なんてほとんどいないのだから、連中はこういうことを言うだけでごまかそうとする。だがこれを読んでみれば誰でも思うはずだ「間違いだって簡単に分かることなのにいったい誰がそんな嘘をつくのだろうか」と。-- Eye誌(オンラインウェブ雑誌)、1994年11月10日
ある場合には、示された事実が堅固でも、特定の議論に対するこれらの事実の妥当性が無意味かあるいは歪んでいる。例えば、第二次世界大戦後の冷戦下で、東ドイツ政府をその影響下においていたものの、第二次世界大戦中におけるナチス党主導下でのホロコーストの罪を積極的に認めていた西ドイツ政府と対立していたソヴィエト連邦当局によって「アウシュヴィッツに据えられた石碑には、「400万人の人々が(ドイツによって)この死の収容所で殺害された」と記されている。しかしソ連と対立していた西側諸国の歴史家、研究家はこの数字を決して信用したことがなく、アウシュヴィッツで殺害された人々の推定数は100万から150万の間で一貫している。
冷戦が終結し、それに伴いポーランドで共産主義政権が崩壊すると、ソ連政府により作成された前記の石碑の数字は110万人に差し替えられた。ホロコースト否認論者は、これこそまさにホロコーストの犠牲者数が誇張されている動かぬ証拠だと頻繁に主張するが、この石碑は西側諸国のどの歴史家のアウシュヴィッツ犠牲者の見積もりとも無関係である[1]。
異なる事実の合成によって誤った結論へ導されることもある。頻繁に使われるのは、非常に薄いガス室の扉の写真である。この写真はガス室が実際には人々の皆殺しには使用されなかったかもしれないという心証を与える。人々は殺されるくらいなら扉を破るはずだからだ。だが、この写真は実際のガス室の扉であっても、シラミ駆除のためのガス室に使われたものと推測されている。
[編集] ホロコースト否認論者が用いている方法
いわゆるホロコースト否認論者という呼び方は、ホロコーストを肯定する一派が押し付けたものにすぎない。実際には修正主義、あるいは(歴史)修正主義論者であると主張しており、これには十分な理由がある。そもそも歴史修正主義の起こりは、アウシュヴィッツに収容されていた収容者からの疑問の声である事を忘れてはならない。彼らが戦後の世論に驚き、異を唱えて起こした行動が修正主義の源流になっている。
また、同時にドイツの戦後処理を決定したニュルンベルグ裁判の正当性も歴史修正主義が問題提起している部分でもある。この裁判ではアウシュヴィッツをはじめとする収容所関係者の処罰も断罪されているが、多くの怪しい点を含んでいる。例えば、
・ソ連が提出した「アウシュヴィッツでの被害者数400万人」について裏付け資料は皆無
・チクロンBを用いた毒ガス殺人の死体が存在しない
・殺害の手順、状況などの証言が、証言者同士で、あるいは残存物証と一致しない
など、現代司法と照らし合わせれば、あまりに杜撰な証拠に基づいて裁かれている事がわかる。
例えば上の項目では
冷戦が終結し、それに伴いポーランドで共産主義政権が崩壊すると、ソ連政府により作成された前記の石碑の数字は110万人に差し替えられた。ホロコースト否認論者は、これこそまさにホロコーストの犠牲者数が誇張されている動かぬ証拠だと頻繁に主張するが、この石碑は西側諸国のどの歴史家のアウシュヴィッツ犠牲者の見積もりとも無関係である
などと述べているが、このソ連側資料に基づいてニュルンベルグおよび各戦後処理裁判が行われたのはまぎれもない事実であり、このことだけでも裁判をやり直す、あるいは歴史を修正するという価値があると考えるのが一般的である。
同時に、「より深くホロコーストを浸透させるため」に、虚偽のプロパガンダを行い、事実を隠蔽しようとする肯定側に、疑問の声を上げている。
・残存するアウシュヴィッツのガス室は残存するものを壊した上で「証言に基づいて再構築」されたもの
・にもかかわらず、来訪者にはオリジナルであると説明されている。
・これまで死体焼却の煙が写った写真が見つからなかった事に対し、CG処理した偽造写真を提示
このような悪質な手口に対し、論破し、異議を唱えるのも歴史修正主義のやむを得ない活動の一つである。つまり、ホロコースト否認論(正確には修正主義)とは、より正しい証拠、証人、証言によりもう一度歴史を見直すというのが主張の根幹にある。
[編集] 反ユダヤ主義としての否認
ホロコースト否認論者による出版物や声明の多くは反ユダヤ主義によって染められている。ホロコースト否認論に対する批評家は、主張や提出された証拠が中立的で学術的な提示を離れて見えすいた個人的な攻撃に終始している例を数多く引証している。このような言葉をインターネット上で検索してみればすぐ分かるように、ホロコースト否認論者はその対抗者を表現するのに「シオニスト協力者」とか「ユダヤ偏愛者」とかいった人種差別的な言葉を頻繁に使っている。
このような人間の悲劇が単なる空想に過ぎないと描写しようとする努力は、それに反する圧倒的な証拠が存在しているにもかかわらず、ホロコースト否認論者によって間断なく頑固に続けられているが、これについては学者や各国政府当局によってその動機が問われている。「なぜ人々はホロコーストを否認するのか?」という疑問である。1996年7月24日、ハロルド・コヴィントンen:Harold Covington(国家社会主義白人党National Socialist White People's Partyの指導者)の信書が多数のネオナチ支援者(多くは人種差別的思想を背景にしたホロコースト否認論者)に電子メールで送られた。このメッセージでコヴィントンは「なぜ?」という質問に対する最終的な答えとして、その対抗者や批判者によって用いられている方法でホロコースト否認論を説明した:
