ヨーン・ウッツォン
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ヨーン・ウッツォン(Jorn Utzon, 1918年4月9日- )はデンマーク・コペンハーゲン出身の建築家。シドニー・オペラハウスの画期的なデザインで高く評価されている建築家である。
彼はコペンハーゲンの造船技師の息子として生まれ育った。コペンハーゲンのロイヤル・アカデミーで建築学を学び、卒業後に世界各地の伝統的な建築手法を学んだ。自宅の設計を皮切りに多くの住宅を設計したほか、建築設計競技にも多数参加した。
1957年、彼はオーストラリア・シドニーに建設される予定のオペラ・ハウスの建築設計競技に応募し思わぬ勝利を収め、世界の建築界に鮮烈なデビューを飾った。これは彼がデンマークの国外で手がける最大級にしてはじめての仕事であり、しかも彼が提出した設計案は図面ではなくアイデアを書き留めたドローイング程度に過ぎないものだったため、応募基準に合わないと一旦落選していた。審査委員だった建築家エーロ・サーリネンがコンクリートの自由な造形で建物を覆い支えるアイディアを気に入り、最終選考に復活させ強く支持したとされる。
以後数年間、ウッツォンはオペラ・ハウスの建設の指揮と設計の修正に取り組んだ。当初のコンセプトにあった二つの大ホールを覆う巨大な放物線状のコンクリート・シェルのデザインに大幅な変更を加えて現在見るような球面を組みあわせたような形に変えつつ、不可能とされたコンクリート・シェルを実際に建てるための案を確立していった。
ウッツォンは内装についても設計案を作っていたが、この部分は不本意な形で中止されてしまった。1965年の半ばの選挙で、建築主であるニューサウスウェールズ州政府の首相がロバート・アスキンに変わり、ウッツォンは新内閣と衝突するはめになった。建設半ばにもかかわらず、建設費が当初の予算を大幅に上回っていることについて、公共事業相のデイヴィス・ヒューズはウッツォンにデザインやスケジュール、費用についての考えを問いただし、彼がウッツォンに対する支払いを止めたことをきっかけに、1966年2月にウッツォンは設計者の地位を辞任した。彼はシドニーに移した事務所を引き払ってオーストラリアを去り、以後二度と戻っていない。デンマークに戻る途中、彼は地中海のマリョルカ島に立ち寄ってその風光に印象を受け、後に妻のリズの名をとった夏の別荘を建てている。
シドニー・オペラハウスはその後を引き継いだ建築家チームの手で完成し、1973年に女王エリザベス2世によって開館し、以後世界的に著名な建築として親しまれている。
2003年、ウッツォンはオペラハウス設計の栄誉をたたえられ、シドニー大学から名誉博士号を授与された。高齢で旅行ができないウッツォンに代わり息子が受け取ったが、同時にウッツォンに対しオーストラリア勲章やシドニー市の鍵なども授与された。彼はさらに、2000年、オペラハウスの一部内装の再デザインの合意を交わし、当初の内装案をレセプションホールに実現する作業に取り組んだ。同じく2003年、ウッツォンは建築界の最大の栄誉であるプリツカー賞を受賞している。現在は引退し、スペインで過ごしている。
[編集] 作品
- シドニー・オペラハウス (1957年-1973年、シドニーを代表する建築)
- Planetstaden の公共住宅(1958年、ルンド、スウェーデン)
- Kingohusene の公共住宅(1960年、エルシノア、デンマーク)
- クウェート議会(1972年)
- Can Lis(1972年、ウッツォン夫婦の別荘、マリョルカ島、スペイン)
- Bagsværd(バウスベア)教会(1976年、コペンハーゲン)
- Paustian(パウスチャン)社のインテリアショップ(1987年、コペンハーゲン)
- Can Feliz(1995年、ウッツォン夫婦の別荘、マリョルカ島、スペイン)