ホロコーストを除いたら何が残るだろうか?連中にとって大事なホロコーストがないとしたら、ユダヤ人とはいったい何だ?人類の歴史にとって最も大規模で皮肉なペテンを犯す国際的な無法者、暗殺者、不法占拠者の汚い小集団に過ぎない…数年前に私は歴史修正主義についてのテレビ番組を観たことを覚えている。そこではデボラ・リプシュタット(en:Deborah Lipstadt)の次のような趣旨の発言で終わっている。「ホロコースト修正主義の真の目的はナチズムを容認できる政治的選択肢の一つとすることにある。」私は通常ユダヤ人の言うことは一切信じないが、そのとき私がこう叫んだことを思い出す。「ビンゴ!その通りだ!このレディーに葉巻を一本!」 -- ハロルド・コンヴィントン「修正主義について」(ウィンストン・スミスen:Winston Smithのペンネームで書かれた)、「NSNet Bulletin」第5号1996年7月24日
[編集] 証明責任
ホロコースト否認論が不当だと広く捉えられているのは、「証拠の原則(en:Rules of evidence)」に則っていないからである。これは推論能力の基として認識される原則である。
ある命題や弁証を支持するためには、主張者は証拠を提示しなくてはならない。証拠の価値やそれが支持する結果はその本質による。例えば、噂は通常正当な証拠として認められないが、目撃者は証拠と認められる場合がある。他からの受け売りの話はは証拠として認められないが、申し立てられた問題を証明する公式で日付があり書名のある文書は証拠として認められる。証拠が提示されると、主張者の申し立ては一個の問題として扱われ、証拠は精査される。主張者には証明責任が生じる。主張者の対話の相手が主張者の証拠に疑問を呈したならば、対話者は自分自身の主張をしなくてはならない。例えば、これやあれやの証拠は偽物であるという主張である。こうなると証明責任は対話者の方に移ることになり、証拠基準は元の主張が立てられたのと同一程度となる(証明責任の転換)。主張者の証拠は一見自明なものとして、証拠としての価値能力においていかなる力をも持つことになる。対話者は主張者に異議を唱えるためにさらなる証拠を要求してそれでもって作られるような懐疑的推量や仮想の可能性に答えるというやり方は全くできない。もしこれが通れば、主張者の証明責任は不合理な水準に押し上げられてしまう。
ホロコーストのケースに上記のことを適用すると、生存者、目撃者、歴史家は全体として主張者と看做することができる。生存者や目撃者や歴史家が提示している証拠が圧倒的であること、「合理的な疑いを超える程度に(en:Beyond a reasonable doubt)」ホロコーストが起きたことが証明されていること、ホロコーストは彼ら主張者が起きたといっているような形で起こっていることは、教養ある者の間に広く定着している見解の総意である。主張者に対して彼らの提示した証拠がこれまで証明された以上に「完全に事実で」あることを証明せよと要求するのは、証拠が疑わしいと考えることのできる特に明らかな理由が存在しない限り、不合理である。もしもホロコースト否認論者がこの証拠に対して疑念を投ずるならば、証明責任は否認論者のほうに転換され、非常に高い証拠基準が要求される。否認論者は、ホロコーストが真正なこととして証明している証拠全体の主要な部分が何千という鑑識眼のある査定者によって捏造され、誤り伝えられ、誤解されているのだということを、すくなくとも「蓋然性の均衡(en:Balance of probabilities)」をもって証明しなくてはならない。それができるまで、論じるのが必要だと認められるだけの「証拠の原則(en:Rules of evidence)」を否定論者は満たすことがない。それまでは、ホロコースト否認論は不合理な見解であると認識され続けることになる。
これによって一般的にホロコースト否認論が陰謀論とは異なることがわかる。陰謀論は「証拠の原則(en:Rules of evidence)」に則ることを熱望しかつ提示されている証拠は不十分だからである。ホロコースト否認論者は不合理な証拠基準を設けようと試み、それによって歴史家の証拠が不十分であると批判することを可能としている。これこそホロコースト否認論者がホロコースト関連の学問を陰謀論と描写する所以である。しかし、ホロコースト否認論は別の種類の陰謀論と結びついていることがある。例えば、ホロコースト研究者は否認論者が虚構だと断言している出来事をさも事実であるかのように叙述する共謀をしているというものである。
[編集] 証明責任
証明責任が何かをわざわざこの項目で説明するのもご苦労な事だが、そもそも否認論者(修正主義)の主張は「肯定側の証明責任を追求する」ということに他ならない。
・400万人虐殺されたというがその論拠はない(当時は正確な人口統計すらない)
・ガス室で殺害されたと言うが当該の建築物に気密室の能力は備わっていない
・大規模な組織犯罪であるにも関わらず、計画書、指令書、通信など一切の文書が残っていない(当時ドイツの暗号は全て傍受/解読されていた)
・ガス室を証言した証人の一人は「青酸ガスに1分以上晒されても無事だった」
証言では「収容されて3日後にはほとんどの人が殺された」となっているが証言者自身は3年以上生き延びている、など荒唐無稽
(ちなみにアンネ・フランクも数年生き延びており、最後は病死している)
・チクロンBを用いたガス殺の死体、検死報告は一切ない
・アウシュヴィッツの各施設に備わっている焼却炉では400万人の死体を焼却する事はできない
・「収容者の生存率を上げよ」と言った指令書の存在を無視
枚挙のいとまがないが、あきらかに不合理な証拠をもとにホロコーストが断罪されている事がわかる。
これらの証拠については、少なくとも現代の視点で見れば有罪を示すものではない。さらに、お互いの証拠が矛盾するにもかかわらず都合の良い部分だけを抜粋し、証拠として用いており、このような手法は許されるべきではない。「証明責任」とはそもそも肯定側が負うべきものであり、修正主義とはそれについて検証を行い、資料の開示を求めているにすぎない。そのような証拠の検証を行った結果、通説にあるような600万人規模の虐殺、あるいは400万人と断罪されたアウシュヴィッツの虐殺は存在し得なかったという主張に行き着くだけである。時には事実を覆すような証拠の提示が必要なケースも当然あるが、根幹は肯定側の証拠不足、証明責任の不足が問題となっている。
つまり、証明責任を否認論(修正主義)にのみ求める行為は、まぎれもない責任転嫁であると言える。
[編集] ホロコーストの証拠
ホロコーストが存在したという証拠は、ひどく官僚的だったナチス党率いるドイツ政府及びドイツ軍自身によって詳細に書類化されている。ドイツやドイツの占領地域に進攻した連合軍や第二次世界大戦の終わりまでドイツに追従していた枢軸国によっても証拠がよく書類化されている。フィルム類やスチール写真は収容所の存在を証明している。また、連合軍が収容所に踏み込んだときに解放された囚人たちや付近の住人(その中には収容所内で労働する者もいた)の証言も収容所の存在を証明している。
ホロコーストはいくつもの国々で何年にもわたって行われた巨大な事業だった。ホロコーストはそれ自身の指揮統括組織によって行われていた。ドイツ政府は自らの敗色が濃厚となるとホロコーストの証拠を破壊しようと試みたが、ホロコーストに関する何トンもの書類を残した。戦争の終盤ナチス・ドイツの戦力は非常に急速に崩壊したため、ドイツ国内で証拠を消滅させる試みは殆ど不成功に終わった。
ドイツが敗北すると、何トンもの書類が押収され、各地の強制収容所の近くにあった死体を纏めて埋めた穴から何千もの遺体が完全には腐敗せずに発見された。この物的証拠と書類上の証拠には、収容所に列車でユダヤ人を送った記録、何トンものシアン化物やその他の毒物の整理整頓されたもの、残されていた強制収容所の建物が含まれていた。生存者からの聞き取り調査によって完全に状況が把握できるようになった。
提出された記録の結果として、主流的歴史家の全てはホロコースト否定論が歴史の真実と矛盾しているということで一致している。
- 画像[2]---数々の写真は大量にあるホロコーストの証拠の一部をなす。この写真では特別行動部隊(de:Einsatzgruppen)のメンバーがウクライナのヴィンニツァ(Vinnitsa)でその地の最後のユダヤ人を殺害しようと準備している。ユダヤ人は多数の死体をを埋める穴の前で跪かせられている。1941年の9月でユダヤ暦の正月に撮影された。これは特別行動部隊の兵士だった個人が所有していたアルバムにあったもので、「ヴィンニツァの最後のユダヤ人」という貼り紙がしてあった。ヴィンニツァとその周辺出身の28,000人のユダヤ人の全てが虐殺された。
[編集] 「ホロコーストの証拠」への反証
上記の「ホロコーストの証拠」の項目は、非常に興味深い。と言うのも、まさにこれまで肯定側がとって来た誤解を誘う手法を凝縮した内容だからである。
上記の内容に目を通せば、誰もがホロコーストを真実として考えざるを得ないような論調である。しかし、ひとつひとつ目を向ければ、恐ろしいほどのイメージ戦略に基づいた、虚言にすぎない事が理解できると思う。
まず第一に、ナチスドイツによるホロコーストが存在したという公式書類は、1枚も、ただの1枚すらも存在していない。何トンもの書類が連合軍により押収されたのは事実だが、この中にホロコーストの証明資料があったという発言は、歴史修正主義者側はもちろん、肯定側でさえも否定している。押収資料のうち裁判等で公開されたのは例えばゲッベルスの日記、断片的な将校の報告書など、部分的、間接的なものがほとんどである。このうちゲッベルスの日記については、多くの資料に「本物証明」をだしているアメリカでさえ承認していないほどの疑惑的なものであるし、将校の報告書なども、大筋を無視して逆の意図で読むなど、悪質な手口を行っている。そして、例えばホロコーストの指令書、計画書、報告書など、公式資料とされるものは一切見つかっていない。特に公式資料については、歴史修正者側が何度も提示を求めたにもかかわらず、提示がなされていないのである。
このように事実を無視して書かれている上記の項目は、少なくとも「証拠書類」に触れた部分はほぼ全て「虚言」だと断言できるのである。
次に、「各地の強制収容所の近くにあった死体を纏めて埋めた穴から何千もの遺体が完全には腐敗せずに発見された」と言う部分を見てみる。これは事実である。多くの収容所の近辺に墓地があり、死体も発見されている。しかし、ではこの中に「毒ガス死体」「銃殺死体」が含まれていたかと言うと「NO」である。多くは当時流行していた発疹チフス、あるいは連合軍の爆撃による交通網の遮断で起こった飢餓に起因する死亡者であり、虐殺の証拠にはならない。例えば終戦間際には大量のドイツ軍兵士が連合軍に捉えられ、収容所に収監されているが、実に100万人以上が餓死・病死しており、これは純粋な戦死者よりも多いのである。このような事情を考えれば、戦争を通じて数千人規模の死者がいる事はやむを得ない事情だったと言わざるを得ない。また、細かい事ではあるが、各収容所の埋葬地から発見された死体は多くても数百人程度というのが実情で、これも事実を誇張している。
同時に、この埋葬死体は、「収容所の死亡者は全て焼却し、灰にしてしまったから証拠がないのだ」とする別の肯定論者の主張とは矛盾しているとこも特筆しておく。
次に挙げられている、「フィルム類やスチール写真は収容所の存在を証明している。また、連合軍が収容所に踏み込んだときに解放された囚人たちや付近の住人(その中には収容所内で労働する者もいた)の証言も収容所の存在を証明している」という点にも言及してみよう。まず第一に、「収容所があった=大虐殺があった」ということではない、という認識が必要だ。収容所があった事と、大量殺戮という事件は、イコールではないのだ。この点を完全にすっ飛ばして、肯定側は「収容所=ホロコースト」という論調をとっていることに注意が必要だ。
さらに、大量の写真のうち、撮影者・撮影時期・撮影目的がはっきりしている、資料として確実な写真については、多くがホロコーストを否定している点に注目すべきだ。例えば、被害者の証言のひとつに、
「(アウシュヴィッツでは)死体を焼く焼却炉の煙は空を覆い尽くすほどであり、煙が上がらない日はなかった」
との内容の証言があるが、そのような煙が上がっている写真は一切ないのである。
他にも、後に出てくる画像6を見てほしい。説明では「4つのチクロンB投入口」と書かれているが、一番右の煙突はあからさまにおかしい事がわかるだろう。また、この建物を上空から写した航空写真では、長さ4m、幅1mもある「投入口」として写っている。チクロンBの缶は大きいものでも直径10cm、長さ35cm程度で、もちろん4mもの長さが必要なものではないし、写真6とは矛盾する。さらに、連合軍が召還した被害者の証言では柱状のものは3本、証拠として提示されたSS少佐の報告書でも3本となっている(この報告書もホロコーストの証拠としては数多くの疑問が残る)。もちろん、写真・証言・証拠、どれも同一の建物(クレマII)についてのものであるが、それぞれがおかしな部分を孕んでおり、さらにお互いが矛盾するのである。
このように、証言を否定するような内容のものであっても、「証拠写真」と言い切る手法には強い警戒が必要だ。
また同時に、「大量殺戮をしている現場写真」などのばあいは、なぜか死体がぐにゃぐにゃした得体の知れないものだったり、おそろしくピントが合っていなかったり、撮影時期が不明であったりと、証拠能力を欠くものばかりである。中には、イギリス軍がブルドーザーで死体処理している現場を写し、異なる説明をつけてホロコーストの証拠とするような悪質なものもある。
今度は写真にも挙げられているウクライナの事例を見てみる。
ウクライナでは長年ウクライナ人と流入したユダヤ人での闘争が続いていた。ナチス進駐以後も、ウクライナ人によるユダヤ人迫害はひどく、ナチス将校がウクライナ人のユダヤ迫害の苛烈さに驚いたという証言や、ユダヤ協会がドイツの指揮官にウクライナ人の取り締まりを依頼したという記録さえ残っている。ナチスが率先してユダヤを虐殺していたのなら、どちらの証拠もあり得ないだろう。とすれば、その地区のユダヤ人をすべてナチスが虐殺したと言うのは事実に反する。また写真自体も証拠能力がなく、写真だけで「大量虐殺」かどうかは判断できないし、裏付ける文書資料もない。
以上を取りまとめて考えた場合、通説にあるようなホロコーストの存在はなかったと考えるのが普通であると思われる。上記では「主流的歴史家の全てはホロコースト否定論が歴史の真実と矛盾しているということで一致している」とあるが、ホロコーストに関しては、肯定側の「主な歴史家」とはすべからくユダヤ人であるし、なぜか年々被害者数が減っているという事実にも注目すべきだ。そして、証拠をもとにして推論を重ねれば重ねるほど、ホロコーストを全否定はできないにしても、ニュルンベルグ裁判のやり直し、歴史の見直しが必要であると言える。
[編集] ホロコーストにおけるヒトラーの共謀の証拠
- 主張: アドルフ・ヒトラーやナチス高官がユダヤ人を絶滅させるために下した明確な命令はない。
ホロコースト否認論者は、アドルフ・ヒトラーによって書かれたり署名されたりした露骨で議論の余地のないほどの命令書、すなわちドイツやポーランドのユダヤ人を殺害する特別命令が存在しないことを挙げている。これを批判する人々はこの主張に対し、ナチスの文書には彼らの行動を扱うときには「殺害」や「死」といった明確な用語を用いているものは殆どないことを指摘している。殆どいつもナチスの人間は「ユダヤ人の絶滅」でなく「ユダヤ人問題の最終解決(de:Endlösung der Judenfrage)」といった暗示的な言い回しを使って話したり書いたりしていた。ヨーロッパのユダヤ人を殺害する意図に関してヒトラーの発言の中で最も多く引用されるものは、彼が1939年1月30日にドイツ帝国議会で行った演説である。そこでは次のように述べられている:
「本日、私はいま一度預言者となろう。もしヨーロッパ内外の国際的ユダヤ人資本家が諸国を再度の世界戦争に陥れることが成功したら、その結果は地球のボリシェヴィキ化やそれによるユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅である。」[3]
ここに掲げられたものはナチス・ドイツ占領下のポーランドで行われた囚人処刑に関して、ヒムラーからヒトラーへ送られた報告書の写真である。これはニュルンベルク裁判の際に、ユダヤ人やその他の処刑対象となった人々に関するヒトラーの認識や是認があったことの証拠として提出されたものである。
[編集] 殺害のためにガス室が使用された証拠
- 主張: ナチスはユダヤ人を大量殺害するガス室を使用していない。シラミ退治のための小さなガス室は存在し、チクロンBはこの過程で使われた。
ホロコースト否定論者は、民間人を虐殺するために建設されたというガス室は決して存在せず、ガス室とされている構造物は他の目的に使用されたものであると主張している。しかし、さらに一般の議論として、ガスはユダヤ人や他の犠牲者を殺害するのに使われたのではなく、またガス室の多くは戦後にわざわざ公に見せるために建設されたものだというものがある。この主張を強めるものとしてしばしば引き合いに出されるのがフレッド・ロイヒター(en:Fred A. Leuchter)によるロイヒター・レポートである。この報告書は1988年にアウシュヴィッツのガス室で採取された標本を検査したところ、シアン化合物が一切検出されなかったというものであった。これは一般の議論を促進する戦術に使われた。例えば、1988年にシアン化合物が検出されなかったのだから、それから40数年前もアウシュヴィッツではシアン化合物は一切使用されなかったのだというものである。50年近く前に使われたシアン化合物の痕跡を見つけるのが困難であっても、1990年2月にクラクフ法医学研究所所長のヤン・マルキェヴィチ(pl:Jan Markiewicz)教授は再度解析を行った[4]。マルキェヴィチ教授と彼の調査チームは「マイクロディフュージョン法(en:microdiffusion)」を使ってアウシュヴィッツ内にある殺人用ガス室だと疑われるもの、シラミ駆除用ガス室、管理棟のそれぞれから採取した標本中のシアン化合物を調べた。照査標本では陰性の結果が出たが、シラミ駆除用ガス室と殺人用とされるガス室からシアン化合物の残留物が検出された。検出されたシアン化合物の量は標本によって大きな違いがあった(おそらく50年にもわたって風雨にさらされたことが標本の違いの原因と思われる[5])が、シアン化合物が見つかるべきところから見つかり、照査標本からは検出されなかったということは絶対的な結果である。
アウシュヴィッツやその他の絶滅収容所で使用されたシアン化合物は害虫駆除剤チクロンBを活性化することで生じたものである。これは何千という単位の人々を皆殺しにするために使用された。さらに詳細な調査によって明らかになったことは、この事業のうち最も困難な部分というのは処刑が行われた後で何千という死体の処理であったことである。そこで死体を焼却する巨大な焼却炉の建設が必要になった。
ホロコースト否認論者のもう一つの主張は、チクロンBが投入された穴がガス室には存在していなかったということである。ロイヒターの言葉を借りれば、「穴がなければ、ホロコーストもない」ということである。英国放送協会(BBC)はそれに応えて、この主張を通すなら大量の書類を無視しなければならないことを示している:
否認論者は、物理的証拠がないのはビルケナウのガス室の屋根の上にはチクロンが大量に送り込まれた穴が一つもなかったからだと何年もの間主張してきた。(ガス室のいくつかではチクロンBは屋根を通じて送り込まれたが、他のガス室では窓から投げ込まれた。)屋根は戦争の終わりにダイナマイトで爆破された。そして今日ばらばらになって放置されている。しかし最初に4つあった穴のうち3つは新しい書類ではっきりと確認されている。それらの穴の位置は目撃者の証言、1944年に撮影された航空写真、1943年に地上で撮影された写真と具体的に一致している。この物的証拠は、チクロンが投入された穴は建物が建設されたときにコンクリートの外壁に空けられたものであることを明白に示している。
ホロコースト否認論者が頻繁に疑問を呈しているもう一つの証拠は死体が焼却された後の灰はどうしたのかということである。例えば「歴史見直し研究所(en:Institute for Historical Review、略称IHR)」のホロコーストに関する疑問リストを参照。1体の死体を焼却したときに生成される灰は靴箱1つを一杯にするくらいであり、その処理は難しいことではない。ある程度の量の灰が近くの川や沼地に積まれていたことはアウシュヴィッツの航空写真が示している。またその他の灰は近くの畑で肥料として使われたということが詳細に書類化されている証拠が存在する。トレブリンカの写真は収容所長によって撮影されているが、これには大量の灰が掘削機で一面に撒かれているところが写っている。
一般の多くのホロコースト否認論では、ガス室に関する主張は、上記のアウシュヴィッツの石碑の例のような誤った説明に基づいているということである。例えば「歴史見直し研究所」は、ガス室に関するホロコーストの証言は当てにならないと主張している。「歴史見直し研究所」によると、「ヘスはその自白の中で、ガス処理をした後10分してユダヤ人たちの死体をガス室から引き出すとき、彼の部下はタバコを燻らしていたと言っている。チクロンBは爆発物ではなかったのか?間違いなく爆発物である。ヘスの自白は明らかに虚偽のものである。」この主張は疑いなく間違いである。ニツコー・プロジェクトやその他の情報源が指摘しているように、チクロンBが爆発性であるための最低限の濃度は56,000ppmであり、それに対して人間を殺害するのに使用される量は300ppmである。このことはメルク・インデックス(The Merck Index)やCRC化学物理ハンドブック(CRC Handbook of Chemistry and Physics)のような一般の化学物質の参照ガイドにはどれも明示されている。事実ナチス自身の書類でも「爆発の危険: 1立方メートル当たり75グラムのシアン化水素(HCN)。通常の使用量1立方メートル当たりおよそ8-10グラムは、したがって爆発性はない。」(ニュルンベルク裁判資料番号NI-9912)
他の例は、「ビルケナウ(アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の一部)のガス室や火葬炉とされている場所では、そのような大きさの建物の残骸に相当する充分な量の瓦礫が存在しない。」という主張である。歴史家たちは解放後に地元のポーランド人農民が戻ってきて、冬になる前に家を再建するための材料を必要としていたため、再利用できるレンガを残骸から大量に持ち去ったと指摘する。廃物を利用した人々が使えるレンガを探したときに投げ捨てた大量の廃棄物が火葬炉の場所の近くに残っている。
「歴史見直し研究所」は「殺人を目的としたガス室がアウシュヴィッツに存在したという(検証可能な)証拠」に対して50,000米ドルの賞金を公に提示した。アウシュヴィッツの生存者メル・メーメルスティーン(en:Mel Mermelstein)は証拠を提出したが、それは無視された。そこでメーメルスティーンは「歴史見直し研究所」を相手に訴訟を起こし、もとの50,000米ドルの賞金と、さらに個人的苦痛に対する損害賠償としての40,000米ドルを受け取った。裁判所は、ホロコーストが発生したことは法的に争う余地のない事実であると宣告した。
- 外部リンク: ユダヤ人に対する「矯正手段」としてのガス処理(英語、ドイツ語)
- 外部リンク: ロイヒター・レポートに対する細目にわたる反駁(英語)
- 画像[6]---1943年2月9日から2月11日の間にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で撮影された写真。当時建設中だった第2死体焼却炉複合施設のガス室が撮影されている。チクロンBが投入された4つの煙突状の構造物がはっきりと見える。
[編集] 死者数の証拠
- 主張: ユダヤ人の死者600万人という数字は無責任な誇張である。ロシア、イギリス、イスラエル、アメリカ合衆国へ移住したユダヤ人がその中に含まれている。
[編集] 「600万人」という数字
「600万人」(絶滅対象となった民族的集団、宗教的集団、少数民族や身体的、精神的障害者まで勘定すると実際は1100万人近くに達する)という数字については、しばしば死者は100万人だけだ、あるいは「戦時死傷者」は30万人だけだという風に、より少なく主張されることがある。戦後保管されたり新たに発見されたりした無数の文書によって(アウシュヴィッツやトレブリンカen:Treblinka)「死の収容所」で起こった絶滅行為に関して微細な点にわたる説明が得られている。否認論者はこれらの文書はイリヤ・エレンブルグ(Ilya Ehrenburg)の「ソヴィエト反ファシスト連盟」を初めとしたソ連の反ファシスト(=反西側諸国)プロパガンダに基づくもので、当然のことながら信頼できないと主張している。
死の収容所での死者数は誇張されていると主張される複数の例が報告されていることは、事態を複雑にしている。死者数について曖昧な点があると否定論者たちはそれに必ずとびつき、彼らの見解の正しいことを証明するものとして利用している。それにもかかわらず、莫大な数の死者が出たという証拠は主流的な情報源によって示されており、圧倒的である。
死者数についての論争のうちしばしば引用される例の一つとして「ブレイトバード文書」(Breitbard Document)がある[8]。作成者の実名はアーロン・ブレイトバート(Aaron Breitbart)である。この文書はアウシュヴィッツの「1940年から1945年の期間にナチの殺人者の手によって400万の人々がここで苦しみ亡くなった」と記されている犠牲者のための記念碑について述べている。1990年にはこの記念碑は新しいものに替えられた。現在のものには「その多数はヨーロッパの様々な国から連れてこられたユダヤ人であった150万の男性、女性、子供たちがこの地で人知れず殺された。願わくばこの地が永遠に人類にとっての絶望と警告の叫びならんことを。」と記されている。
サイモン・ヴィーゼンタール・センター(en:Simon Wiesenthal Center)によると、犠牲者の数が以前の石碑の場合と比べて少なく表されるようになったのは、ソ連が「アウシュヴィッツ=ビルケナウでの非ユダヤ人の死者数を意図的に誇張していた」からである。ホロコースト否認論者たちはこの数字の不一致にとびつき、殺されたユダヤ人の数は少なくとも実際より250万は少ないはずだと主張した。歴史家たちがこの統計を使って全体の死者数の合計を得たのだという否認論者たちの推定が正しければ、否認論者たちの主張は部分的には正しいことになる。しかし、否認論者たちは次の事実を無視している:
- ソ連によって示された400万という数字は、約200万人の非ユダヤ人をそこに含んでいること
- 歴史家たちはいずれにしてもその400万という数字を殺されたユダヤ人を計算するのに用いていないこと
[編集] ユダヤ人の人口
否認論者たちは、重大な問題はホロコーストの前と後でのユダヤ人の人口だと考えている。彼らは、1940年版のワールド・アルマナック(The World Almanac)では、ユダヤ人人口は15,319,359人と示されているのに、1949年版のワールド・アルマナックでは15,713,638人と示されていると主張している。否認論者の見解ではこれでは600万人ものユダヤ人が死んだことはありえない。たとえ出生率が非常に高かったとしてもである。そのため、否認論者たちはこれらの数字のどこにも誤りがないなら、何百万人ものユダヤ人の計画的絶滅を意味するホロコーストは起きていたはずがないと主張している。
しかし、これはこの手の事例の典型的なものなのだが、ホロコースト否認論者によって提示されたこの証拠は精密な再調査に耐えうるものではない。事実、1949年版ワールド・アルマナックでは世界におけるユダヤ人人口は11,266,600人となっている。その上さらに、ワールド・アルマナックは1939年における世界のユダヤ人人口を上方修正して16,643,120人としている。したがって、1949年版ワールド・アルマナックによれば、戦争の前と後での人口の違いは540万人となる。
加えて、ホロコースト否認論者たちはもっと正確な人口調査の数字その他の記録を使う代わりに評価方法の不明な一般的概説に頼っているが、そういった概説による見積もりはものによって著しく異なっているのである。例えば、1982年版ワールド・アルマナックでは世界のユダヤ人人口は14,318,000人となっているが、1990年版では18,169,000人となっており、1996年版では13,451,000人となっている。1982年から1990年の間に370万人のユダヤ人が人知れず出現し1990年から1996年の間に450万人のユダヤ人が同様に人知れず消失したのか、それともワールド・アルマナックが世界のユダヤ人人口を正確に見積る目的においては特に信頼できる情報源ではないか、のどちらかである。
最後に、ホロコースト否認論者は情報源を選択する傾向が非常に強い。他の情報源でも戦争前後のユダヤ人人口はものによって非常に異なっている。例えば、1932年のアメリカユダヤ人年鑑では世界のユダヤ人人口を15,192,218人とし、そのうち9,418,248人がヨーロッパに居住しているとしている。しかし、1947年版の年鑑では、「世界のユダヤ人人口の見積はアメリカユダヤ人統一送金委員会(The American Jewish Joint Distribution Committee)によって整理された(アメリカ合衆国とカナダを除く)。そしてこの見積は現在得られる様々な見積の中では最も信ずべきものである。この数字は、ナチスによる550万人以上のヨーロッパ・ユダヤ人絶滅の結果世界のユダヤ人人口がその3分の1を失い1939年の約16,600,000人から1946年の約11,000,000人にまで減少したということを明らかにしている。ヨーロッパでは戦前のユダヤ人人口約9,740,000人のうち推定3,642,000人しか残っていない。」と記されている。
この選択性向はホロコースト否認論者がナチス自身によって作成された文書でさえもしばしば無視してしまう事実につながっている。ヴァンゼー会議でのメモに明示されているように、ナチスはヨーロッパのユダヤ人人口については900万から1100万という数字を使用していた。事実、コルヘア報告(en:Korherr Report)にあるように、ナチスは進行中のユダヤ人人口減少を几帳面に記録していた。コルヘア報告では1942年12月中の「最終的解決(en:Final Solution)」の進行状況が示されている:
1937年における世界のユダヤ人総人口は一般的に1700万人前後と見積もられており、そのうち1000万人以上がヨーロッパにいる…1937年から1943年初頭にかけてユダヤ人の数は、部分的には中央ヨーロッパや西ヨーロッパにおける過度のユダヤ人死亡率により、部分的にはここでは脱出した分と数えられているがとりわけより人口の多い東方領土への避難により、推定400万人減少したはずである。だからといって東ヨーロッパ占領地域におけるソヴィエト=ロシア・ユダヤ人の死者についてはその一部しか記録されていない事実は見過ごされてはならない。ヨーロッパ・ロシアの他の地域や前線における死者はまったく含まれていないのである…全体として1933年から、すなわち国家社会主義ドイツ労働者党政権初期の10年間においては、ヨーロッパのユダヤ人はその人口の半分を失ったことになる。
[編集] ドイツ政府による資料化
ナチス党率いるドイツ政府自身は多くの犯罪をその文書で証明している。例えば、親衛隊大隊指揮官へルマン・ヘフレ(de:Hermann Höfle)が1943年1月11日にベルリンの親衛隊上級大隊指揮官アドルフ・アイヒマンに宛てて送った「ヘフレ電報(en:Höfle Telegram)」では、ラインハルト作戦(de:Aktion Reinhardt)で4箇所の収容所で殺害されたユダヤ人が1942年中だけで1,274,166人記録されている。一方親衛隊統計官によって資料編集されたコルヘア報告では、控えめな数字として総勢2,454,000人のユダヤ人が絶滅収容所に追放されるか特別行動部隊(Einsatzgruppen)によって殺害されたことが示されている。
特別行動部隊という殺人部隊の状態を完全に把握した報告書は、アメリカ陸軍がゲシュタポの文書保管所を捜索した際に発見された。戦争犯罪裁判などで証言した元特別行動部隊隊員によってその正確性は証明されている。これらの報告書はさらに追加して150万人程度の大量射殺が行われたことが記録されている。犠牲者の大半はユダヤ人であった。その上にまた、残されたドイツ政府の資料ではヨーロッパ・ユダヤ人の殺害計画が詳細に説明されており(ヴァンゼー会議参照)、各地の死の収容所に到着した列車が記録されており、多くの虐殺の写真や映画が存在した。
- 画像[9])---ヘフレ電報(Höfle Telegram)。これは、ルブリンの親衛隊大隊指揮官ヘルマン・ヘフレ(Hermann Höfle)によってベルリンの親衛隊上級大隊指揮官アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)に宛てて1943年1月11日付けで送らているもの。ここでは、ラインハルト作戦(Einsatz Reinhard)の最初の年である1942年にルブリン(マイダネクMajdanek)、ベウジェツ(Bełżec)、ソビブル(Sobibór)、トレブリンカ(Treblinka)の4箇所の強制収容所で合計1,274,166人が死亡したことが報告されている。この電報は2000年にイギリスのキュー(Kew)にある第二次世界大戦の資料を保管している公文書庫で発見された。ヘフレ電報にある数字は1943年1月18日に親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)によって下された命令により統計局のリヒャルト・コルヘア(Richard Korherr)博士が作成して同年3月に発表されたいわゆるコルヘア報告(Korherr Report)の内容と調和していることが分かった。
[編集] 証言
ホロコーストを生き延びた何千という人々による証言は、捕まったドイツ政府高官たちがニュルンベルク裁判やその他の機会に行った証言と共に、もっとも有力な証拠となっている。
ホロコースト否認論者たちは、これらの証人は拷問を受けたこと、ナチス党員のルドルフ・ヘスは知らない言語(英語)で書かれた「血染めの自白調書」に署名させられたと伝えられていること、ニュルンベルク裁判は適切な司法手続きに則っていなかったことを主張して、これらの証言を無視している。こういった主張はまた、公に入手できる資料をも無視している。例えばヘスの証言は署名された自白調書だけで構成されているのではない。ヘスは裁判にかけられる前に2部にわたる回想録を書いており、ニュルンベルク裁判以外の場でも広範囲にわたる証言をしている。さらに、ヘスの証言はペリー・ブロード(Pery Broad)のような元アウシュヴィッツ職員による書面による説明とも矛盾していない。ブロードはヘスが所長だったときアウシュヴィッツに配置されていた。ヘスの証言は、ヨハン・クレーマー(Johann Kremer)によって綴られた日記や、何百人もの収容所警備官や犠牲者による証言とも合致する[10]。
結果としてホロコースト否認論者たちは、偽造された書類をヨーロッパ大陸全体で定着させる大規模な「ユダヤ人の計画」といったような陰謀論を造りだす必要に迫られている。そのためには、ニュルンベルク裁判の法廷で証言したドイツ政府高官、ドイツ軍兵士やナチス親衛隊員、強制収容所職員に対しての拷問や自白の強制があったことは彼らにとって当然の前提となる。
[編集] 参考文献
- Deborah Lipstadt, Denying the Holocaust: The Growing Assault on Truth and Memory, Plume (The Penguin Group), 1994.
- Richard J. Evans, Lying About Hitler: History, Holocaust, and the David Irving Trial, Basic Books, 2002 (ISBN 0465021530).